1-18 2人の母

 航が美由紀と別れを告げた1時間ほど前―


朱莉は1人でマンションへと帰っていた。ダイニングテーブルの椅子に座り、1人でお茶を飲みながら壁に掛けてある時計を見ると、時刻はもうすぐ20時になろうとしている。窓の外では先程から雨が降り始めていた。


「明日香さんと蓮ちゃん・・・雨なのに大丈夫かな・・・。」


朝、出かけるときは快晴だった。天気予報では雨は夜9時以降と発表されていたので蓮に傘は持たせていなかった。


「明日香さんに連絡入れてみようかな・・。」


朱莉がスマホに手を伸ばしかけた時―。


ピンポーン


マンションのインターホンが鳴った。


「蓮ちゃんと明日香さんだわっ!」


朱莉は椅子から立ち上がると急いで玄関へ向かい、ドアアイも確認せずにドアを開けた。


「只今、朱莉さん。」


そこには蓮をおんぶした明日香が立っていた―。




「お疲れさまでした、明日香さん。」


朱莉はテーブルの椅子に座っている明日香にコーヒーを淹れると言った。


「ありがとう。」


明日香はいれたてのコーヒーに手を伸ばし、フウフウと冷ましながら一口飲んだ。


「まさか蓮が疲れて眠ってしまうとは思わなかったわ。でも考えてみればまだ4歳ですものね。」


明日香はリビングのソファの上で肌掛け布団を掛けて眠っている蓮を振り返りながら言った。


「そうですね。小さな子供は疲れると眠ってしまいますから。フフ・・ご苦労様でした。それで・・・どうでしたか?今日1日蓮ちゃんと一緒に過ごしてみて。」


てっきり朱莉は明日香の口からは疲れたとか、大変だったとの言葉が出て来ると思っていたのだが・・・。


「そうね・・・。悪くは無かったわ・・・・と言うか、楽しかった。」


「そう・・・なんですか?」


朱莉は目を見開いた。昔の明日香は子供が嫌いで・・疲れるような行動を取ることすら嫌っていたのに、今朱莉の目の前にいる明日香は本当に別人のように見えた。


「あら?どうしたの?朱莉さん・・・。そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔して・・。」


「え?わ、私・・そんな顔していましたか?!」


朱莉は慌てて両手で頬を抑えた。


「何言ってるの、ほんの冗談よ、冗談。」


明日香はクスクスと笑いながら言う。


「それにしても明日香さん、蓮ちゃんにお土産まで買ってくれたんですね。ありがとうございます。」


眠っている蓮の傍らには大きなペンギンのぬいぐるみが置かれている。


「ええ、蓮がとてもペンギンショーを気に入ってね。ショーが終わった頃には僕、大人になったらペンギンの飼育員さんになりたい!なんて言い出したのよ。」


「そうだったんですか?」


「そうなの。それでお土産屋さんに2人で行ったら、蓮があのペンギンのぬいぐるみを食い入るように見ていたから買ってあげたのよ。フフ・・大喜びしてくれたわ。」


穏やかな笑顔で語る明日香は幸せそうだった。そして、明日香は一度俯き・・再び顔を上げると言った。


「朱莉さん、私が東京にいる間・・土日は蓮と2人で過ごさせて貰えないかしら?お願い・・!今まで私は少しも母親らしい事をあの子の為にしてこなかった。だから・・今からでも連の為に、お母さんをやりたいのっ!お願いっ!」


そして頭を下げてきたのだ。流石に朱莉は驚き、必死に言った。


「ま、待って下さい。明日香さん。どうか・・どうか頭を上げて下さいっ!


「朱莉さん・・・。」


「明日香さん。蓮ちゃんの本当のお母さんは・・貴女です。なので私に許可を取る必要はありませんよ?尋ねるなら・・・蓮ちゃんに聞いて下さい。蓮ちゃんが明日香さんとお出かけすると言うなら、私は何も言う事はありませんので。」


朱莉は蓮を見ると言った。


「今夜は・・・もう遅いので、蓮ちゃんは目を覚ます事は無いでしょう。明日の朝、私から尋ねてみますね?土日は明日香さんと過ごす事にしてもいいかどうか・・・。」


「朱莉さん・・・ありがとう・・・。」


明日香は朱莉に頭を下げた―。




夜10時―


朱莉は眠ったままの蓮の服を脱がせ、パジャマに着替えさせた。余程蓮は疲れていたのかぐっすり眠っており、パジャマに着替えた後も目を覚ます事は無かった。


「蓮ちゃん・・・。」


朱莉は眠っている蓮の小さな右手をそっと握りしめた。すると無意識の行動なのか、蓮も朱莉の手を握り返してくる。


「蓮・・ちゃん・・・。」


蓮の小さくて温かく・・柔らかい手を握りしめているうちに、朱莉の目に涙が浮かんできた。


(ひょっとすると明日香さん・・・東京を離れる頃には蓮ちゃんを連れて行くって言い出すんじゃ・・・。)


でも、仮に明日香からそのような申し出があったとしても朱莉にはそれを拒む権利は無かった。それは所詮、朱莉は翔にとってのただの契約妻であり、蓮は自分の実の子供ではないからだ。


朱莉はいつまでも蓮の手を握りしめ、肩を震わせて涙した。

外はいつの間にか雨脚が強くなっていた―。



 


 翌朝7時―


「蓮ちゃん、起きて。もう朝よ。」


朱莉はベッドで眠っている蓮を揺り起こした。


「う~ん・・・。」


蓮はベッドの中で2、3回寝返りを打つと驚いたように目を開けた。


「え?!お母さん?僕・・いつの間にベッドで眠っていたんだろう・・?」


蓮は首を傾げながら言う。


「フフ・・蓮ちゃん。昨夜余程疲れたのね。明日香さんが眠ってしまった蓮ちゃんをおんぶして帰って来たのよ?」


「え?そうだったの?僕・・全然気づかなかったよ。」


「そうね。ぐっすり眠っちゃっていたから。」


朱莉は幼稚園の準備をしながら言う。


「あれ?でも僕パジャマ着てるよ?」


「お母さんが着がえさせてあげたからよ?それでも蓮ちゃんは起きなかったんだから。」


「そうだったんだ・・・。僕、お腹すいちゃった。」


「そう?それじゃすぐに朝ごはん用意するわね?」


朱莉は蓮の着がえを手伝いながら言った。


「ねえ、お母さん。今日の朝ごはん何?」


「今日はねえ・・蓮ちゃんの好きな目玉焼きにする?」


「やった!僕目玉焼き大好きっ!」


蓮はベッドから飛び起きると朱莉に飛びついた。


「ふふ・・蓮ちゃんたら。」


朱莉は蓮の小さな体を抱きしめ、頬を摺り寄せると言った。


「蓮ちゃん。大好きよ。」


「うん、僕もお母さん大好き。」


―お母さん大好き―


後、どの位蓮からその言葉を聞くことが出来るのだろう・・。

その事を考えると、朱莉の心には暗い影が宿るのだった―。




朝9時―


蓮を幼稚園に送り出した後、朱莉は部屋の掃除を始めていた。すると突然マンションのインターホンが鳴らされる。


「明日香さんかしら・・?」


ドアアイを覗くとやはり、そこに立っていたのは明日香だった。


「おはようございます。明日香さん。」


ドアを開けるとそこにはカジュアル服にショルダーバックを下げた明日香が立っていた。


「おはよう。朱莉さん。」


「ひょっとするとお出かけですか?」


「ええ、新宿の出版社に打ち合わせで出掛けて来るのよ。それで・・何か蓮の為に洋服を買って帰ろうかと思って・・・服のサイズ・・教えてくれるかしら?」


明日香は恥ずかしそうに言う。


「蓮ちゃんの服のサイズは100㎝ですよ。でも少し大きめの110㎝でも大丈夫です。その方が長く着る事が出来ますし。」


「そうなのね?110㎝ね?ありがとう。それにしても恥ずかしいわ・・・母親なのに子供の服のサイズを知らないのだから・・・。」


「蓮ちゃん。きっと喜びますよ。ありがとうございます。」


「喜んでくれるかしら・・・それじゃ行って来るわね。」


「はい、行ってらっしゃい。お気をつけて。」


玄関が閉じられると朱莉は溜息をついた。


< 母親なのに・・・>


その言葉を思い出し、朱莉は再び暗い感情に囚われるのだった―。

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