1-8 前田美由紀
倦怠期―。
交際4年目、いま正に美由紀と航の関係は倦怠期を迎えていると言っても過言ではない状態にあった。
「ねえ、航君。」
相変わらず2人のデート時の食事はラーメン屋と決まっていた。カウンター席で並んで座り、とっくにラーメンを食べ終えた航はまだラーメンを食べている美由紀の隣でスマホゲームに夢中になっている。
先程から何度も航の名を呼んでいるのに、航の返事はああとか、うん、ばかりであった。
(もうっ!さっきからずっと呼んでいるのにっ!)
すっかりむくれた美由紀は普段は飲み干さない豚骨スープをれんげを使わずに、両手でどんぶりを持ち上げ、一気に飲み終えてわざと乱暴にどんぶりを置いた。
ドンッ!
その音にようやく気付いたのか、航は振り向くと言った。
「ん?美由紀、食べ終わったのか?」
「うん。お・わ・り・ましたっ!」
そしてツンとそっぽを向く。
(全く・・・今日は金曜日なんだから、こんな日くらいラーメン屋さんじゃなくて、バーとか・・せめて・・居酒屋位は行きたかったのに・・。)
ラーメン屋でもビールやチューハイくらいは飲める。けれどもそこまでして美由紀はお酒が飲みたいわけではない。ただ金曜の夜位、もう少しムーディーな夜を過ごしたかったのだ。
美由紀が勤めていた京極正人が経営していたリベラルテクノロジーコーポレーションは京極の突然の辞任により、会社は無くなってしまった。しかし何故かその直後に今度は二階堂明の会社『ラージウェアハウス』に吸収され、気づけば美由紀はそこの会社の商品管理部の部署で日々、忙しく働いていた。
仕事は目が回るほど忙しいし、顧客や取引先との電話はひっきりなしにかかってくるしで、ストレスはたまりっぱなしである。一時は本気で転職を考えたりしたものだが、友達や親などから猛反対されたのだ。周囲の意見曰く、そんなに大手の企業に勤められているのだから、むしろ働かせてもらえることを感謝しろとまで言われるほどであった。
(あ~あ・・・いっそ、寿退社でも出来たらなあ・・・。)
しかし、美由紀はまだ25歳だし、航もまだ26歳。結婚している友達が周囲にちらほらといないわけでは無いが、それでも独身の友達が大半を占めている。何よりも肝心の航が全く結婚の意思がないという事が美由紀にひしひしと伝わってくるのが乙女心としては辛いばかりだ。
(全く・・・航君てば、何考えているんだろう・・?本当に私の事好きなのかなあ・・?それともまさか・・私とはただの遊びのつもり・・とか・・?)
しかし、それでも美由紀は航は自分の事を大切にしてくれていると信じていた。2人が深い仲になったのは交際を始めて既に10か月が経過していた頃だった。それだけ長く清い交際を航が続けてくれていたのは自分の事を大切に思ってくれているからだと美由紀は思いたかったのだ。だから美由紀は言った。
「ねえ、航君。今日は金曜日だし・・・コンビニでさ、お酒でも買って航君の部屋で飲もうよ。・・・それで今夜・・泊めてもらってもいいかなあ・・?」
いくら航にそっけない態度を取られても惚れた弱み、1分1秒でも美由紀は長く航のそばにいたかった。なのに・・・。
「悪い、美由紀。明日は5時起きなんだ。朝早くから仕事しなくちゃならないから・・・無理だ。悪い。」
さほど気持ちが込められていない『悪い』を聞かされて、美由紀はますます不機嫌そうに頬を膨らませると言った。
「ねえ、航君っ!」
しかし、航は美由紀の言葉を遮るようにガタンと席を立つと言った。
「ほら、帰るぞ。」
「・・・。」
しかし、美由紀はふくれっ面のまま立とうとしない。
「なんだよ?帰らないのか?」
航は呆れたように言う。
「お前・・まさかまだ食い足りないのか?」
「そんなはずないでしょう?帰るわよ。」
ガタンとわざと乱暴に席を立つと美由紀はさっさと店を出ていく。その後ろを航が慌てて追う。
「おい、さっきからどうしたんだよ。」
駅に行く近道の公園をさっさと先に歩いていく美由紀に航は後ろから声を掛ける。
「べっつに!どうせ今夜も駅までしか送れないって言うんでしょう?」
美由紀は振り向きもせずに言う。
「ああ。悪いな」
「ほら、また!心のこもっていない『悪い』だ!」
美由紀は立ち止まり、くるりと航の方を振り向いた。
「何だよ・・・それじゃ、どうすればいいんだよ。」
航は溜息をつきながら言う。
「なら・・・キスしてよ。」
「はあ?」
「だ・か・ら・今、ここでキスしてよっ!それで許してあげるっ!」
そして美由紀は腕組みをするとフンとそっぽを向く。
(どうせ、いつもみたいに、ここは外だからこんなところで出来るかっとでも言うんでしょう?)
しかし、航は予想外の発言をした。
「分かったよ。」
「え?」
「今、ここで美由紀にキスすればいいんだろう?」
そして美由紀が戸惑っていると、航はずんずん近付いて行き、美由紀の顎をつまみ、上を向かせると唇を重ねてきた。
(航君・・・・。)
美由紀は目を閉じ、航の首に腕を回した途端・・・。航は美由紀から顔を離すとボソリと言った。
「・・・やっぱ、ラーメン食べた後に・・・これはないな?」
そしてニヤリと笑う。
「・・・・!」
途端に美由紀の顔は真っ赤に染まる。
「も・・・もうっ!馬鹿っ!最ッ低!」
「おわあっ!ば、ばかっ!美由紀っ!カバン振り回すなって!あ・危ないだろうっ!」
「うるさーいっ!航の馬鹿ぁっ!!」
夜の公園に美由紀の声が響き渡った―。
そして日曜日―。
航は美由紀と六本木に映画を観に来ていた。本当は徹夜明けで眠いのでアパートに戻って眠りたいところだが、最近美由紀の機嫌が非常に悪い。いつも会うたび、ピリピリしているし、ため息も多くつくようになった。正直に言うと・・今は一緒にいると疲れる。なので航としては1週間のうち、会う回数をせめて週に2回ほどにしてもらいたいのだが、美由紀がそれを許してくれない。恋人同士は毎日会ってもいいくらいなのだと言って今は週に4回も会っている。しかし、これだけ頻繁に会っていれば会話だって無くなってくるし、友達付き合いも減ってしまう。
そんな時、思い出されるのが朱莉の事だった。
朱莉は航にとって特別な存在だった。美しく・・控えめで、気配りの上手な女性だった。まさに航の理想を詰め込んだかのような存在と言っても過言では無い。
だからこそ朱莉と全く会わなくなって4年も経過するのに、いまだに思い出されてしまう。
美由紀の事は好きだが、将来を誓えるかと聞かれれば返答に困る。そして朱莉に似た後ろ姿の女性を見れば、つい追いかけたくなる衝動に囚われる自分がいるのも十分自覚していた。
「ふう・・・。」
映画の上映が終わって、外に出るとものすごい人で溢れていた。ぼんやりしていた航はいつの間にか美由紀とはぐれていたことに気づき、思わず足を止めてしまった。
その時、背中に誰かがぶつかってくる気配を航は感じた。
「あ・・す、すみません・・。」
ぶつかったのは女性らしく、背後で航に謝罪してくる声が聞こえる。
「いえ・・・。」
航はチラリと振りむき、女性の足元の方を見ながら返事をし、すぐに前を向いた。
その時・・・・。
「朱莉さん、大丈夫?」
背後で男の声が聞こえた。一瞬で航の意識が覚醒する。
「何っ?!朱莉だってっ?!」
振り向いて、航は目を見張った。そこに立っていたのはずっと切望していた朱莉の姿があったからだ。4年たってもあせる事のない、その美貌・・・。
気づけば朱莉の両肩を掴んでいた。
「キャアッ!」
そして朱莉は航の目を見た。
「あ・・朱莉・・・?」
「ま・・?まさか・・航君・・?」
(そう・・その声だ・・その姿だ・・!朱莉・・・っ!)
気づけば航の目に涙が浮かび・・・映画館の人混みの中にも関わらず、強く朱莉を抱きしめていた—。
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