1-5 産みの母と育ての母と
翌日―
明日香は午後1時きっかりに朱莉のマンションを訪ねてきた。
「本当に急な申し出でごめんなさい。」
明日香は大きなキャリーバックを持ち、これから翔の住むマンションの部屋の鍵を開ける朱莉の背後に立つと言った。
「いいえ、お気になさらないで下さい。もともとこのお部屋は翔さんが借りている部屋ですし・・ずっと空き部屋にしておくのもどうかと思っていたところなので。」
朱莉は鍵を開けると言った。朱莉の隣には蓮も立っている。
「僕、このお部屋入るの初めてなんだ。」
蓮はソワソワしながら言う。それを明日香は聞き逃さなかった。
「あら、そうなの?蓮君。ならいつでも遊びに来てね。」
「本当?嬉しいっ!」
無邪気で、何も知らない連は嬉しそうに笑うが、その言葉を聞いた時に朱莉の胸はまたしてもズキリと痛んだ。
「さあ、どうぞ。明日香さん。」
朱莉はドアを開けると言った。
「ありがとう、お邪魔します・・・。」
明日香は靴を脱いで室内へと足を踏み入れた。1LDKの広々とした日当たり抜群で眺めの良い部屋。広さ約20畳のLDKは解放感に溢れ、白塗りの壁は清潔感を醸し出している。キッチンはコンロが3口で、食洗器、オーブン、ディスポーザー完備。
家具、家電は全て翔が住んでいた時のままの状態で残されている。
「翔さんはこのお部屋を寝室にしています。」
朱莉は広さ8畳の寝室も案内した。1面の壁はすべて収納棚になっており、セミダブルのベッドが置かれている。
蓮は部屋を見るたびにヘエ~や、すご~いを連発している。
すべての部屋を明日香に案内したところで朱莉と明日香はリビングテーブルの椅子に向かい合わせに座った。
そして朱莉はふかふかのソファに座って、子供向け番組を見ている蓮の方をチラリと見ながら明日香に尋ねた。
「どうでしょうか・・・明日香さん。以前住んでいた億ションに比べれば、格段に広さや設備が物足りないかもしれませんが・・・。」
申し訳なさそうに朱莉は言うが、明日香の口からは思いがけない言葉が出た。
「何言ってるの。こんなに贅沢な部屋に翔は1人で住んでいたのね・・・。」
明日香は腕組みしながらぐるりと部屋を見渡し、ため息をついた。
「え・・?明日香さん・・・・?」
「あら?何?朱莉さん・・・その意外そうな顔は・・。」
「い、いえ。そういうわけでは・・・・。ただ・・・・ずいぶん変わられたのだと思いまして・・。」
「ええ、そうよ。4年も経つとね・・・人は環境も考えもいろいろ代わってくるものなのよ。朱莉さんだってそうでしょう?」
明日香は蓮を見つめながら言った。
「ええ・・・確かに・・そうですね。」
朱莉は一瞬うつ向き、すぐに顔を上げると言った。
「明日香さん、今夜は私たちと一緒に夕食をいかがですか?」
「あら?いいの・・?」
「ええ。それ程大したおもてなしは出来ませんけど・・・。」
恥ずかしそうに言う朱莉を見て明日香は笑った。
「何言ってるの、朱莉さん。今だから告白するけど・・長野で私が一番よく食べていた料理ってレトルト食品かカップ麺だったのよ?」
「ええっ?!あ、明日香さんが・・カップ麺ですかっ?!」
「ええ。そうよ。意外だった?」
明日香はクスクス笑いながら言う。
「い、いえ・・・。意外だったというよりも驚きの方が強いですね・・・。」
「そう?でも・・・鳴海家を出て・・・翔の元を去ってから・・・色々あったから・・分かったのよ。私が世間知らずのわがままな人間だったってことがね。」
そして明日香は夢中になってテレビを見ている蓮を見つめた。
「明日香さん・・・。」
(やっぱり・・・明日香さんは本当に変わったのね・・・。以前とはくらべものにならないほどに・・今の明日香さんだったらきっと・・・蓮ちゃんの素敵なお母さんになれるはず・・・。)
朱莉は蓮との別れが近いのだということをひしひしと感じるのだった―。
玄関まで見送りに来てくれた二人に朱莉は言った。
「それでは夕食の買い出しに行ってきますので明日香さん、蓮ちゃんをよろしくお願いします。」
「ええ、大丈夫よ。急がなくても。」
「お母さん、行ってらっしゃい。」
蓮は明日香の手を握り、ニコニコしながら手を振っている。
「はい、行ってきます。」
朱莉は笑みを浮かべると玄関を出た。そしてエレベーターホールに向った。
エレベーターに乗りこみ、ドアが開くとエントランスを出て駐車場へと向かう。
自分の軽自動車に乗り込み、朱莉はそこで初めて涙を流した。
「う・・・・うっう・・。」
ハンドルに頭を乗せ、朱莉は堰を切ったように涙を流した。いくら泣いても涙は少しも止まらない。
朱莉の脳裏には先程の光景が頭にこびりついて離れない。明日香に手をつながれ、自分に向って手を振る蓮の姿・・・。
遅かれ、早かれもうすぐその光景が現実化する。そして朱莉はそれを受け入れなければならないのだ。
「蓮ちゃん・・・・。」
朱莉はいつまでもいつまでも泣き続けた―。
「ほら、ここをいじると自由に色を変えられるのよ?」
明日香は今自身の液晶ペンタブレットで蓮を膝の上に抱いてパソコンでイラストを描く方法を教えていた。
「あ!本当だっ!すごいっ!」
蓮はペンの色が赤から青に変わったのを見て興奮して目を見開いた。そして明日香を振りむくと言った。
「これ・・・すごく楽しいねっ!」
蓮は明日香を見上げると言った。
「そう?そんなに楽しい?」
「うんっ!楽しくてたまらないよっ!」
蓮は興奮が少しも止まらない。
「ふふ・・それじゃ好きなだけ絵を描いて遊んでいいわよ?」
「本当?嬉しいな~。」
そして蓮は再び画面に目を向けると真剣なまなざしでペンを握りしめるとイラストを描く続きを再開した。
小さくて柔らかい蓮のぬくもりを感じながら明日香は尋ねた。
「ねえ・・蓮君。」
「何?」
「蓮君は・・・私の事好き?」
「うん、お姉さんの事好き。だってお絵描きは上手だし、いろんなお話し知ってるもの。」
「フフ・・・。それじゃお母さんのことは?」
「もちろん、大好き!」
その言葉を聞いた時、つい明日香は意地悪な質問をしてしまった。
「それじゃあね・・・お母さんとお姉さんではどっちが好き?」
すると蓮の動きがピタリと止まった。そして明日香をじっと見上げると言った。
「あのね・・・・お母さんの方が・・好き・・。」
そしてうなだれると言った。
「ごめんなさい・・・お姉さん・・・。」
その声は子供ながら、悲しげで申し訳なさそうだった。
「!」
気づけば、明日香は蓮を強く抱きしめていた。
「ごめんね・・・蓮君・・・変な事聞いちゃって・・・。」
「お姉さん・・・。僕もごめんなさい・・・。」
そして本物の母子はしばしの間、黙って抱きしめあっていた—。
夜7時―
「さあ、どうぞ。召し上がってください。」
朱莉はダイニングテーブルに座った明日香と蓮に声を掛けた。
「うわあ!おいしそうっ!」
蓮は大喜びしている。テーブルにはおいしそうなハンバーグプレートが乗っている。
丸い形の肉厚のハンバーグにはチーズが乗せられ、上からマッシュルームがたっぷり入ったデミグラスソースがかかっている。付け合わせにはグリル焼きのブロッコリーとポテト、そして甘みのあるバタソースで柔らかくなるまで煮込んだニンジンが添えられている。ハンバーグの横にはバターライスが添えられ、小鉢にはサラダもついている。ちなみに蓮のハンバークプレートには日の丸の旗が立てられている。
「すごいわ、朱莉さん。まるでカフェのメニューみたいね。」
朱莉は2人に褒められて頬を赤く染めた。
「「「いただきまーす。」」」
3人は声をそろえて食事を開始した。
そしてこの夜、朱莉の作ったおいしいディナーを3人は堪能するのだった—。
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