5-11 バレンタインの恋人

 美幸を置いて1人店を飛び出した航は駅に向かって走っていた。航の目的の場所は決まっていた。


(くそっ!鳴海翔め・・・っ!)


駅に着くとホームを駆け下り、イライラしながら電車を待つ。やがて電車がホームに着くと、航は乗り込み朱莉の事ばかり考えていた。


(鳴海翔が別の女とバレンタインの夜に2人きりであんな高級そうな店に食事に来ていたなんて・・・っ!)


ギリリと歯を食いしばりながら航は電車に揺られていた。ボディバックに入れたスマホはずっと着信を知らせていたが、航はそれには少しも気がついてはいなかった―。


 やがて電車が六本木駅に到着し、航は急いで降りると再び走り始めた。

その頃の航にはもう姫宮と交わした約束の事など、すっかり抜け落ちていた。今航の頭の中にあるのは朱莉の事だけだった。


(あいつの正体をばらしてやる・・・!そして明日香の事だって・・っ!)





「はい、レンちゃん。おむつ綺麗になりましたよ〜。」


ベビーベッドに寝ている蓮に朱莉は声を掛けた。すると蓮が朱莉に手を伸ばした。


「だーあー。」


この頃になると、朱莉はもうすっかり蓮が何を要求しているのか理解出来るようになっていた。


「レンちゃん。抱っこして欲しいのね?」


朱莉は笑顔で言うと、ベビーベッドから抱き上げると蓮は嬉しそうな笑顔で朱莉を見て、小さな手で朱莉の頬に触れた。


「まーまー。」


「フフッ。そうよ、レンちゃん。私がママだよ?」


そして蓮を胸に抱き寄せ、愛おしそうに頭を撫でた。


(ふふふ・・・ほんと、何て可愛らしいんだろう・・・。)


その時、インターホンが鳴った。


「え・・?誰だろう・・・?」


朱莉はモニターを見て目を見張った。そこには荒い息を吐きながらモニターを覗きこんでいる航の姿があったからだ。


(う、嘘・・・。わ、航君・・・どうして・・?)


思わず躊躇していると、再びモニターの航はインターホンを鳴らしてきた。きっとこのままでは朱莉が応対するまでインターホンを押し続けるだろう。

朱莉は震える手でインターホンに応じた。


「は、はい・・・。」


『朱莉っ!俺が見えているんだろうっ?!大事な話があるんだっ!』


航の切羽詰まった声が聞こえて来る。


「わ、航君・・。どうしたの・・?と、突然・・。」


朱莉は声を震わせて応答した。


「朱莉っ!お願いだっ!お前と話がしたいんだっ!」


「だ、だけど・・駄目だよ・・。航君・・もうここへ来たら・・・。」


自分でも残酷な事を言っているのは分かっている。だが朱莉と航が会っている事が翔に見つかれば折角の姫宮の努力も水の泡になってしまう。


「そんなのは分かってる!だ、だけど・・朱莉・・。頼むよ・・・頼むからほんの少しでもいいから・・・。」


航は俯き、身体を震わせた。握りしめた手には涙が一粒落ちた。


「!」


(航君・・・・っ!)


とうとう朱莉は観念して航に言った。


「今・・・開けるから入ってきて・・。」


そして航の目の前の自動ドアがオープンした—。



「・・・・。」


朱莉はやかんにお湯を沸かしながら、黙ってその様子を眺めていた。蓮はバウンサーの上に寝かされ、おもちゃを持って遊んでいる。


ピンポーン


その時、再びドアのインターホンが鳴った。


(航君っ!)


朱莉はドアアイを確認する事も無く、急いでドアを開けるとそこには青ざめた顔の航が立っていた。


「航君、誰かに見られたらいけないからすぐに中へ入って。」


急いで航を部屋の中に入れ、ドアを閉めると朱莉は言った。


「取りあえず・・・コーヒー淹れるから上がって?」


「あ、ああ・・・。」


そして航は朱莉を見下ろした。今自分の目の前には優し気な瞳で見つめている愛しい朱莉が立っている。航は思わず朱莉に触れようとして・・・その手を必死で抑えた。


(駄目だ・・・今、朱莉に触れたら俺はまた理性が飛んで・・・っ!)


無理矢理朱莉から視線を引き剥がすと、バウンサーに寝かされている蓮と目が合った。



「あれ・・・蓮か・・?ちょっと見ない間に随分大きくなったな。それに髪の毛の量も増えてきた気がする。」


「うん、そうなの。とってもハンサムでしょう?」


朱莉は嬉しそうに笑みを浮かべながらダイニングに座っている航にコーヒーを差し出した。


「どうぞ。」


「あ・・ありがとう・・・・。」


航がコーヒーに口を付けるのを見届けると朱莉は向かい側の席に座ると言った。


「航君・・・クリスマスイブの日に・・姫宮さんに何て言われたの?私・・・何も聞かされていなくて・・。」


「あ・・そ、それは・・・。」


(駄目だ・・・姫宮が俺をストーカーにし立てあげたって話をすれば朱莉は気にするに決まっている・・・!)


航が言い淀んでいると朱莉は続けた。


「絶対・・・翔さんに航君との事・・・追及されるかと思ったのに・・何も言って来なかったんだよ?だから・・・恐らく姫宮さんは翔さんが納得のいく理由を説明したのかもしれないけど・・・。その内容がどんなだったのか・・私には分からないの。もしかして一方的に航君を悪者扱いしたんじゃないの・・・?」


朱莉は心配そうな顔で航を見た。


「そ、そうだっ!今夜俺がここに来たのは・・・朱莉っ!鳴海翔の事をお前に伝える為に来たんだよっ!」


「え・・?翔先輩の事・・・?」


「ああ、そうだ。俺・・実は今夜店で偶然に鳴海翔に会ったんだよ。そこはいかにも高級そうな店で、バレンタインと言う事もあってか、すごく混んでいたんだ。そしらアイツ・・・今迄見た事も無い女と2人で店に来ていて・・・一緒に酒迄飲んで楽しそうに食事をしていたんだよ・・っ!」


「翔さんが・・女の人と食事・・・?」


朱莉は首を傾げた。


「ああ!そうだっ!」


「そうなんだ・・・。」


朱莉はそれだけ言うとコーヒーを飲んだ。航は朱莉の落ち着いた態度が腑に落ちなくて尋ねた。


「お、おい・・・朱莉・・。お前、何とも思わないのか・・?」


「うん・・・。だって私と翔さんは書類上の夫婦とういうだけの関係だし・・・私の立場では翔さんに何も言う資格は無いもの・・。翔さんが何処でどんな女性と会っていても・・口を挟める立場では無いから。」


「朱莉・・・?」


航は朱莉が妙に落ち着いている姿が信じられなかった。


(何故だ?朱莉・・・お前・・鳴海翔の事好きだったはずだろう・・・?でもこの反応からすると・・今は違うって事か・・・?)


「むしろ・・・明日香さんの方が翔さんに物を言える立場だと思うの。だけど明日香さんとの関係もこじれてしまっているし・・。」


「そ、そうだっ!明日香だっ!明日香だって今別の男と一緒に長野で暮らしているんだぞっ?!」


「え?!明日香さんが・・・そう。やっぱり・・・。あまりにも長く戻って来ないから何となく予想はしていたんだけど・・・。」


朱莉は寂しそうに俯いたが、すぐに顔を上げると言った。


「でも・・・何故航君がその事を知ってるの?」


「実は・・以前頼まれたんだよ・・・。京極の奴に・・・。」


「えっ?!きょ・・・京極さんに・・っ?!」


すると朱莉は途端に真っ青になると身体を震わせながら言った。


「お・・お願い・・航君・・・どうか・・もう京極さんとは・・連絡を取り合わないで貰える・・?」


「朱莉・・・?お前・・・もしかしてあいつに何かされたのか?!」


「うううん・・・特にされてはいないけど・・・京極さんの事が・・・こ・・怖くて・・。」


「朱莉・・・。」


その時、突然航のスマホが鳴った。


(・・・ったく・・誰だ・・・え?)


着信相手は美幸からだった。それを見た航の顔から血の気が引いた。


(ま、まずい・・思わず頭に血が上って・・・美幸を残して朱莉の所へ来てしまったんだった!)


「どうしたの?航君・・・電話、出た方がいいよ・・?」


「あ・・ああ・・・。」


航は仕方なく電話に出た。


「もしもし・・・。」


『やっと・・・やっと・・・電話出てくれた・・・。酷いよ・・航君・・・。』


電話越しの美幸は泣いていた。


「もしもし?美幸?今・・今何処にいるんだよっ?!」


『お・・・お店の前だよ・・。』


航は時計を見た。あれから1時間近く経過している。


(え・・?まだそこにいたのか・・?)


「美幸!今そこに向かうから・・・待ってろっ!いいか?何処にも行くなよっ?!」


それだけ言うと航は電話を切った。


「ご・・・ごめん。朱莉・・お、俺・・行かなくちゃ・・・。」


「美幸さんって人の所へ行くんでしょう?何があったのかは分からないけど・・・・大切にしてあげてね?航君の彼女なんでしょう?」


「彼女・・・。」


航は朱莉を見た。

朱莉はとても美しく・・・航に取っては所詮手の届かない相手なのかもしれない。

だが・・・美幸は・・。今は一刻も早く美幸の側へ行ってやらなければ・・。

その思いの方が強かった。


「行ってあげて、航君。」


「朱莉・・・っ!」


航は朱莉を引き寄せ、強く抱きしめると言った。


「さよなら、朱莉・・・。」


「さよなら、航君。」


航は朱莉から離れると玄関へ向かい、そのまま走り去って行った。


(今度こそ・・・本当のさよならだ・・・朱莉・・・っ!)





「航君・・・。」


其の頃美幸は店の外のベンチに座り、俯いていた。美幸の顔は涙で真っ赤に泣き腫れていた。


すると・・・。


「美幸っ!」


航の呼び声が聞こえ、美幸は顔を上げた。


「わ・・航君・・・。」


ベンチから立ち上がった美幸に航は駆け寄ると、力強く美幸を抱きしめると言った。


「ごめん・・・美幸・・・。」


「わ・・・航・・君・・・。」


再び、美幸の目から涙が溢れ・・・美幸はいつまでも航の胸の中で泣き続けた。そんな美幸を航は愛おし気に髪を撫でながら言った。


「美幸・・・お前さえよければ・・俺の彼女になってくれ・・・。」


その言葉を聞いた美幸はより一層激しく泣きじゃくるのだった—。




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