3-2 航の思い

 朱莉から電話がかかってくる少し前―

缶ビールを片手に航は自分のスマホを強く握りしめていた。父の弘樹に諭されてから、今日こそ、明日こそ朱莉に別れを告げなければ・・・と思いつつ、数日が過ぎてしまっていた。

そんな航の元気の無い姿を弘樹は気づいていたが、特に声を掛ける事はしなかった。


 琢磨とは既に打ち合わせ済みだった。もし仮にどちらかのスマホに朱莉から連絡が入ってきた場合は、琢磨にも航にも二度と連絡を入れないように朱莉に告げようと・・・。

琢磨は現在オハイオ州に移り住む為の準備で奔走している。朱莉に別れを告げるなら自分の役目だと航は決め、その事を既に琢磨には告げてあった。

それなのに・・・航は朱莉と別れを告げるのが怖かった。だから先延ばしにしていたのに・・・。

その電話は突然鳴ったのだ。


 握りしめていたスマホが突然鳴り響き、航は驚いた。そして、着信相手を見てさらに衝撃を受けた。


「あ、朱莉・・・・!」


まさかこんなに早く朱莉から電話がかかって来るなんて航は思いもしなかった。


(朱莉・・・この電話に出たら・・俺はお前に別れを告げなくちゃならないんだ・・!頼むから諦めて切ってくれ・・・!)


航は唇をかみしめてスマホが鳴りやむのを待っていたが、根負けして10コール目でとうとう電話に出てしまった。


「もしもし・・・。」


自分でも驚くほど弱々しい声が口を突いて出てきた。


『こんばんは。航君。・・どうしたの?何だか随分元気が無さそうだけど?』


受話器越しから自分の身を案ずる朱莉の声が聞こえてくる。思わず涙ぐみそうになるのを航は必死でこらえて、わざとぶっきらぼうに答えた。


「いいから、何の用なんだよ。」


(俺は・・・なんて酷い対応をしているんだ・・・!)


朱莉の電話の内容は蓮のお宮参りについて来てほしいとの事だった。その話を聞きながら、航は翔に対して怒りをたぎらせていた。


(あいつめ・・・!また朱莉一人に自分の子供の行事を押し付けて・・・!俺がお前の立場だったら、絶対にそんな事はさせないのに・・!だけど・・・俺はもうこれ以上お前の傍にはいちゃいけなんだよ・・・っ!)


「無理だな。」


血を吐く様な思いで航は言った。


『え?』


朱莉の戸惑った声が何所か悲しみを帯びたように航には聞こえた。朱莉に何か問い詰められるのが怖くて、航はそのまま言葉を続けた。


「俺、彼女が出来たんだよ。だからもう朱莉とは連絡取らない。彼女に悪いからな。だから朱莉も俺に連絡してこないでくれ。」


(出来れば朱莉には否定して欲しい。嘘でしょうと言ってくれ・・・!)


しかし・・・


『え?!そ、そうだったのっ?!それじゃあ・・・確かに連絡はもう駄目だよね・・・。』


朱莉からは航の言葉を信じて疑わない返事が返って来た。この瞬間、航の希望の糸がプツリと切れてしまった。


(それなら・・・もう仕方が無い。)


航はあらかじめ琢磨と打ち合わせをしていた内容を淡々と語った。

朱莉は黙ってそれを聞いているのが、何より航は辛かった。


「じゃあな、朱莉。元気でな。・・・さよなら。」


最後の言葉を言った航は朱莉の返事も待たずに通話を切った。



「あ・・・朱莉・・・。ご・・ごめん・・・。」


気付くと航は項垂れてスマホを強くにぎりしめた。その上にポタポタと涙がこぼれて落ちてゆく。

今までこんなに誰かを好きになった事は無かった。過去に何回か交際した事はあったが、誰とも長続きはしなかった。なのに朱莉にだけは強く惹かれた。

背負っているものが重過ぎて、年上なのに何所か守ってやらなければと思わせる儚さが・・朱莉本人は全く自覚していなかったが、美しい容姿が・・優しい心が・・そのどれもが航の心を鷲掴みにしてしまっていたのだ。

出来る事なら自分の思いを告げたかったが、朱莉はあの鳴海翔の人妻だ。例えそれが嘘にまみれた偽装結婚でも、書類上はれっきとした婚姻関係を結んでいる。

不倫の代償は・・大きい。

おまけに朱莉は契約書に決して浮気をしてはいけないとサインまでさせられているのだ。朱莉にその気が無くても自分が周りをうろついていた為に第三者に付け込まれてしまった。


「俺が・・・琢磨が朱莉の事を遠くから見守っていれば・・別れを告げずに済んだのか・・?」


航は自問自答した。


「朱莉・・・お前が俺の事・・・弟としか見ていなくても・・お前の事が大好きだったよ・・。」


そして航はいつまでも泣き続けた―。




電話が切れた後も、朱莉は暫くの間呆然としていた。


(航君・・・さよならって言ってたけど・・もう二度と連絡を取り合わないって事なの・・?それに九条さんがオハイオ州に行くなんて・・・。)


何もかも初めて聞かされた事なので、とてもではないが朱莉はすぐに受け入れる事が出来なかった。


「フエエエエ・・・。」


その時、蓮がむずかった。その声に朱莉は我に返り、慌ててベビーベッドへ向かうと蓮を抱き上げた。


「よしよし・・レンちゃん。どうしたの?」


蓮を胸に抱きしめ、あやしながらだんだん朱莉は冷静さを取り戻してきた。


(航君・・・彼女が出来たんだ。航君はいい子だから彼女が出来ても当然だよね・・。少し寂しいけど、応援してあげなくちゃ。その為には私は邪魔しちゃいけないものね・・。それに九条さん・・オハイオ州に行くなんて・・・。最後にお礼を言いたかったけど・・・航君に連絡をしないように言われたから諦めなくちゃ・・。)


朱莉にあやされているうちに、いつの間にか蓮は眠りに就いていた。その姿を見ながら朱莉は思った。


(そうよ、私にはまだレンちゃんがいる。それに・・もともと私は1人きりだったんだから、それが元に戻るだけよ・・・。)


朱莉は蓮をリビングに置いてあるベビーベッドにそっと寝かせるとPC の前に座り、通信教育の勉強を始めた。最近、何かと忙しくてなかなか通信教育が進めずにいたが少しずつ育児にも慣れてきたので、合間を見て朱莉は通信教育を再開したのだった。


(明日はレポートの提出日だから、頑張って仕上げないと・・・。)


そして静まり返った部屋に朱莉のPCのキーボードを叩く音が響き渡った―。




 翌朝―


航は朝から頭痛を抱えて目を覚ました。どうやら寝ながら涙を流していたようだった。


(泣きながら眠るなんて・・・まるで女みたいだ・・。我ながら女々しいにもほどがあるな・・・。)


すっきりしない頭を抱えながら起き上がり、着がえを済ませるとスマホに着信が入っている事に気が付いた。着信相手は琢磨からである。航はスマホをタップした。


そこにはオハイオ州に行く準備が済んだことと、出発日の日程が記されていた。


「ふ~ん・・・来週の火曜日に琢磨はアメリカへ行くのか・・・。」


そして恨みがましく言った。


「いいよな琢磨は・・・日本から逃げる事が出来て・・・。俺だって・・どこかへ逃げたいよ・・・。こんなに朱莉の傍にいたいのに・・同じ東京に住んでいるって言うのに朱莉の傍にいる事を諦めなくちゃならないんだからな・・・。いっそ何所遠くへ俺も行きたいぜ・・。」


航は溜息をつくと琢磨のアドレスを開いた。そしてメッセージを打ち込み始めた。

昨夜、朱莉から電話があった事。お宮参りについて来てほしいと言われたが、断った事。そしてもう二度と自分達に連絡を入れて来ないように伝えた事を打ち込むと送信した。


「九条の奴・・・このメッセージを見たらどう思うかな・・・。」


独り言のように呟くと、航は朝の支度を始めた―。

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