1-7 翔の新たな要求

 明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉に取ってあまりにもショッキングな話であった。


「朱莉さん、大丈夫かい?顔色が真っ青だ。」


琢磨が心配そうに声を掛けてきた。


「あ・・・は、はい。大丈夫です・・・でも・・そうなると今一番大変なのは翔さんではありませんか?」


朱莉は翔の事が心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時・・・翔と明日香は交際していたのだろうか?ただ、少なくとも朱莉が入学した当時は翔と明日香は朱莉の目からは交際しているように見えた。


「朱莉さん・・・。翔が心配かい?」


琢磨が少し悲し気な表情で尋ねて来た。


「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど。」


「朱莉さん・・・。やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね。」


(そうだ、あの2人に今迄散々蔑ろにされて来たのに・・・それらを全て許して今は2人の事をこんなに気に掛けて・・・。)


「九条さん、何故翔さんは・・九条さんに連絡を入れて来たのですか?それに、どうして九条さんから明日香さんの事を教えて貰う事になったのでしょうか?」


朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。


「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って、自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然・・・。」


そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。


「朱莉さんは・・どうする?」


「それでは・・私はアルコール度数が低めのお酒で・・。」


「それなら、『ミモザ』なんてどうかな?シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ?アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低いかもしれない。」


琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。


「はい、ではそちらを頂きます。」


「かしこまりました。」


店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。


「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺の事を聞いてきたらしいんだ。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が・・・明日香を安心させる為に、もう一度3人で会いたいって言って来たんだよ。」


「そうだったんですか・・・。でも・・・。」


朱莉は九条を見ると言った。


「九条さんも・・・やはり口では色々言っていても・・・翔さんと明日香さんの事が心配でたまらないんですね。やっぱり・・・九条さんはいい人ですよね?」


「朱莉さん・・・。」


(それを言うなら、俺から見ると余程朱莉さんの方が・・ずっといい人だよ・・。だから俺はそんな君が・・・。)


しかし、琢磨はその言葉を口にしない。今の関係を壊したく無い位に朱莉の事が大切だから・・・伝えたい言葉を飲み込むしか無かった。


その時、2人の前にカクテルが運ばれて来た。


「あ、これですね。ミモザってカクテルは。」


「そうだよ、飲んでごらん?」


琢磨に促されて朱莉はグラスを持つと一口飲んでみた。


「・・・。」


「どうだい?」


「はい、とても美味しいです。こんな素敵なカクテルを教えて頂いて有難うございます。」


「気に入って貰えてよかったよ。」


琢磨は笑みを浮かべて朱莉を見つめた。朱莉はそんな琢磨を見ながら思った。


(やっぱり・・九条さんは大人の男性って感じ・・・。顔だってすごくハンサムなのに、こんな所で私とお酒飲んでていいのかな・・・?彼女に悪い気がする。)


朱莉は琢磨に恋人がいると思い込んでいるので、何となくこれ以上自分に付き合わせるのはまずい気がしてきた。


(よし、それじゃ九条さんに用件だけ聞いたら・・・もう今夜は帰ろう。)


「それで、九条さん・・・。きっとこれからが・・本題なんですよね?」


「そうなんだ。でも、朱莉さん。俺は・・・一応翔に言われた通り、そのままアイツの言葉を伝えるけど・・・絶対に要求を呑んで欲しくないと思っている。」


「え・・・?それは一体どういう意味ですか・・・?」


朱莉は怪訝そうに琢磨を見ると尋ねた。すると琢磨は朱莉を真剣な眼差しで見つめると言った。


「いいかい。朱莉さん。翔は・・・こう言ったんだ。『明日香の記憶がいつ戻るのかは分からない。だから、明日香の記憶が戻るまでは無期限で子供の世話を朱莉さんにお願いしたい。』ってそう伝えてくれと言ったんだよ、翔は。」


「!」


朱莉は突然の話に絶句してしまった。


「本当はこんな事、朱莉さんに言いたくは無かった。だが・・・翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら?恐らく翔の事だ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんな事、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて・・・絶対にあってはいけないんだ。」


琢磨は顔を歪めながら言う。


(え・・無期限に明日香さんの子供の面倒を・・・それってつまり偽装婚も無期限って事・・・?)


なので朱莉は琢磨に尋ねた。


「あの・・・それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする・・という事でもあるのですよね・・・?」


(そうしたら、私・・・もう少しだけ翔先輩と関わっていけるって事なのかな・・?)


しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれる事になるのだった。


「いや・・・翔の言いたい事はそうじゃないんだ・・・。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども・・子育てに関しては、明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいって事なんだよ」


「え・・・?」


「つまり、翔は・・・3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる・・・しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話・・あり得ると思うかい?」


「・・・・。」


朱莉はすっかり気落ちしてしまった。


(やっぱり・・・ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは・・・所詮叶わない事なの・・・?でも・・・。)


「九条さん・・・。」


朱莉は顔を上げた。


「何だい、朱莉さん。」


「私・・・明日香さんと翔さんの赤ちゃん・・・今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らす事が待ちきれなくて・・・。」


「朱莉さん・・・。」


「九条さん。もし・・・もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね?それって・・・翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いに取って精神面に悪影響が出るのではと苦慮して・・私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか・・・?だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると思いますか?そして、そんな明日香さんを目の当たりにして、お子さんは精神面が不安定なまま成長しかねないと思いませんか?」


「それは・・・。」


確かに朱莉の言う事は一理ある。だが・・・琢磨が一番大事なのは朱莉である。そんな朱莉にこれ以上翔や明日香に関わって人生を棒に振って欲しくない。

だが・・・生まれて来た子供には何の罪も無い

むしろ、大人の都合によって振り回される一番の被害者なのかもしれない。


そんな琢磨の心の内を見透かすかの様に朱莉は言った。


「九条さん。今の私の幸せは、明日香さんと翔さんの子供が幸せになる事が、私の幸せにつながるんです。」


そして朱莉は微笑むのだった・・。








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