9-14 無駄な訴え
朱莉がスーパーで買い物をしている時、翔からメッセージが入って来た。
「え?もう・・・こんなに早く返信してくれたの?」
(翔先輩・・・何て書いて来たんだろう・・・。)
取りあえず朱莉はレジかごを持って、隅の方に移動するとドキドキしながらスマホをタップした。
『朱莉さん、元気にしていたかい?明日香は今ロシアで快適に過ごしているよ。体調も良さそうで安心している。ところで朱莉さんの書いて来たメッセージについてだけど、あいにく君が今住んでいる億ションを手放す訳にはいかないんだ。あの部屋は購入した部屋で、将来俺と明日香と君が3歳まで育ててくれる予定の子供の3人で住むことに決めている。だからそれまでは朱莉さんが住んで、あの部屋の状態を維持しておいて貰いたい。悪いが引っ越しの件は諦めてくれ。京極の話だけど・・・朱莉さんの子供ではないと本当に彼にバレてしまうのだろうか?俺はそうは思わないけど。もし怪しまれたら・・・朱莉さん。その時は何とかうまい言い訳をしてくれないか?無茶な事を言っているのは分かっているが、朱莉さんにしか出来ない事なんだ。悪いけどよろしく頼む。』
「・・・・。」
朱莉はそのメッセージを絶望的な気持ちで見つめていた。多分別のマンションに移り住む許可は得られないのでは無いかと思っていたが・・・翔自身にはそのつもりは全く無いのだろうが、朱莉の心を傷つけるには十分すぎる内容で・・・訴えは無駄に終わってしまった。
「ふ・・。」
朱莉は手で自分の口元を押さえた。思わず目頭が熱くなり、涙がこぼれそうになるのを必死で我慢する。
翔の事を好きで無ければこんなにも心を傷つけられる事は無いのに、悲しい事に朱莉は自分の命を救ってくれた翔に対する恋心を未だに捨てきれずにいた。
(もう嫌だ・・・。いっそ、翔先輩の事を嫌いになれればいいのに・・・。いつまでも未練がましく・・翔先輩の事を・・・。こんな自分が一番嫌い・・・。)
スーパーの隅で朱莉は必死で涙が出そうになるのを堪えるのだった—。
「ただいま〜。」
夜7時―
航が玄関のドアを開けて帰宅した。
「お帰りなさい、航君。」
エプロンを付けた朱莉が笑顔で玄関まで迎えにやって来た。
「ただいま、朱莉。あのさ・・じ、実は日頃朱莉には色々世話になってるから今日は朱莉にお土産を買って来たんだ。」
航はテレ臭そうに頭を掻きながら言う。
「え?お土産?」
「あ、ああ。これなんだけどさ・・・。」
航が差し出してきたのは紫芋タルトの入った紙袋だった。
「2人で・・一緒に食べようかなって思って・・・さ。朱莉は・・・甘い物好きか?」
「うん、勿論。大好き。」
朱莉は笑顔で答える。
―大好き―
航はその言葉を聞いた時、まるで朱莉が自分に向けて言ってくれた言葉のように感じて、すっかり有頂天になってしまった。だから・・・見落としてしまったのだ。朱莉が時折見せる悲しそうな表情に・・・。
「航君。汗かいて疲れたでしょうから、先にお風呂に入ってきたら?その間に食事の用意しておくから。それにね・・・。」
朱莉は航をチラリと見ると言った。
「な、なんだよ朱莉。もったいぶらないで教えてくれよ。」
(お、落ち着け、俺の心臓・・・。)
航はドキドキする心臓を意識しながら朱莉に尋ねる。
「フフフ・・・実は航君がこの間、オリオンビールが好きだと言っていたので・・・箱買いしてきました!」
「え?本当か?!」
航は目を見開いた。
「うん、本当だよ。ほら、見て。」
朱莉は床下収納庫を開けると、そこにはなんと2ケースものオリオンビールが収まっている。
「す、すっげー・・・。」
航は食い入るように収納庫を見つめた。
「航君、取り合えず冷蔵庫に15缶入れてあるから好きなだけ飲んでね?」
朱莉は冷蔵庫を開けながら言うと、そこにはズラリと並べられた缶ビールが冷蔵庫の中を圧迫するがの如く入っている。
「い、いや・・・幾ら何でも15缶はあり過ぎだろう?だって俺は・・・。」
そこまで言いかけて航は口を閉ざした。
(そうだった・・・俺は後2週間弱で・・沖縄の仕事を終えて、東京へ帰らないとならないんだ・・・。朱莉を1人沖縄へ残して・・・。一緒に東京へ帰れたらいいのに・・。)
そこまで考え、航はふと思った。
ひょっとすると・・・九条琢磨・・あの男も朱莉を置いて東京へ戻る時・・・同じことを考えたのでは無いだろうかと・・。
「どうしたの?航君。急に黙り込んで・・・・。」
不意に朱莉に声を掛けられ、航は我に返った。
「い、いや。何でも無い。そ、それじゃ俺・・・風呂に入って来るからっ!」
航は慌てたように着替えを取りに部屋へ行くと、バスルームへと向かった。
お風呂から上がり、髪を拭いてキッチンへ行くと、丁度朱莉が食事をテーブルの上に並べている所だった。そして航を見ると言った。
「あ、航君。もう食事にしよう、座って?」
朱莉に促され、航は席に着くと言った。
食卓に並べられたのはメインの酢豚に、ご飯、豆腐とわかめの味噌汁、青梗菜とエビの中華炒め、そして春雨サラダである。
「へえ~今夜の料理は酢豚か・・・旨そうだな。」
「そう?ありがとう。ほら・・・航君は暑い中、外でお仕事して疲れているでしょう?」
「あ、ああ・・。そうだな。」
「だから疲労回復に酢豚がいいかなって思って。よくお酢や豚肉は疲労回復に良いって言われてるから・・・。」
「朱莉・・・俺の事を気遣って・・・。」
航は感動のあまり言葉に詰まってしまった。
(朱莉・・・いつもこんなに親切にされたら・・俺、本当に勘違いしてしまうじゃ無いか・・・。お前が俺の事を・・・って。)
だが、実際はそんな事はあり得ないのは航はよく分かっていた。所詮自分は朱莉に取って弟のような存在でしか見られていないと言う事が・・・。
「ねえ、航君。ビールは今飲む?」
「いや、後でいい。今は朱莉の手料理を味わいたいからな。」
いつの間にか航は朱莉に対する心境の変化により、素直な気持ちで話せるようになっていた。
そして、朱莉がこちらをぽかんとした目で見ている事に気が付いた。
「どうした?朱莉。」
すると朱莉は頬を赤く染めて言った。
「うううん、今航君が・・・私の手料理を味わいたいって言ってくれたことが・・嬉しくて・・・。」
(か、可愛い・・・。)
朱莉の言葉は最後の方は途切れてしまったが、朱莉の照れる姿を見た航は不覚にも見惚れてしまった。
食事が済んで、朱莉が後片付けをしている間、航はリビングでPCを前に今迄カメラに収めて来た画像の整理をしていた。
「航君。」
不意に名前を呼ばれて航は顔を上げた。
「朱莉、何だ?」
「私もお風呂に入って来るから・・もしビールを飲むなら自由に冷蔵庫から開けて飲んで構わないからね。」
「ああ。分かった。・・ありがとう。」
航が言うと、朱莉は笑みを浮かべてバスルームへ向った。
「ふう~・・。」
航は上を向いて、首をコキコキと鳴らしながら言った。
「・・・ビール・・貰うか。」
航が缶ビールを飲んでいると朱莉がお風呂から上がって来た。
「朱莉、ビール貰ってるぞ。」
航は缶を上に上げて朱莉に見せた。
「うん、いいよ。自由に飲んでね。」
そして朱莉は何故か航のいるリビングに来ると航の前に座った。
「な・・・何だよ、朱莉・・・。」
突然自分の前に座って来た朱莉に押され気味になった航は朱莉を見た。
「ねえ航君。」
「な・何だ?」
「オリオンビールって・・美味しいの?」
「は?な、何だよ・・突然に・・・。それじゃ・・朱莉、お前も飲んでみるか?」
どうせ断るだろうと思って、航は尋ねたのだが、朱莉からは予想を覆す返事が返って来た。
「うん、飲んでみるね。」
「はあ?!」
朱莉は立ち上がると冷蔵庫からオリオンビールを持って来ると再び航の前に座った。プルタブに指を掛けてプシュッと蓋を開ける。
そして・・・朱莉はグイッと煽るようにビールを口に入れた。
「お、おい?!朱莉っ?!」
しかし朱里は航の制止する声も聞かず、ビールをゴクゴクと飲み進めた。
その後・・・。
「あ~あ・・・だから言わんこっちゃないのに・・・。」
航はリビングのテーブルに突っ伏して寝てしまった朱莉を見てため息をついた。
「おい、朱莉。寝るなら部屋で寝ろよ。」
航が朱莉の方を揺すった時・・・。
「翔・・・先輩・・・。」
朱莉が呟き、目じりからスーッと涙が流れてきた。
「!」
航は朱莉の涙を見て衝撃を受けた。
(翔先輩・・・って・・鳴海翔の事だよな?朱莉の偽装結婚の相手の・・あいつの名前を呼んで涙したって事は・・・ひょっとして朱莉は・・あの男の事が・・好きなのか・・・?)
航はショックで目の前が一瞬真っ暗になった。次の瞬間、朱莉の傍に置いてあるスマホが突然鳴り響いた。
「誰からだ?」
着信相手を見て航は息を飲んだ。その相手は・・・鳴海翔からだった―。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます