9-12 揺らぐ男

「わ・・・航君・・・?」


「・・・・。」


航は無言のまま、朱莉を抱きしめている。眠気なんかとっくに覚めていた。


(うわああああっ!ヤバイヤバイヤバイッ!な・な・何で俺・・・朱莉を抱きしめてしまったんだよっ!)


今、航は自分が非常にまずい立場に置かれている事に焦りを感じていた。あまりに焦り過ぎて、完全に動きが止まってしまった。しかし・・朱莉は何を勘違いしたのか、口を開いた。


「航君・・。ひょっとしてまだ寝ぼけてるの?」


朱莉が航に抱き締められたまま、耳元で言う。


(そ、そうか・・っ!朱莉はまだ俺が寝ぼけてると思ったんだな?!だったら・・・このまま寝惚けたフリをしてやれ・・っ!)


航はやけくそになって寝惚けたフリを必死で演技した。


「う~ん・・・もう食べられない・・・・。」


我ながら下手くそな演技で、恥ずかしくなってくる。


(何が、もう食べられないだよっ!)


最早自分で自分に突っ込んでいる状態である。しかし、朱莉は上手く引っ掛かってくれた。


「あ・・やっぱりまだ寝てるんだ・・・。航君、起きてっ」


「う・・ん・・・あれ・・?朱莉か・・?」


航は朱莉から身体を離すとわざと目を擦り、たった今目が覚めたかのような演技を必死で続ける。


「ああ、良かった・・・やっと目が覚めたんだね?航君。もう19時過ぎてるよ?」


「な・・何だってっ?!まずいっ!」


今度こそ航は演技抜きで驚き、慌ててソファから飛び起きた。


「あ、ありがとうっ、朱莉!起こしてくれて!」


航は慌てて機材と荷物を取りに行くと、すぐに玄関へ向かうと言った。


「朱莉、今夜はひょっとしたら・・帰れないかもしれないから俺の事は気にせず、戸締りをしっかりして寝るんだぞ?」


「うん。大丈夫よ、だって今までもずっとそうだったんだから。あ、そうだ。」


朱莉は再び航にマグボトルとランチバックを差し出すと言った。


「一応・・・お弁当作ったの。手の空いた時にでも食べて?」


「朱莉・・・。ありがとな。」


航は朱莉からボトルとランチバックを預かった。


(また俺なんかの為に・・・。)


航は感動し、不覚にも顔が赤くなりそうになり、慌てて朱莉から顔を背けると言った。


「そ、それじゃ行って来る。」


「うん。行ってらっしゃい。」


こうして航は朱莉に見送られながら、玄関を後にした。



「急がないとっ!」


マンションを飛び出すと、航はレンタカー屋へ向かって走った。


(全く・・・中年のオヤジなんだからホテルで大人しくしてりゃいいものを・・・!)


思わず航は心の中で毒づいていた。今夜、航が追っている対象者は年が20歳も離れている若い愛人と一緒に、ぎのわん海浜公園の野外コンサートに行く事になっている。2人が一緒にいる現場をカメラに収めなければならないのだ。

対象者と愛人の顔はもうバッチリ頭の中に入っている。その野外コンサートにどのくらいの人間が集まるかは分からないが・・・航は視力には自信がある。

きっと見つかるはずだ。


「まあ写真の10枚でも取れれば・・・すぐに終わって・・帰れるだろうっ!待ってろよ、朱莉!」


気付けば航は声に出しながら夜の町を走っていた—。




 一方、1人残された朱莉は溜息をついた。さっきまでは賑やかだった部屋が今では嘘のようにシンと静まり返っている。いつの間にか・・・航がいる生活が朱莉に取って当たり前のように感じていた事に我ながら驚いていた。


(私・・・航君が東京に帰った後・・・1人で暮していけるのかな・・・。)


朱莉は航が東京に帰ってしまった後の生活に今から寂しさを感じていた。


「駄目だな・・・私。もっと・・・強い人間だと思っていたけど・・・こんなにも人を恋しがる人間だったんだ・・・。」


再び朱莉は溜息をつくと、自分の食事の準備をし、テレビを相手に1人寂しく食事をするのだった—。


お風呂に入り、特にする事も無くなってしまった朱莉は書きかけだった絵葉書を書く事にした。

母に宛てた手紙はすぐに書き終える事が出来たのだが、問題は京極の方だ。

姫宮と一緒にいるあんな写真を見せられてしまった為に朱莉は今後どういう態度で京極に接すればいいのか分からなくなっていた。兎に角京極は朱莉にとって謎だらけの人物だったのだ。メッセージを送ると京極に約束はしたものの、それだとすぐに京極から返信が来てしまう。それならまだ絵葉書を書いて出した方がいいだろうと朱莉は考え、今京極に手紙を書こうとしているのだが・・・。


「京極さんが・・・航君みたいに分かりやすい性格だったら良かったのに・・。」


本当は正直な所、手紙を書くのも迷いがある。しかし、電話越しから聞こえて来た京極の朱莉を案ずるような声・・東京で散々京極にお世話になった事を考えると、何も知らないフリをして京極に手紙を書くしか無かった。


「取りあえず・・私の事はあまり書かないようにして・・ネイビーの事とマロンの状況を尋ねる内容の文章にしようかな・・。」


そして朱莉はペンを手に取った―。


色々考え抜いた挙句、朱莉は1時間近くかけてようやく葉書を書き終えた。一通り読み返して、文面がおかしく無いか、誤字脱字は無いかを確認すると言った。


「うん・・・大丈夫そう。明日葉書出さなくちゃ。」


そして朱莉は玄関のシューズケースの上に葉書を置くと自室へ入り、ベッドの中に潜り込むと、色々と今後の事を考えた。

 

 京極は勘のいい人間だ。もし仮に朱莉が生まれたばかりの明日香の子供を抱いて、あの億ションに戻った時の京極の反応は?恐らく絶対に朱莉が産んだ子供では無いという事がすぐにバレてしまうだろう。もし、そうなったら?今迄塗り固めて来た嘘が全てバレてしまう。京極には恩義があるが・・・彼とは距離を置いた方がいいだろう。


「翔先輩と・・・離婚をするまでは・・あの億ションにいたくないな・・・。赤ちゃんと一緒に何処か別のマンションに住めればいいんだけど・・。」


姫宮には何でも相談するようにと言われているが、姫宮と京極の関係が謎である以上、彼女の力を借りる訳にはいかない。


(明日・・・翔先輩に・・相談して・・みよう・・・。)


そして、朱莉は眠りに就いた―。



夜中の1時―。


疲れた体を引きずりながら航は朱莉の住むマンションへと戻って来た。

エレベーターに乗り込むと、5階行のボタンを押し、欠伸を噛み殺しながら5階に到着するのを待つ。


やがて、自動ドアが開き、航は朱莉の部屋の前に立つと、鍵を解除し、そっとドアを開けた。手探りで玄関の明かりをつけた時、航の目にポストカードが飛び込んできた。


「うん?何だ・・これは・・。誰かに宛てた葉書か・・・?」


本当は航は朱莉が書いた葉書を読むつもりは全く無かった。ただ・・・運の悪い事に航の目にある名前が飛び込んできてしまったのだ。

その名前は『京極正人』。姫宮と翔の浮気調査を行っていた時・・・姫宮と一緒にいる所を目撃した為に、突如名前が浮上して来た人物だ。


「え・・・?!京極・・・?!」


 元々航が父の設立した興信所の調査員になったのは、抜群の記憶力があったからだ。

人の顔と名前はすぐに覚える事だって出来る。電話番号だって一度で記憶する事が出来るので、見間違うはずは無い。

 以前までの航は抜群の記憶力のお陰で、自分に絶対的な自信を持っていた。

ただし、今回調査員として航が接した人物達は・・あまりに大物過ぎた。

そしてどんなに頑張っても・・航には彼等の地位にまで上り詰める事は不可能であると言う事を悟ってしまった。


 すっかり自分に自信を失いかけていた所へ、今回の沖縄の調査依頼が舞い込んできたのだ。だから航は自分の自信を取り戻すために沖縄までわざわざ足を運び・・・そこで偶然朱莉と出会い、そして・・再び間接的に翔や琢磨と関わる事になってしまった。

そこへ追い打ちをかけるような、この葉書である。

あの京極と言う男は・・・朱莉と同じ億ションに暮らしている。羽振りが相当いいのは言うまでも無い。


そんな男に・・朱莉が葉書を書いていたなんて・・・。


「朱莉・・・どうして京極と知り合いだって事・・・俺に黙っていたんだよ・・。お前・・・あの写真・・見たんだろう・・?」


航はポツリと寂しげに呟くのだった—。





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