9-7 嬉しい気持ち
航が玄関を出て行くのを見届けた朱莉は足元にいたネイビーを抱きかかえると言った。
「ネイビー。誰かに行ってらっしゃいって言える事って・・・何だか嬉しいね。」
考えてみれば朱莉は母が入院生活に入ってからは何年もの間、1人で暮していた。
父の死と会社の倒産、そして高校中退という環境は・・・朱莉から友人を奪ってゆき、代わりに孤独を与えたのだ。
でも、誰かが側にいて一緒に暮らす・・・この事を考えるだけで朱莉の心は楽しくなった。
ここは広々とした大きな部屋。必要な物は何でも揃っているが・・・朱莉が本当に欲しいものは手に入る事は無かった。孤独な生活から抜け出したいとこんなにも自分が望んでいたとは今迄思ってもいなかった。
「航君・・・カレー好きかな・・?」
朱莉はネイビーの背中を撫でながら、そっと呟くのだった—。
夜7時―
朱莉の部屋のインターホンが鳴った。カメラを確認するとそこに立っていたのは疲れ切った顔をした航であった。
「航君?待ってね。今ドアを開けるから。」
朱莉はボタンを操作すると、航の立っているホールの自動ドアが開いた。
「・・・スゲー設備。」
ボソッと航は呟くと、重たい足を引きずって中へと入って行った―。
5階の朱莉の部屋の前に付くと、航は再度インターホンを押すと、すぐにドアが開けられた。
「お帰りさない、航君。」
そこには満面の笑顔の朱莉が立っていた。
「な、な、なんでそんな・・笑ってるんだよ・・。」
航は後ずさりながら尋ねる。すると朱莉の頬が赤く染まる。
(え・・・?朱莉・・?)
航は一瞬ドキリとした、次の瞬間・・・朱莉が口を開いた。
「あ、あのね・・・。私・・ずっと1人暮らしが長かったから・・誰かに『お帰りなさい』って言ってみたかったの。ありがとう、航君。」
満面の笑顔で微笑まれ、航は戸惑ってしまった。まさか、たったこれだけの事で朱莉がこんなに幸せそうな笑顔を見せるとは思わなかった。そして、それと同時にフツフツと翔に対して怒りが込み上げて来るのも事実だった。
(くそっ!あの翔とか言う男・・・いくら大企業の副社長だからと言って・・・非人道的な事しやがって・・・!)
航は思わず拳をギュッと握りしめた。そんな様子の航を見ながら朱莉が声を掛けた。
「航君、疲れてるみたいだね・・・?そうだっ!ご飯の前に先にお風呂に入る?あのね、ここのマンションのお風呂にはジェットバスやミストサウナがついてるの。試してみたら?」
そして朱莉は航の返事を聞かずに、いそいそとバスタオルやタオルを持って来ると、手招きした。
「航君、こっち来て。」
朱莉が案内したバスルームはまるで一流ホテルのように立派なバスルームであった。大きくて広い浴槽に広々とした洗面台・・・何もかもが航に取っては未知の世界だった。
「こんな・・立派な部屋に・・・朱莉は住んでるんだな・・・。」
(自分とは・・・住む世界がまるで違う・・・。)
そう考え、何故か航は空しい気持ちになった。だから、思わず『朱莉』と自分が呼び捨てをしている事に気が付かなかった。
「え?朱莉?今・・私の事朱莉って呼んだ?」
その時、航は朱莉に指摘されて初めて自分が呼び捨てで呼んでしまった事に気が付いた。
(しまったっ!つ、つい・・・相手は年上だって言うのに・・・っ!)
「あ、い・いや・・・今のは言葉のあやというか、つまりその・・・)
あたふたしている航を見て朱莉は言った。
「いいよ、別に朱莉って呼んでも。」
「へ・・?」
「それじゃ、ごゆっくりね。」
朱莉はバスルームを後にした。そして1人きりになった航は頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「わ・・・分からねえ・・・朱莉が何考えてるのか、俺にはさっぱり・・・。」
30分後—
航がバスルームから出てきた。丁度朱莉はその時、ネットで英会話の勉強をしている所だった。
「あ・・お、お風呂・・ありがとう。」
航は目を伏せながら言った。
「あれ?航君・・もう上がってきたの?早かったね。」
朱莉は立ち上がると声を掛けて来た。
「そりゃ、あれだけ広くて綺麗だとかえって落ち着いて風呂なんかに入っていられないだろう?何だか自分が酷く場違いな所にいるような感覚になっちまったんだよ!」
言いながら航は思った。
俺は何故こんなにも力説しているのだろうと・・・。
「ねえ、航君。今夜カレーを作ってみたんだけど・・好き?」
「うん?カレーを嫌いな奴なんてこの世にいるのか?」
航の返事に朱莉は嬉しくなった。
「良かった〜もし嫌いだって言われたらどうしようかと思っちゃった。」
「だから俺・・・言っただろう?別に好き嫌いは無いって。」
「そう言えばそうだったね。さ。それじゃ座って座って。」
朱莉は嬉しそうに航に椅子を進めると言った。
「待っていてね、すぐに準備するから。」
そして冷蔵庫から用意しておいたアボガドに蒸しエビが入ったサラダと福神漬けを出してくると、楕円形のプレートに熱々ご飯と彩りたっぷりのカレーをよそい、航の座るテーブルの前に置いた。
「へえ~見た目はいいじゃ無いか。」
航はつい照れ隠しに意地悪な事を言ってしまった。しかし、朱莉は嬉しそうに言う。
「そう?ありがとう。それじゃ・・味はどうかな?食べてみてくれる?」
「う、うん。いただきます。」
そしてスプーンですくって口に入れる。
「・・・うまい。」
「本当?」
朱莉は嬉しそうに笑った。
「ああ、美味いよ。まあ・・最もカレーを不味く作る奴の方が珍しいだろうけどな。」
そこまで言って、また航はハッと思った。
(お、俺は、又ひねくれた事を・・。)
恐る恐る朱莉の様子を伺うも、朱莉は気にする素振りも無く美味しそうにカレーを口にしながら言った。
「やっぱり・・・誰かと食べる食事って・・・それだけでご馳走だよね?」
朱莉のその言葉を聞いた時、航は何だか胸が締め付けられそうに感じ、改めて部屋の中を見渡した。
2LDKの広々とした部屋・・・。この部屋でも1人暮らしの朱莉には十分すぎる広さなのに、聞くところによると六本木の朱莉が住む億ションはこことは比較にならない位の広い部屋だという。
(そんな広い部屋で・・・ずっと1人きりで住んでいたのかよ・・。しかもこの先後5年間も・・・!)
再び、航の中で翔に対する怒りが湧いてくるのであった—。
食事が終わると朱莉が尋ねて来た。
「ねえ、航君は・・・お酒とか飲むの?」
「ああ、飲むよ。酒は好きだしな。」
「やっぱり・・・飲むならビール?」
「そうだな。殆どビールとうか・・・発泡酒ばかりさ」
航は肩をすくめると言った。
「あ、あのね・・・航君暑い中お仕事で大変だと思って・・実はビールを買って来たの。私は飲まないんだけど・・・。」
言いながら朱莉が冷蔵庫から出してきたのはオリオンクラフトビールだった。
「ああっ!こ・これは・・・オリオンビールじゃ無いかっ!」
おどろく航に朱莉は尋ねた。
「え・・?これって・・・そんなに有名なビールだったの?」
「何だ、知らなかったのか?沖縄と言ったら、この地ビールに決まってるじゃ無いか!朱莉、本当に貰っていいのか?」
「うん、いいよ。どうぞ。」
航は嬉しそうにビールの蓋を開けると、そのまま一気飲みする。
そして、ダンッ!とテーブルに置くと嬉しそうに言った。
「ぷは〜っ・・・やっぱりうまい!ありがとうな。朱莉!」
この時、初めて航は朱莉に笑顔を見せるのであった—。
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