6-8 朱莉が翔に恋をした理由

 時刻は午後2時を過ぎようとしていた。

朱莉と琢磨はダイニングで食後のコーヒーを飲んでいる時に琢磨が口を開いた。


「実は・・・朱莉さんに大事な話があるんだ。」


その表情は・・いつになく真剣だった。


「大事な話・・・ですか?」


朱莉は居住まいを正すと尋ねた。


「ああ。そうなんだ。明日香ちゃんが妊娠した話は知ってるんだよね?」


「はい・・・。翔さんから聞きました。妊娠4カ月に入ったそうですね。」


朱莉はしんみりと答えた。


「実は翔は明日香ちゃんが妊娠した時は・・・最初朱莉さんにも妊婦の格好をさせようと思っていたんだ。あたかも・・朱莉さんが妊娠しているかのように見せる為に。」


「!」


朱莉はその話に驚いた。朱莉が産んだことにすると言う事は契約書には書かれていたが・・まさか妊婦の真似事をさせられようとしていたなんて・・・。

朱莉は首を振った。


「そんな・・・真似・・私には出来そうにありません・・それに世の中には赤ちゃんが出来なくて不妊で苦しんでいる女性達が沢山いると言うのに・・・そんな妊婦さんの真似をするなんて・・・。良心が痛みます。」


琢磨はその答えを聞いて思った。

やはり朱莉ならそう答えるだろうと・・・・。


「うん・・・だから・・・朱莉さんには申し訳ないが、明日香ちゃんと2人で彼女が無事出産するまでは・・・ここを離れて貰おうかと思っているんだ。」


「え?!」


琢磨の提案に朱莉は驚いた。


「どこか・・・誰も知らない地方都市で朱莉さんと明日香ちゃんには暮らして貰って・・・あ、勿論それ程遠くは考えていないよ。例えば・・新幹線で2時間以内とか・・海を超えない範囲内で・・・。」


「・・・。」


朱莉は黙って琢磨の話を聞いている。


「勿論、お母さんの面会は・・無理になってしまうかな・・。なにせ段々大きく鳴っていくお腹を見せる事が朱莉さんには出来ないし・・。でもネットを介して電話で互いの顔を見ながらの面会は可能だし・・・。それに今教習所に通っているって話だけど・・・この件だって問題ない。転校する事は出来るんだ。その手続きも全て俺がやるから・・・。」


「九条さん・・・。」


「本当に・・・すまないっ!朱莉さんっ!巻き込んでしまって・・・・。」


琢磨は声を震わせるとテーブルに頭を擦り付けるように朱莉に頭を下げた。


「ちょ、ちょっと待って下さい、九条さん。どうか・・・どうか頭を上げて下さい。」


朱莉は慌てて琢磨に声を掛けた。


「朱莉さん・・・。」


琢磨は顔をあげた。その顔は・・・苦しげだった。


「九条さんには・・・本当に感謝しているんです。」


朱莉は笑みを浮かべながら言った。


「何故・・?俺に感謝を?」


琢磨は首を貸しげた。


「だって・・・九条さんのおかげで・・・翔先輩と再会出来たのですから。もう二度と会えないと思っていたのに・・。」


朱莉は初めて琢磨の前で「翔先輩」と呼んだ。


「やっぱり・・・朱莉さんは翔の事・・知ってたんだね?そして・・・好きだったんだろう?」


(そして恐らく今も・・・)


琢磨は・・・とうとう朱莉に一歩踏み込んだ事を聞いてしまった。本当はこの契約婚が終了するまでは聞くまいと思っていた事を・・・。


朱莉は黙って頷くと突然立ち上がり、引き出しから小さなケースを持って来ると琢磨に見せた。


「これ・・・私の大切な宝物なんです・・・。」


そう言って朱莉がケースを開けて取り出したのは・・・。


「これは・・・何だい?」


琢磨は尋ねた。


「これは翔先輩が私にくれたマウスピースです。私と・・・翔先輩は高校時代同じ吹奏楽部でホルンを担当していたんです。」


朱莉の話に琢磨は頷いた。


「そう言えば・・そうだったな。俺も・・明日香ちゃんも同じ高校だったし・・・翔が吹奏楽部だったのは知ってるよ。まさか・・・朱莉さんもそうだったとは・・。」


琢磨は言葉を詰まらせながら言った。


「知らなくて当然です。だって私は・・・1学期で退学してしまったんですから。」


朱莉は寂しそうに笑った。


「翔先輩は・・・私の命の恩人なんです。」


朱莉は遠い目をするように話を続けた。


「入部したての頃の私は・・・楽譜もろくに読めなくて・いつも同じホルンを担当してた翔先輩に居残り練習をして貰っていました。5月にコンクールがあって・・・それに備えて一生懸命練習したのですけど、中々上達しなくて・・・とうとう翔先輩が土曜日なのに、学校に無理を言って部室を開けてもらって2人で練習をしていたんです。その時でした。突然・・・私は激しい頭痛と眩暈に襲われ・・・呼吸困難になって倒れてしまったんです。そしてこれは後から聞いた話ですが・・・翔先輩が救急車を呼んでくれて、さらに病院迄付き添ってくれたんです。救急車の中では・・・私の此処までに至った状況を詳しく説明してくれたと・・後からこの話は主治医の先生に聞きました。」


「朱莉さん・・・何故そんな事になってしまったんだい?」


「金属アレルギーだったんです。私・・自分が金属アレルギーの体質だったなんて、今まで知らなくて・・・。主治医の先生の話で・・・・私はかなり危険な状況にあったそうです。でも・・・翔先輩が私の事をちゃんと見ていてくれたお陰で・・すぐに原因が判明したそうです。そしてずっと両親が来てくれるまで先輩は付き添ってくれて・・・。父も母も翔先輩に何度も頭を下げて・・・。そしてその後私が金属アレルギーだと言う事を知った翔先輩がこのマウスピースを私にプレゼントしてくれたんです。このマウスピースはコーティングされているので金属アレルギーの私でも使えるよって・・。これは・・私の宝物です・・。」


「そうだったのか・・・そんな話は初耳だったよ・・・翔が朱莉さんにね・・・。」


「無理もないですよ。だって翔先輩自信が忘れているみたいだったので。」


朱莉は笑いながら言ったが・・・琢磨にはまるでそれが泣き顔に見えてしまった。


「だから・・・私は翔先輩が困っているなら助けてあげたいし、こんな私でも翔先輩の役に立てるのならって・・・。私の事なら大丈夫です。」


「朱莉さん・・・・。」


琢磨は朱莉顔をじっと見つめた。

それにしても・・・全く知らない話だった。

だけど・・・朱莉は重度の金属アレルギーでショック症状を起こして死にかけた所を助けたのが・・・翔だったのだ。

その話だけ聞ければ・・・何故朱莉があそこまで翔に冷たい態度を取られても・・・耐えているのか納得が出来た。


(馬鹿だよな・・・。これじゃ俺の入る隙間なんか・・当然無いに決まってる。それにあの京極って男だって・・・。)


琢磨は自嘲気味に笑った。


「朱莉さん・・・それじゃ、君は・・明日香の出産の為に・・・色々犠牲を伴っても・・構わないって言うのかい?」


琢磨は朱莉に尋ねた。


「・・・明日香さんが出産するまでの間ですよね・・ここを離れるのは・・。」


「ああ・・そうだよ。」


「私なら・・・大丈夫です。それにそんなに遠くには住むことは無いんですよね?」


「うん・・翔も週末は明日香ちゃんがあまり遠いと、会いにも行けないしね・・・。」



その時、突然琢磨のスマホが鳴った。それは翔からだった。


「うん?何だ・・・。悪いが電話に出させてもらうね。」


「はい、どうぞ。」


琢磨はスマホをタップして電話に出た。


「もしもし・・・。・・・・一体どうしたんだ?・・・・え?何だって・・・おい。翔。いいから落ち着けよっ!」


朱莉は琢磨の尋常でない様子を見て嫌な予感がしてきた。

ひょっとすると・・・飛鳥の身に何かあったのでは・・・?!



「あ・・ああ・・分かった・・。うん、何とか手配してみる。・・・・大丈夫だ、心配するな。・・・それじゃまた後で連絡する。」


そして琢磨は受話器を切ると深いため息をついた。


「あ、あの・・・明日香さんの件ですか?・・・一体何があったんですか・・・?」


朱莉は震える声で琢磨に尋ねた。


「ああ・・・大変な事になった・・・。明日香ちゃんが切迫早産を起こしかけて・・そのまま沖縄の病院に入院する事になったんだ。絶対安静で・・・最低2か月は入院が必要になったらしい。」


「え・・・・?」


琢磨は顔を上げて朱莉を見ると言った。


「すまない、朱莉さん・・。どうやら明日香の出産場所は・・沖縄になりそうだ。」


朱莉は琢磨の言葉を呆然と聞いていた—。


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