5-11 小雪の舞う夜の出来事
その頃―
まだ翔と琢磨はオフィスに残って残務処理をしていた。
「参ったな・・・役員会議で新たな問題が出てくるとは・・・。」
翔が頭を抱えながら資料を見直していた。
「仕方が無いさ、常に社会は動いているんだ。こういう時もあるだろう?それより翔。お前・・・もう帰らなくてもいいのか?明日香ちゃんを1人にしておいて大丈夫なのか?」
琢磨は目を通していた資料から視線を翔に移すと言った。
「ああ、今夜は大丈夫なんだ。家政婦さんが朝まで泊まり込んでくれるからな。」
明日香が流産をしてから翔は家政婦協会に依頼し、翔の帰りが遅くなりそうなときは泊まり込みで家政婦を派遣してもらえるように頼んでおいたのだ。
「ふ~ん・・・なら安心だな?」
その時、突然琢磨のスマホが着信を知らせた。琢磨はスマホを手に取るとドキリとした。
「朱莉さん・・・。」
何故だろう?今までは普通に朱莉からのメッセージを受け取っていたのに、今夜に限って何故心臓が一瞬跳ね上がるかのように感じたのは―?
琢磨は自分の気持ちが良く分からなくなっていた。
「朱莉さんからなのか?何て言って来てるんだ・・。と言うか・・そうだ、琢磨。最近明日香も以前に比べると大分朱莉さんに対して気持ちが軟化してきてるんだ。今なら・・・ひょっとすると朱莉さんから俺に直接メッセージが届いても、もう何も言わないかもしれないから・・・朱莉さんに伝えてくれないか?これからは俺に直接メッセージを送ってもらって構わないって。」
しかし、琢磨は翔の言葉に何故か苛立ちを覚えた。
(何を言ってるんだ?今まで散々明日香ちゃんに気を使って朱莉さんとの直接のやり取りを拒否してきたくせにここにきて突然そんなことを言い出すなんて・・・。)
だから琢磨は言った。
「いや、いい。もしかするとこのメッセージは俺自身に用があってよこしているかもしれないだろう?」
「ふ~ん・・・。」
それを聞いた翔は何か意味深に腕組みをして琢磨を見たが・・・。
「分かったよ。お前に任せる。」
そして翔がPC画面を見つめてい時・・・・。
「くそっ!」
琢磨が髪をかき上げながら苛立ちの声を上げた。
「どうしたんだ・・?琢磨。朱莉さんのメッセージでそんな風に苛立つなんて・・・一体何があったんだ?」
翔が声を掛けると、琢磨がため息をついた。
「朱莉さんの・・・・お母さんが・・今週病院から外泊許可を貰って・・・朱莉さん宅へ来たいと言ってるらしいんだ。だけど・・・。」
琢磨は翔を見ると言った。
「お前・・・普段からあの自宅には住んでいないから・・・朱莉さん曰く、お前の生活感が全く感じられない部屋だと言っている。それにお前だって明日香ちゃんの手前、朱莉さん宅へ行くことなんか出来ないだろう?だから・・・朱莉さんはお母さんとホテルに泊まろうとしているんだが・・・。」
琢磨はそこで言いよどんだ。
「どうしたんだ?琢磨。話の続きを教えてくれ。」
「実は・・朱莉さんはまた新しくペットを飼い始めたんだ。」
「何だって?そうなのか?今度はどんなペットなんだ?」
翔が興味深げに尋ねてきた。
「・・・ウサギだ。」
「ウサギ?ウサギって・・・あのウサギか?」
「当り前だろう?どのウサギの事を言ってるんだ?」
琢磨は苦笑しながら言った。
「・・・へえ~・・・・ウサギかあ・・可愛いだろうな。見てみたいものだ・・・。」
翔は腕組みしながら頷いている。
「それで、朱莉さんはウサギを預かってくれるペットホテルを探しているんだが・・・何所も満室で見つからなかったらしい。それで・・俺に相談を・・・。」
琢磨は溜息をつきながら言った。
「何だ?別に何も悩むことは無いだろう?」
すると翔が言った。
「はあ?翔・・・お前、何言ってるんだ?」
「だから、その日は俺が朱莉さん宅へ行けばいい話じゃないか?そうすれば朱莉さんだってホテルを借りる必要は無いし。それに・・・・俺は一度も朱莉さんのお母さんと会った事は無いんだ。このままじゃいけないと思っていたところだ。都合がいい話じゃないか?」
「おい、翔・・・お前、今更何を言ってるんだよ?散々朱莉さんを今まで蔑ろにしてきたくせに・・・。」
琢磨は声を震わせて翔を見た。
「ああ、だから反省してるんだ。・・・それに今の明日香なら・・・きっと分かってくれるさ。週末は俺が朱莉さんの家へ行く。それで問題は解決だ。」
「・・・・。」
しかし、琢磨は返事をしない。
「どうしたんだ?琢磨?」
「お前・・・ふざけるなよ・・。」
怒りを抑えた声色で琢磨は言う。
「どうした?琢磨・・・何かお前、怒っていないか?」
「別に・・・なら、お前から・・・朱莉さんにメッセージを送ってやれ。」
ぶっきらぼうに言うと翔が言った。
「ああ。なら今ここで朱莉さんに電話をかけよう。」
「で・・・電話だって?!」
俺だって、そうそう簡単に朱莉さんに電話を掛けられないのに・・・?!
その瞬間琢磨は思った。
(え・・・?一体俺は今何を思ったんだ・・・?)
そんな様子を見た翔は不思議そうに琢磨を見た。
「琢磨・・・どうしたんだ?何だか・・・顔色が悪いぞ?戸締りはしていくから・・・お前、先に帰れよ。」
翔は朱莉との連絡専用のスマホを手にしながら言った。
琢磨は一瞬そのスマホを恨めしそうな目で見つめ、首を振った。
「ああ・・・。分かった。先に帰らせてもらう。悪いな・・・。」
正直な話、今夜はこれ以上ここにいたくないと思った。
今から翔は朱莉に電話を掛けるのだ。その会話を傍で聞くのは・・・正直な話、辛いと琢磨は感じていたからだ。
「悪い、それじゃ先に帰るな。」
琢磨は上着を羽織り、カバンを持つと背を向けた。
「ああ。気を付けて帰れよ。」
そして琢磨はドアを閉めると、翔の電話で話す声が聞こえてきた。
琢磨はその声をむなしい気持ちで聞き・・・オフィスを後にした。
外に出ると、いつの間にか小雪がちらついていた。
「3月なのに・・・雪が・・・。」
琢磨は白い息を吐きながらビル群から見える空を見上げた。
「朱莉さん・・・。」
(結局・・俺が朱莉さんにしてあげられる事って・・・殆ど無いって事なのか・・・。)
琢磨は小さく呟くと、足早に街頭が光り輝く町の雑踏を歩き始めた―。
その頃―朱莉の自宅では・・・。
朱莉は翔からの電話を受けていた。
「え・・ええっ?!ほ・本当に・・よろしいのですか?翔さん。」
まさか翔の方から朱莉の部屋へ来てくれるとは思ってもいなかったので朱莉は信じられない気持ちで一杯だった。
『ああ、勿論だよ。今まで一度も朱莉さんのお母さんとは会った事は無かったからね・・・。本当にすまなかったね。やっとご挨拶することが出来るよ。』
受話器越しから聞こえてくる翔の声は優し気だった。
「で、でも・・・明日香さんが・・・。」
『明日香の事なら心配しなくていい。ちゃんと俺が説得するから・・・。いざとなれば家政婦さんも泊まりに来てくれるから大丈夫だよ。』
「は、はい・・・。本当にどうも有難うございます・・。」
朱莉は嬉しくて涙ぐみそうになるのを必死で我慢した。
『それじゃ、詳しい話はまた数日後にしよう、戸締りをきちんとして寝るんだよ?』
「は、はい。お気遣いありがとうございます。」
そして電話は切れた。
「翔先輩・・・・。」
朱莉は幸せな気持ちでいつまでもスマホを握りしめていた。
契約婚が始まったのが昨年の5月。
この関係が始まって10カ月目の小雪の舞う夜の出来事だった―。
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