4-6 京極正人との出会い
朝8時半―
「お早う。琢磨。」
先に出社して、デスクで仕事をしていた琢磨に朝の挨拶をしながら翔はオフィスに入って来た。
「ああ、お早う。翔。」
琢磨はPCから一瞬顔を上げ・・・翔の首元を見た。
「あ、翔・・・。そのマフラー・・・。」
「ああ、いいだろう。実はこれ・・・。」
翔が言いかけた時、琢磨が笑顔で言った。
「朱莉さんから貰ったんだろう?いい色合いじゃ無いか。朱莉さん・・・お前の為に頑張って編んでいたからな。」
「・・・え?」
琢磨の話を聞き、翔の顔が曇った。
「何だ?どうかしたのか?」
翔の顔が強張ったのを見て琢磨は怪訝そうに首を傾げた。
「これ・・・朱莉さんが編んだのか・・・?」
翔はマフラーを手に取り、琢磨に尋ねた。
「ああ。犬の動画が朱莉さんから送られてきた時、今お前の為にマフラーを編んでると言っていたからな?藍色のマフラーだと言っていたし・・・。朱莉さんから貰ったんだろう?」
「え?琢磨。もう少しその話・・詳しく・・。」
しかし、琢磨は椅子から立ち上がると言った。
「悪い、翔。今日はこれから得意先の秘書と打ち合わせがあって、先方の企業に出向かないといけないんだ。話なら後にしてくれないか?」
「あ、ああ・・。分かった。」
琢磨はPCの電源を落とし、上着を着て鞄を持つと忙しそうに足早にオフィスを出て行った。
琢磨がオフィスから出て行くと翔はハンガーにかけてあるマフラーをチラリと見た。
「まさか・・・あのマフラーは朱莉さんが・・・?」
(琢磨が社に戻ってきたら話を聞いてみるか・・・。)
翔は溜息をつくと、PCを立ちあげた—。
「ふう・・・なかなか犬の引き取り手って・・・見つからないんだな・・。」
朱莉は溜息をついた。今朱莉は億ションに完備されているドッグランに来ている。
ベンチに座ってじっとマロンの様子を眺める朱莉。
マロンは楽しそうに芝生の上を走り回っている。愛らしいマロン・・・。だけど・・もうすぐお別れしなくてはならないのだ。
マロンの姿を見ていると・・・再び朱莉の目に涙が浮かんできたので、慌ててハンカチを目に当てた。
ドッグランにはマロン以外にもう1匹違う犬が遊びに来ていた。
しかも偶然か、同じ犬種のトイ・プードルであった。始め2匹は離れた場所で遊んでいたが、いつしか2匹一緒になってお互いに走り回っていた。
「え・・・・?何時の間に仲良くなっていたんだろう?」
朱莉は不思議そうにその光景を眺めていると、突然声を掛けられた。
「あの・・・すみません。」
「はい?」
見上げると朱莉とさほど年が変わらない男性がいつの間にか朱莉の側に立っていた。
「あの・・・何か・・?」
突然見知らぬ男性に声を掛けられたので、朱莉は警戒しながら返事をした。
「失礼ですが・・・あの犬は貴女の犬ですか?」
男性が指さした先には別の犬と遊んでいるマロンがいる。
「は・・はい。そうですけど・・?」
「ああ、そうなんですね。実は貴女の犬と一緒に遊んでいる犬は・・・僕の飼い犬なんですよ。あ、隣・・・座ってもいいですか?」
「はい、どうぞ。」
朱莉はベンチの端に座り、男性の座るスペースを空けた。男性は会釈をして朱莉の隣に座ると言った。
「実はここに先週引っ越してきたばかりで、今日初めて犬を連れてドッグランに遊ばせに来たんですが・・・凄い偶然ですね。同じ犬種なんですから。しかも随分中良さそうにしているし・・あの犬はまだ仔犬ですよね?」
「はい。そうですね・・・。生後70日くらいです。」
「70日か・・・・まだまだ可愛らしい時期ですね。僕の犬は今1歳なんですよ。でも良かったです。あまりここに住んでる人達はドッグランを利用していないようで、中々ご近所付き合いも出来なかったので。」
男性は始終笑顔で朱莉に言う。そんな男性を見て朱莉は思った。
(感じがいい人だな・・・犬好きだし・・・。こういう人にマロンを引き取って貰えれば・・・。)
そこまで考えた時、又朱莉の目に涙が浮かんできた。
「あ、あの・・どうかしましたか?何か・・・気に障る事言ってしまいましたか?」
「い、いえ。何でもありません。ちょっと目にゴミが入ってしまったみたいで・・・。」
朱莉は慌ててハンカチで両目を拭った。男性はそれを黙って見ていたが・・・やがて言った。
「あの・・・またよろしければ貴女の犬をこちらに遊ばせに連れて来てもらえますか?」
「え?」
一体何を言い出すのかと思い、朱莉は顔を上げた。
「いえ。僕の犬とすごく仲良さそうに遊んでいたので・・・また二匹を一緒に遊ばせたいなと思って・・・。迷惑・・・ですかね?別に怪しい者じゃありませんから。あ、良ければ今名刺があるので。」
男性は胸ポケットからサッと名刺を出して朱莉に手渡してきた。
「京極・・・正人さん・・ですか?えっと・・・。リベラルテクノロジーコーポレーション代表取締・・・役・・?」
朱莉は名刺を見て目を丸くした。
「どうかしましたか?」
男性は朱莉に声を掛けてきた。
「あ、あの・・・代表取締役って・・・まさか社長さんですか?!」
名刺を両手で握り締めながら朱莉は京極と名乗る男性を見た。
「ええ・・・まあ・・一応は。あ、でも2年前に独立して作ったばかりの会社なので、それ程大したことはありませんよ。IT産業の企業なので、僕も含めて社員の殆どは在宅勤務か必要に応じてレンタルオフィスを利用しているんですよ。ゆくゆくは自社ビル位は持とうかと考えていますけど・・・。」
京極の話を朱莉は呆然と聞いていた。やはりこの億ションに住む人達は自分とは住む世界が違うのだと思うと、何となく惨めな気持ちになって来た。
今の状態で6年後・・・契約結婚が終わり、翔と離婚をすれば朱莉はこの億ションを出なければいけない。自分には何も残らないのだ。その為にはまず通信教育を頑張って、高校卒業の資格を得なければならない。
一方の京極は突然朱莉が黙りこくってしまったので、再度声を掛けてきた。
「あの・・・何かありましたか?」
「あ、いえ。何でもありません。」
朱莉はパッと顔を上げて京極を見た。
「あの、宜しければ貴女の名前も教えて頂けますか?」
名前・・・私に・・・鳴海の姓を名乗る資格があるのだろうか・・・?いくら翔と婚姻関係を結んでいるとは言え、所詮それは書類上だけの事。だけど・・・。
「はい、鳴海朱莉と申します。」
「朱莉さんですか。良い名前ですね。」
何故か男性は苗字ではなく、下の名前で話しかけてきた。
「ありがとうございます。あの、それではそろそろ失礼しますね。」
すぐに部屋に戻って勉強をしなければ・・・。
朱莉はそう思い立ち上ると、京極に声を掛けられた。
「あ、あの。」
「はい?」
朱莉は立ち上がったまま返事をした。
「それで、ここで一緒に犬を遊ばせるという話ですが・・・。」
(ああ・・・そう言えばそんな話をしていたっけ・・・。)
「あの・・・今と同じ時間で、1時間位なら・・・大丈夫ですよ?」
朱莉はとてもでは無いが出会ったばかりの男性に、もうすぐ私の飼い犬はいなくなります。とは言えなかった。
(まあ・・・どうせあと数日の話だし・・・。マロンの事は別に京極さんに話す必要は無いよね?)
「はい、それでは明日またよろしくお願いします。」
京極が頭を下げてきた。
「いえ、こちらこそよろしくお願い致します。」
朱莉も頭を下げると、マロンを呼んだ。
「マローン!おいでーっ家に帰るわよーっ!」
すると朱莉の呼び声に気付いたのか、マロンは小さな身体で一生懸命駆け寄ってくると朱莉の足にじゃれついて来た。見ると京極の犬もついて来ていた。
「マロンて言うんですか?可愛らしい名前ですね。」
京極は眼を細めると、マロンの頭を撫でた。それを見て、つい朱莉はポロリと言ってしまった。
「犬・・・お好きなんですね。」
「え?」
その言葉に京極は眼を瞬かせて朱莉を見た。
「あ!」
(いやだ・・私ったら・・・!犬を飼ってるんだから犬好きに決まっているのに!)
つい頭の中に翔の顔が浮かんでしまい、朱莉は妙な事を尋ねてしまった事に気が付いた。
「す、すみません。変な事を言ってしまって。」
慌てて頭を下げる。
「ははは・・・いいんですよ。それではまた明日お願いします。朱莉さん。」
男性はまた下の名前で朱莉を呼んだ。
「はい・・ではまた明日。」
朱莉はマロンを抱きかかえると、京極に頭を下げてドッグランを後にした―。
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