1-6 引っ越し

 今日は朱莉が葛飾区のアパートから六本木の億ションに引っ越しをする日である。

全ての梱包作業を終え、不動産業者の賃貸状況の査定も何とか敷金で賄えて、追加料金を取られる事も無かった。

後はこれで引っ越し業者がやって来るのを待つだけ・・・。

今迄自分で使っていた家具や家電は全て処分してしまったので部屋に置かれている荷物は段ボール10箱ばかりにしか満たなかった。

朱莉がこの部屋で使用していた家具・家電はどれも1人用の小さな物ばかりで、逆に持っていけば邪魔になるような物ばかりだったからである。


「新しい家に着いたら・・・家具を買いに行かなくちゃ。」

朱莉はぽつりと呟いた。


 引っ越し期間があまりにも短すぎた為に結局朱莉はこれから引っ越す億ションの内覧すらしていなかった。なのでどんな家具を買えば良いのかも一切分からず、翔から預かったブラックカードはまだ一度も使った事が無い。


 がらんとした床に座りながら朱莉は3年間暮らしてきたアパートを改めてグルリと見渡した。

初めてここに引っ越してきた時は、あまりに狭く、古い造りの部屋に気分が滅入ってしまったが、日当たりが良く、冬でも部屋干しにしていても洗濯物が乾く所が気に入っていた。


「住んでいる時はすごく狭い部屋だと思っていたのに・・・こうしてみると・・広くみえるものなんだ・・・。」


その時、呼び鈴が鳴った。

「はい。」

玄関を開けると引っ越し業者の人達がぞろぞろと現れたので朱莉は面食らってしまった。ちょっと・・・一体何人でやってきたの?!

数えると7名もの人数で現れたので、朱莉はすっかり仰天してしまった。

一方の引っ越し業者の方も朱莉の荷物の少なさに面食らっている。


「あ・・・あの・・・引っ越しのお荷物は・・・?」


一番の年長者の男性が朱莉に尋ねて来た。


「あの・・・お恥ずかしい話ですが。段ボール箱・・・だけなんです・・・。」

朱莉は顔を赤くして俯いた。


(ああ・・・恥ずかしい!こんな事なら・・九条さんに引っ越しの件で連絡を入れれば良かったかも・・・。でも九条さんも忙しい方だし・・・私が引っ越し業者に依頼するべきだったんだ・・・。)


「申し訳ございません。私からきちんとお話するべきでした・・・。」

申し訳ない気持ちで一杯になった朱莉は何度も頭を下げるので、かえって引っ越し業者は恐縮する羽目になったのであった。


 その後、引っ越し業者のトラックを見送った朱莉はマンションの住所を頼に電車に乗って新しく済む億ションへと向かった。


 訳1時間程駆けて朱莉は六本木の駅に降り立った。そして目的地に着いた朱莉は思わず口をポカンと開けてしまった。


「え・・・?も、もしかして・・・ここが・・・?」


目の前には超高層ビルが聳え立っている。1Fホールにフロントがあり、そこに大勢のスタッフが出迎えている。その外観はまるで高級ホテルの様であった。

恐る恐る受け取っていたカードーキーをかざし、中へ入れば手稲に挨拶をされ、さら朱莉は驚く事になる。

1Fは住民の共同スペースになっているのだろうか。フィットネスジムがあり、保育園、カフェ、レストラン、幼児教室・・・まるで生活から趣味に至るまでの全てのサービスがコンパクトに凝縮されたかの様な施設の充実度は最早朱莉にとって別世界であった。朱莉はチラリと試しにカフェを覗くと、そこには品のある女性、男性達が会話を楽しんでいる様子が見えた。・・・朱莉に取っては雲の上の人達だ。

するとそこへ、1人のコンシェルジュの男性が声を掛けてきた。


「あの・・・もしや鳴海朱莉様でいらっしゃいますか?本日引っ越されてきた・・・。」


「あ・・・は、はいっ!」

朱莉は赤面しながら返事をした。初めて須藤では無く、「鳴海」という名字で呼ばれた事に心臓が高鳴った。

今回の結婚は恐らく鳴海と顔を合わす事は1年に数回程度になるかもしれない。それでも・・・名ばかりの偽装結婚ではあったが、初恋の鳴海翔との結婚の話はやはり嬉しかった。そんな鳴海と同じ名字で呼ばれたのは嬉しさを通り越して、朱莉は感動してしまった。


「あの・・・どうされましたか?鳴海様。」


コンシェルジュに不思議そうな顔をされてしまった。


「あ、い・いえ。何でもありません。」


朱莉は顔を赤く染めて俯いた。


「あの・・・実は先程から鳴海翔様の秘書と名乗られる九条様が鳴海朱莉様をお部屋でお待ちになられております。


「あ・・す、すみません!すぐに行きますっ!」


そして朱莉はエレベーターに案内され、乗り込むと20F行のボタンを押した。

エレベーターを降りると、またしても朱莉は驚かされることになる。

本当にここは・・・まるで一流ホテルのようにしか見えなかったからである。

一瞬躊躇していると、朱莉がこれから住む部屋のドアがカチャリと開けられ、中から九条が現れた。


「ああ、須藤様・・いえ、鳴海朱莉様。お待ちしておりました。・・どうぞ中へお針下さい。」


「はい・・。では失礼致します。」


朱莉が頭を下げて部屋の中へ入ろうとすると、九条が面食らった顔をして朱莉を見ている。


「あの・・・何か・・・?」


「い、いえ。本日から貴女がここに住まわれる場所なのに、私が先に入り、朱莉様が後から『失礼致します』と言って入られたので、つい違和感が・・・。あ、すみません。変な事を申し上げてしまって・・・。」


「いえ。ちっとも変な事ではありません。だってここは・・・私が今日から6年間、居候させて頂く場所に過ぎませんから・・・。」


そう言うと、朱莉は悲し気に微笑んだ。


「な、なにを言っておられるのですか?朱莉様。貴女と社長は書面上。紛れもなく夫婦なのですから。、もっとご自分に自信を持って下さい。いずれ、このお部屋でお客様をお招きしてパーティーを主催する事等もあります。その時は・・どうか社長の為にも・・堂々として下さい。」


九条の言葉に思わず朱莉は口に出してしまった。


「鳴海先輩の・・・・為に・・・?」


「え?鳴海先輩?朱莉様・・・今のは一体・・?」


「あ、あの・・・!ぜ、絶対に今から話す事・・・社長には黙って頂けますか?」


朱莉は縋るように九条に尋ねる。


「え・・ええ。朱莉様がそこまで仰るのであれば・・・。」


「私は・・・社長と同じ高校に通っていたんです。」


「ええ・・・。そうですよね。履歴書は拝見しておりますので。」

九条は頷いた。


「実は鳴海先輩と私は同じ吹奏楽部で・・・『ホルン』を受け持っていたんです。私・・・全然上達しなくて・・先輩に何回も特訓して貰ったんですよ。」


「ええっ?!そうだったんですか?!」

(くそっ!翔の奴・・・何故そんな大事な事を隠していたんだっ?!)

平常心を装いながらも。九条は翔に対して苛立ちを感じていた。

そんな九条の様子に何か気付いたのか、朱莉は慌てて付け加えた。


「あ、あの・・・でも恐らく先輩は覚えていないと思いますよ。実は・・・私が高校1年の時に父が病気で倒れ・・・会社も倒産してしまい、それで夏休みの間に退学したんです。だから鳴海先輩が私の事覚えていなくても当然です、あ・・・でも本当に今の話は絶対に社長には内緒にしておいて下さいね。」


「え、ええ・・・。それでは朱莉様のお母様は・・・?」


九条は履歴書には朱莉の母親の記載がないので、念のために確認してみたくなった。


「はい、母は・・・。父が無くなってすぐに、家もお金も失ってしまったので、身体が弱いのに無理をして働いて・・・身体を壊して3年前から入院生活をしております。それで・・・お恥ずかしい話ですが・・・銀行に借金を作ってしまって・・・。なので、今回の話、お受けしたんです。本当に、鳴海社長にはお世話になってばかりで感謝しかありません。」


そう言って朱莉は九条に少し悲し気に微笑むのだった—。










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