1-4 退職

 その日の夜―

朱莉が質素な食事を取っているとスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。

手に取り早速開いて、文面を読む。


「あ・・・。」


それは鳴海翔からのメッセージでは無く九条琢磨からだった。



『今日はお疲れさまでした。婚姻届けが本日受理されましたのでただいまより須藤様の苗字が鳴海にかわりますので、どうぞよろしくお願い致します。新しい印鑑は後程郵送させて頂きます。引っ越し業者もこちらで手配致しました。3日後に業者がそちらへ伺いますので荷造りの準備を始めておいて下さい。後、結婚指輪をお作りしますので指輪のサイズを教えて頂けますか?よろしくお願い致します。』



ふう・・・。

朱莉は溜息をついた。この人物は余程有能なのだろう。今日だけでこれ程の仕事をこなすのだから・・・・。恐らく一流大の高学歴に間違いは無い。


「やっぱりこういう人が・・・会社では必要とされるんだろうな・・・。」


「あれ?そう言えば・・・指輪のサイズって・・・?困ったな・・。指輪なんて一度もはめた事が無いからサイズが分からないなあ・・・?そうだ、調べてみよう。」


スマホをタップして、指輪のサイズの測り方を検索してみた。

「へえ~。細い紙とセロハンテープがいるのか。」

早速セロハンテープと付箋を用意すると、自分の指にセロハンテープを貼り付ける。

その上に付箋を貼って、固定して付箋をぐるりと一周させて、つなぎ目部分をペンでチェックをいれる。そして付箋とセロハンテープを剥がし、付箋の紙端から印を付けた箇所までの長さを測ってみる。そして長さをネットで検索した指輪サイズ表と照らし合わせると、朱莉の指輪サイズは7号だった。


「そうなんだ。7号か・・・。覚えておこっと。」


そして朱莉は呟くと、早速スマホにメッセージを打ち込んだ。


『こんばんは。本日は色々とお世話になりました。引っ越し業者の件、どうもありがとうございました。明日、ここのアパートの解約をしてきます。指輪のサイズですが、今計測したところ7号でした。どうぞよろしくお願い致します。』


そして送信する。

その後、朱莉は思った。明日・・・会社に結婚した事と、仕事をやめる事を伝えなくては・・。

朱莉はチラリと貰ったマンションのパンフレットを見た。港区六本木にある高級住宅マンション・・いや、恐らく億ション。

今明かりが住んでいるのは葛飾区の地区30年の古い賃貸アパート。そして職場はここから徒歩20分の缶詰工場。とても通勤出来る距離では無い。

それに、これからは毎月150万ずつ振り込まれるのだ。それに日々の買い物はセレブだけが持つ事の許される「ブラックカード」。

もう一月16万円のパートをする必要は何処にもない。だけど・・・。


「私が辞めると・・・困るかなあ・・・?」


朱莉は溜息をつくのだった—。



 翌朝—


「おはようございます。昨日は突然仕事をお休みしてしまい、申し訳ございませんでした。」

事務所に入るなり、朱莉が頭を下げると何故かそこには社長の片桐(58歳)と妻が出迎えてきたのだ。2人とも・・・何故か笑顔である。


「やあ、おはよう。須藤さん。聞いたよ・・・・君、結婚したんだってね。おめでとう。」


「おめでとう、須藤さん。それにしても水臭いわ。教えてくれれば良かったのに。」


何故か社長は笑顔で朱莉に話しかけてきた。

そして妻の英子もご機嫌だ。

え?一体どういう事なのだろう?誰にもまだ話していないのに・・・そして2人が妙に機嫌が良いのも気になった。


「あ、あの・・・突然急に決まった話だったのでご報告する暇が無くて・・・」


朱莉は必死で言い訳を考えたが、英子が言った。


「いいのいいの、気にしなくも。誰にだってプライバシーというものがある訳だし・・。でも、本当に助かったわ。」


「え?助かった・・・?」


どう言う意味なのだ?朱莉は首を捻った。


「君の結婚相手の鳴海社長の秘書の方から昨夜突然電話があったんだよ。うちの缶詰工場を鳴海グループの下請けの食品会社に紹介してくれたらしいんだ。良かったよ。鳴海グループと言えば日本でも10本の指に並ぶ大企業だからね・・・。これでうちの缶詰工場も安泰だよ。」


社長は余程嬉しいのか、笑顔を隠せない。


「須藤さん。貴女これから引っ越し準備とかで忙しくなるんでしょう?秘書の方が新しいパートの方を2名派遣して下さることになったの。しかもその2人のお給料はこちらからは支払わなくても良いと仰ってくれたのよ。とても優秀な人材の様だから・・うちの会社の事は気にしないで、お嫁に行って頂戴?」


英子は朱莉の手を取って言った。


「あ・・・有難うございます・・・。」


朱莉は英子に礼を言ったが、ショックで目の前が真っ暗になりそうだった。まるでお前のような人間は代用品がいくらでもいるんだからなと言われたような気分になってしまった。

それに・・・こうやって今後6年間、自分の意思とは無関係に事が進んで行く事になるのだろうと思うと胸が苦しくなってきた・。


(私は・・・鳥かごの中の鳥のような状態になるんだ・・・。)



  結局、この日で朱莉の仕事は終わりになった。

私物を整理して、職場の人達に別れと今迄の礼を伝えると朱莉は事務所を後にした。

時刻は11時になろうとしていた。


「アパートの解約に行かなくちゃ・・・。」


その時、朱莉はスマホが赤く光っているのに気が付いた。どうやらメッセージが届いていたようだ。

路の端に避けてスマホをタップしてメッセージを開いて見る。送り主はやはり秘書の琢磨からだった。


『おはようございます。指輪のサイズ有難うございます。早速本日注文させて頂きました。あと、須藤様のネットバンキングに支度金として200万円振り込みをさせて頂きました。アパートの解約など、これからお金が発生する事になると思いますので、どうぞこちらのお金をご利用ください。明後日の11時に須藤様のアパートに引っ越し業者が参りますので準備をお願い致します。もし、荷造り等に人手が必要であればいつでも申し出て下さい。』


朱莉はメッセージを読み、ため息をついた。

本当に・・・仕事が早い。この人はやはりとても優秀な人なんだ。どうしても自分とこの秘書を比較してしまい・・・暗い気持ちになってしまった。

だが・・・。


「そうよ、私と言う偽の結婚相手がいないと困るのは社長の方なんだから・・・。少しは私も役立っていると考えるべきだよね?」


独り言のように呟くと、朱莉は顔を上げて不動産屋へと向かった—。




「はい。お待たせ致しました。須藤様。それでは2日後にアパートを出られると言う事でしたのでお部屋の片づけを済ませておいて下さい。当日は朝9時にお部屋の査定にこちらから須藤様のアパートへ伺う事になると思いますので、よろしくお願い致します。」

担当の男性の言葉に朱莉は頭を下げた。


「突然の解約で申し訳ございませんでした。」


「いえ。お気になさらずに。それでは2日後、よろしくお願いしますね。」



不動産会社を出た朱莉は空を見上げた。

(これから病院に行かなくちゃ・・・。だけどお母さん・・どう思うかな?突然結婚したって話を聞かされたら・・・。喜んでくれる?それとも・・・怒られるかな・・?)


朱莉は重い足取りで母の入院する病院へと向かった。


コンコン。


病室のドアをノックして朱莉は中へ入った。


「まあ、朱莉。どうしたの?こんな時間に・・・。仕事はどうしたの?」


母が驚いて朱莉を迎え入れた。・・・まあ驚くのも無理は無いだろう。朱莉は今迄無遅刻、無欠勤で仕事をしていたのだから。


「う、うん・・・。仕事・・今日で辞めてきたから。」


「辞めたっ?!一体何故・・・?!」


「お、お母さん。落ち着いて。・・・実はね・・・私。結婚したの。黙っていて・・ごめんなさない。」


「え・・・ええっ?!あ・・貴女、結婚ですって?!な・・何故そんな大事な事今迄黙っていたの?ウッ!」


突然母が胸を押さえて苦しみだした。いけないっ!

朱莉は慌ててナースコールを押すと、すぐに看護師が駆けつけてきた。


「ど、どうされたのですか?須藤さん!」


「は・・母が突然具合が悪くなって・・・!」


「だ・・大丈夫よ・・・。朱莉・・。それより・・・突然結婚なんて・・・。」


母は胸を押さえながら朱莉を見た。


「お母さん・・・・。」


「朱莉・・・ごめんね。詳しい話はまた今度・・・聞かせてくれる・・・?」


「そうですね。朱莉さん。今日の所は・・・。」


「分かりました。・・・今日はもう帰りますね・・・。」


朱莉は2人に促され、病院を後にした―。








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