第一幕 虎と、幼女と、出会う夏 その5

「……おはよう、トラくん」

 翌朝、いつものようにわかとらを起こしてくれた緋音の顔は、いつもと違っていた。

「おはようあか姉ぇ。どしたの、元気ない」

「そんなことないよ」

「嘘。明らかに落ち込んでる」

 昨日の夕方、大慌てでたちを迎えに来た時からずっと、緋音の表情は曇り続きだった。自分のせいで、わかとらにも子供たちにも迷惑をかけた……なんて思っているのだろう。

「ごめんね、あか姉ぇ。ほんのちょっとだけ、今日は来ないかもって思った」

「……言ったでしょ、毎朝来るよ。健やかなるときも、病めるときも」

「うん、だから疑ってごめん。……じゃないね、ありがとう」

 いつもよりぎこちないやり取りをしてから、朝の日課を済ませる。竜たちも、緋音がいつもより元気がないことを察してか心配そうにしていた。

 食卓について、「いつも通り」の二人きりの朝食。

「アレ、あか姉ぇは気づいてたんだね」

「……? 何が?」

「ベッドの下のアレのこと」

「あ……う、うん。だってトラくん、毎朝お寝坊さんだから。ベッドの下の教材で毎晩遅くまでお勉強してたことくらい、わたしにもわかるよ……」

「それでかぁ。いざバレちゃうと、なんか恥ずかしいな……」

 傍から聞くといかがわしい会話をしているようだったが、当人同士はお互い何の話か理解しているし通じ合っているので何の問題もなかった。

「それを知ってたから、僕にあの子たちの先生になってもらおうと思ったの?」

「……それも、あるよ。あるけど、それだけじゃないの」

 数秒、呼吸をおいて。覚悟を決めたように口を開く。

「あの子たちは、トラくんと同じなんだ」

 思い出される、の発言。養成学校で落ちこぼれ扱いされ、挙げ句居場所を失った。

 竜医業界全体からバッシングを受け、半ば追放されたわかとらと、似た境遇だった。

「周りのみんなから無理だって言われて、のけ者にされて。それでもずっと……絶対に諦めないところが、同じなの」

 続いた緋音の言葉は、わかとらの想像とは少し主旨が異なるものだった。

「わたしよりトラくんの方が竜医としてずっと優秀なのも、理由のひとつだけど……一番の理由は、トラくんが一番あの子たちの気持ちに寄り添ってあげられるからだよ」

「そんなこと。あか姉ぇだって、親身で、信頼されてて」

「わたしはあの日、諦めたから!」

 わかとらのフォローを塗り潰すように、緋音は叫んだ。

「わたしも、絃ちゃんも、チームのみんなも! きっと世界中の竜医が、あの白い竜の治療を諦めた! トラくんだけが、最後までずっと諦めなかった……ううん、違う。今もまだ諦めてない! もう全部投げ出しちゃったって、誰も怒らないのに!」

 七年分、積み重なったノートの山。患者を救えず、白衣を脱ぎ捨てたとしても、あの白竜の治療法を見つけ出すためだけに、ずっと戦い続けてきた証。

「あの子たちのことだってそうだよ。他のどんな竜医や教師が諦めたって、無理だって切り捨てたって。トラくんだけは絶対に諦めないはず。だから、他の誰でもないトラくんに……ひなわかとら先生に、彼女たちの『先生』になってほしかったの……」

 緋音にとっては、七年前、わかとらを残して避難したことが一番大きな傷跡だった。最後の最後までわかとらの力になってあげられなかったことが、一緒に罪をかぶってやれなかったことが、ずっと棘のように心に残り続けていた。

 きっとたちの教師にわかとらを推したのは、ひなわかとらの竜医としての矜持を、尊厳を、肯定するためでもあったのだろう。

 諦めないことが、いつか実を結び、誰かを救うことになると伝えるために。

「……ありがとう。あか姉ぇの気持ちは、よくわかったよ」

 席を立ち、今にも泣き出しそうな緋音の頭をそっと撫でる。

「まだ……終わってない、か」

 も言っていた。

 諦めたら、それで終わる。

 諦めない限りは、終わりじゃない。

 あの日、わかとらが治せなかった白竜の病。ずっと諦めなかった七年分の想いを、知識を。次の世代を担う「最高の竜医」に託すことができるまでは、終わりじゃない。

 そして、託す手段があるとしたら、それは──。


「ぴゅぎいいいい─────っ!」


 突如、玄関の方から聞こえた甲高い泣き声。

「……今のは」

 小さな水竜の、ただならぬ様子の叫び。駆け足で外へと飛び出すと、そこには。

「あ……っ、せんせー!」

 たち三人が、当たり前のように訪ねてきていた。

「ぴゅいいー、ぴゅいいー……!」

 屈みこんだの腕に抱きかかえられた水竜は、鰭状の後ろ足を派手に擦りむいている。

「あ、あたしたちを見つけて水槽から飛び出して、転んで地面にぶつかっちゃって」

「……落ち着いて。医者の不安は患者に伝わります」

 不安そうな瞳をまっすぐ見つめ返すと、ははっとして背筋を伸ばした。

「ごめん、せんせー。落ち着きましたっ。大丈夫」

 医者の不安は、患者に伝播し追い詰める悪性の感染症だ。冷静さを欠いては、どんなに軽傷の患者であっても助けられはしない。もそれは心得ていたようだった。

 改めて屈み込み、泣きじゃくる水竜の擦過創に目をやる。鱗がひび割れ、少量ながら出血が認められた。雑菌が入り込むと治りが悪くなるので、洗浄、消毒、保護が必要だ。

「……あのっ!」

 部屋の中から救急箱を取ってこようと立ち上がったわかとらを、が呼び止めた。

「あたしが、手当てしますっ!」

 まっすぐで真剣な眼差し。伝わってくるのは、事故にかこつけて実力をアピールしたいなどという打算ではなく、純粋に友達の怪我を治してあげたいという優しい想い。

「ではお願いします」

 逡巡の余地など現場には不要。即座の返答に、は面食らいつつも力強く頷く。

「みーちゃんっ」

「…………(ごそごそ)」

 の合図でかすみが、抱えていたぬいぐるみからズルリと救急箱を取り出した。かたつむりみたいな独特のデザインだと思っていたが、殻の部分が収納になっていたようだ。

「えっと、まずは洗って……水道……」

 きょろきょろと見回すが、無い。水回りを司っていたのは他ならぬ水竜だ。

「ぴゅ……ぷぴーっ」

 すると、水竜は自ら水を噴き出して傷口を洗い流した。しみるだろうに、えらい。

「ご、ごめんね! 次は消毒……」

 救急箱から消毒薬を取り出し、ガーゼに含ませようとしたを、

「待った」

 腕を掴んで制止する。

「へっ!? せ、せんせ……?」

「水竜種、特に彼のような体の小さな個体には市販の消毒薬の使用は控えて」

 いきなり普段の敬語が消え、手短になった口調。人が変わったような態度には面食らっていたが、は素早く手帳を取り出し、メモを取り始めていた。

「体内の水分量を調節してバイオリズムを正常に保つ水竜は体液中への不純物侵入に弱い。口腔内の濾過機構を通さず傷口から直接消毒薬を吸収した場合その分解と体外排出に多量の水分を消費し、先の放水や元々の流血とも合わせて脱水症状に陥る危険がある」

「え、えっとえっと……!?」

 まごつくに代わり、が疑問を口にする。

「……つまり消毒は不要ってこと?」

「消毒自体は必要。傷口から雑菌が入るのも不純物の侵入に変わりない。今回は消毒薬の代替品として、彼自身の体液に組成、pH値、浸透圧値が近い液体または体液そのものを利用する。こうして彼の鼻先にガーゼを当てて、軽く押し付けて」

 掴まれたままの腕で、は手にしたガーゼを水竜の鼻にあてがった。

「……体液、って、はなみず……?」

「水竜は鼻孔、両前鰭、背部両遊泳翼、尾先の計六箇所に、体表と鱗の目地を覆う膜液の分泌腺を持つ。この膜液で鱗の隙間などを保護し体表を常に清潔に保つ」

 汚れや雑菌の付着と侵入を防ぐ膜液は、強い抗菌作用を示す天然の傷薬となる。

「これをガーゼ等で採取し患部に塗布して消毒と傷口の被覆保護を行い、続けて消炎鎮痛作用の軟膏を塗布、竜鱗由来の絆創膏パッチで患部を保護し乾燥を防ぐ」

 早口の説明に目を回すの腕を背後から掴んだまま、操り人形のように好き勝手に動かして処置を進めていく。救急箱から目的の道具を取り出しの手に乗せる作業は、いつの間に配置についていたのか緋音が行っていた。

「絆創膏が定着し鱗が再生するまで2、3日の経過観察とし、以上で全処置を完了」

 説明し終わる頃には早口よりもなお早い手際で全ての処置を終え、後に残るはこの短い時間に何が起こったのかわからない様子で互いにぱちくり見つめ合うと水竜。

「お疲れさま、トラくん~」

 隣で微笑む緋音が、ほんの一筋流れた汗を拭いてくれた。それをスイッチとして、わかとらの表情と雰囲気が普段の温和な青年のものに戻る。

「……やっぱり、のトラくんはかっこいいなぁ」

 わかとらが意識的に集中力を引き上げ、敬語を切り捨てて迅速な治療を行う様を、緋音は「お医者さんモード」と呼んでいた。おおよそ七年ぶりに引き出した集中状態、しかしそこには自分でも驚くほどに微塵の衰えもなかった。

 その事実だけで、理屈でなく自覚するには十分過ぎた。

 ああ、医者としての自分は、まだ死んではいなかったのだと。

「あ……あの、せんせー……あたしっ……」

 すっかり泣き止んで大人しくなった水竜を抱えたの瞳は、微かに潤んでいた。

「あたし、また深く考えないで突っ走って。何もできないどころか、この子に余計に苦しい思いさせちゃうところだった……っ」

「ぴゅいっ。ぺろっ」

「わぷっ」

 自分を責めようとするを慰めるように、水竜が零れかけた涙を舐め取った。

「……擦り傷には洗浄、消毒、保護。確かにそれは怪我をした竜への応急処置のセオリーと言えるでしょう。セオリーに従うことは迅速な治療のために大切なことですし、さんが行おうとした処置も完全に間違いというわけではありません」

「……でも」

「ええ。かといって、患者に適さない処置で苦痛を長引かせてしまうのは医者の本分ではない。あなたはそれをちゃんとわかっていたのですから、次はもっとうまくやれますよ」

 微笑みかけて、彼女の腕の中の水竜を優しく撫でる。

「怪我や病気を診るのではなく患者を見てください。それが良い竜医への第一歩です」

「……はいっ!」

 背筋を伸ばし、元気よく返事。自責を引きずるのは良くないことだと知っている。

「とはいえ、水生種の身体の繊細さはたとえ教科書に載っていなくても押さえておくべき基本だと思います。どんな薬も、時には毒にもなり得るということも」

「あうっ……は、はいっ」

「他にもまだまだ、教えたいことが沢山ある。……だというのに僕は馬鹿なので、貴重な一日分の時間を無駄にしてしまいました」

「……えっ?」

 その言葉に戸惑うたちをよそに、くるりと背を向け、食卓へと戻っていく。全員が無言で見守る中、少し冷めたコーヒーを啜って。ふう、と一呼吸おいて口を開いた。

「半年」

 それまでよりも低いトーンで告げた短い言葉に、三人の背筋が無意識に伸びる。

「半年後の二月に、年に一度の竜医局による認定試験が行われます。今が七月なので、正確にはあと七ヶ月ほどですが」

 指折り数えてから、視線を三人へと向けて、続く言葉を。

「その試験にあなたたちを、その時こそ。僕を『先生』にするのを諦めていただけますか」

 長い沈黙、そして、三人の頭上に浮かんで見える疑問符。

「……もう。そんな言い方じゃわかりづらいよ、トラくん」

 ふわりと笑った緋音を見て、

「…………っ!」

 一番最初に気づいたのはどうやらかすみだった。

「えっと、うう~? つまり、半年待ってほしいってこと?」

「…………(こしょこしょ)」

 目をぐるぐる回してうーんうーんと唸るに、かすみがそっと耳打ちした。それを聞いたの顔が、みるみるうちに満開の笑顔へと変わっていく。

 この笑顔を、曇らせたくないと思った。心無い言葉を投げつけるどこかの誰かではなく、自分の手で彼女たちを導いてみたいと思った。胸の奥底に眠り続けてきた、とうに絶えたと思っていた竜医としての本能が、彼女たちを最高の竜医に育てたいと叫んでいた。

 理由はもう、十分過ぎるほどに揃っていた。

「じゃ、じゃあ、せんせー、あたしたちの先生になってくれるのっ!?」

「はい……とお答えする前に、ひとつだけ、確認を。……僕は最悪の竜医として、七年前に業界を干された身です。僕を恨む同業者も、決して少なくはないでしょう」

 竜災ドラグハザードの元凶、最悪の竜医の教え子ともなれば、様々な風評に晒されることだろう。ともすれば、教え子でしかなくとも同業者から敵視されるという最悪の事態も起こりうる。

「そんな人間が先生で、本当にいいんですか?」

「あたしたちは、せんせーがいいんですっ!!」

 は何十回とシミュレーションしてきたかのように、淀みなく高らかに言い放った。隣に立つかすみも、力強く同意する。

 彼女たち自身が、そう望むなら。もう拒む理由だってどこにもないのだろう。

「……わかりました」

 深々と、頭を下げる。

「全力で当たらせて頂きますので、どうかよろしくお願いします」

 不思議と、顔を見なくても、歓喜の空気が伝わってくるようだった。

「ちょ、ちょっと、頭上げてよ!? こっちがお願いしてる立場なのに……!」

 慌てふためくの声音にすら、隠しきれない喜びが滲み出ていた。

「っ、やっ……たぁぁぁぁああああーっ!!」

 両手を上げて跳び上がったの、ちらりと見えたお腹から。

 くう、と虫の鳴く声。

「……あ」

「あらあら~。ちゃんったら、食いしん坊さんなんだから~」

「う、うぅ……だって、安心したら、一気におなかすいちゃって……もーっ、なんでこんなタイミングなのーっ!?」

「…………(なでなで)」

「あはっ、いいじゃないらしくて。とにもかくにもまずは腹ごしらえしろって、お腹の虫さんも言ってんのよ」

「待っててね~、いまみんなの分も用意しちゃうから~」

 今までとは違う、騒がしくて賑やかな朝。

 緋音と二人で過ごす穏やかな時間も、わかとらは気に入っていたが。

 これもこれで、悪くはないのかもしれない。

「では……皆さん一緒に朝食を取りつつ、最初の作戦会議といきましょうか」

「はいっ! よろしくお願いしますっ、トラせんせー!」

 よく晴れた夏の日の朝のこと。

 元竜医・ひなわかとらは、三人の竜医のタマゴの『先生』になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る