六つ目と蝶 The dreaming spiders
清水 涼資(しみず りょうすけ)
第1話 運命の出会い 黄色い薔薇
【このらせんを描き無限にループする時間と空間の中では、何であれほんの一瞬のまどろみに見た夢にすぎない】
遠い昔、一人の賢者がそう唱えた。
それが本当だとして、私は疑問を抱かずにはいられない。
夢を見るのは我々人類だけに許されたことなのだろうか?と……。
男は今、眼下に咲く大輪の黄色い
彼女が歌うあの歌が、彼の耳の奥で流れ始めた。そして、それは頭の中で何度もリピートをし続けた。その旋律が、その歌詞が、彼の心を奮い立たせているのだろう。
もし、ここで全てを諦めて引き返せば、今までと変わらぬ日常が彼を迎えてくれるはずだ。だが、あと一歩踏み出した時、彼自身が自らを後戻り出来ない状況へと追いやる瞬間だ。
今、立っている葉の先端こそが全てを分けるボーダーラインなのだ。すでに、それを超えて飛び出す覚悟は彼にはあった。しかし、この重大な一歩の重さを今、改めて彼は考えずにはいられなかった。
前日 午後
自分の巣の補修を終えた
しかし、蜘蛛が考えているのは薔薇の美しさ等ではなく、ここ数日間、その匂いに誘われてやって来る一匹の蝶のこと以外になかった。
青く輝く羽、舞い踊るように飛び、花から花へとわたる可憐さが、蜘蛛に強い劣等感を感じさせるのだった。
蜘蛛の心のざわめきは、その蝶を初めて見たときから、決して止むことは無かった。
(俺も空を飛んだ事があるが、蝶の魅惑的な飛び方とは程遠い、どうしたらあんなふうに出来るのだろう?)
ずっと以前、蜘蛛は、風に乗り彼の兄弟達と空を飛んだ事があった。それは、バルーニングと呼ばれる蜘蛛特有の行動だ。自らが出した糸をパラグライダーのように使い、大空を移動するのだ。単独で飛ぶ者もいれば、彼らのように数匹が糸を出し合い、繋がって飛ぶ事もある。なるべく広範囲に子孫を散らばせて、種族の生き残りの可能性を高める為の行動だと考えられている。その飛行距離は数百キロメートルに達するという記録も残っている。
故郷を共に旅立った兄弟達は、皆、どこへ行ってしまったのか?殆どは死んでしまっているのだろうが、何匹かは、自分のように生き残った者もいるかもしれない。以前は彼らの安否をそんなふうに思う事もあったが、今は、思い出すこともほとんどなくなった。ただ、この森に一緒にやって来た者のなかで、一匹だけは、ついこの間までなら無事であることを確認している。
そんなことも、頭をちらりとよぎっただけだ。そして、また直ぐに、彼の思考は、あの蝶へと戻って行くのだった。
(どうにかして彼女と話しができないものかな、今日は思い切って話し掛けてみようか、いやいや、怖がって、もうここへは来なくなるかも知れない)
気がつけば、そんな考えが振り子のように動き続けて、壊れた巣の修理に身が入らず、半日もかかってしまった。太陽は、もう西にわずかに傾き始めている。
巣の修理を終えた彼の目の前に、あの青い羽の蝶が現れたのだった。彼女は一気に蜘蛛の視界の中へと飛び込んできた。
(これは、幻想じゃない!)
蜘蛛の頭の中で、さっきまで可憐に羽ばたいていた青い羽の蝶は、まさに、今、現実に彼の前を飛んでいる。
美しいコバルト掛かったブルーが、オニキスのように真っ黒な六つの目に映りこむ
。
蝶は開きかけた蕾の匂いに誘われてやってきたのに違いない。それとも今日あたり新しい蕾が開くとあたりをつけていたのかもしれない。
蜘蛛は興奮のあまり、巣の補修で、かなり使ったはずの糸を作り出す体液を噴出しそうになった。いや、本当は、ほんの少し漏らしていたことに、彼が気付かなかっただけだ。
(俺が彼女を思い浮かべたら、彼女は実際に俺の前に現れた。そうだ、今日こそ話しかけられるかもしれないぞ、いや今日を逃しては駄目だ)
蜘蛛は嬉しくてたまらないという気持ちを隠し切れず、もう少し彼女をよく見ようと彼の巣の中央から移動した。
新しく咲きかけた薔薇は、蝶が蜜を吸うには開き足りない。諦めた彼女はそれよりも下方に咲く十分に開き切ったものへと目的をかえたようだ。
その花は蜘蛛の巣よりもやはり上方にはあるが、より彼の巣に近い場所に咲いている。そこへ降りた蝶は必然、蜘蛛との距離を縮める事になった。
(いくぞ!いくぞ!でも、なんて声をかければいいのかな)
蜘蛛はこの期に及んでも
そんな彼の目は、蝶が留まっている花の裏側に一匹の
蜘蛛は、その蟷螂を見たのは初めてではなかった。時折見かけることがあった。その蟷螂は、大きな身体を持ってはいるが、ジッとしていれば、蜘蛛の目でも見つけるのは難しい。その存在は知っていても、言葉を交わしたりするほど互いに興味持つような事はあり得ない。蟷螂に蜘蛛の巣に近づくような間抜けはいないし、その逆も無い。
蟷螂は静かに花びらの裏側から移動してきていた。蝶が十分な捕獲の距離に入るのを待っているように見える。そして、一旦射程の中に入ってしまうと、ムチのようにしなる蟷螂の大鎌の攻撃を逃れる術はないと言っていいだろう。
今、蝶は黄色い薔薇の上で、夢中で蜜を吸いながら、より安定性のある足場をさぐり、花弁をまわるように移動している。
あとほんの少しでも右側へ身体を移動させれば、それで彼女の命は終わる。
(終わる終わる終わる)
この蜘蛛に蝶のために出来ることは、もう既に何もなくなってしまっていた。他の者の狩りを邪魔することは、≪掟≫に反する事だ。
≪掟≫
と言って誰かが決めたというわけではなく、この蜘蛛も誰かから教わったわけでもなのだが、弱肉強食の世界に生きるものにとって、≪掟≫は太古の昔より受け継がれた
このルールが捕食者たちの余計な争いを避け、ほんの少しではあるが彼らの生存率を上げていることは否定出来ない。彼らが殺し合わなくても食料となる者たちはいくらでもいるのだから…。
ついに蝶は、浮かせた脚を隣の花弁の上に降ろそうとした。
その時、何処からともなく大きな声が聞えてきた。
「危ない!」
その声に、蝶はハッと顔を上げ、反射的に後ろへ跳び退りそのまま飛び立った。うなりをあげた大鎌は空を切り、
そうだ!弱肉強食の《掟》その絶対の
蜘蛛が余計な声を掛けたことで蟷螂の狩りは失敗に終わった。
だがそれは、終わりではなかった。
全ての始まりだったのだ。
蟷螂から逃れるため闇雲に飛び立った蝶は、あろうことか蜘蛛の巣の修繕を終えたばかりの部分にぶつかり身動きが取れなくなってしまったのだ。羽をばたつかせ逃れようとした蝶は仰向けになり動きをとめた。
(しまったー)
蜘蛛もまた自分の一言が招いた思いがけない結果に動揺した。動くことも出来ない。
そんな彼の斜め上前方から、冷たく刺すような殺気が降りてくる。
彼の全身の毛が危険を察知して逆立つ。ピリピリとした感覚!
顔を上げた蜘蛛は、そこに異様な物体を発見した。鈍く光る紅い玉が二つ浮かんでいるのだ。
よく見るとそれは、蟷螂の両眼なのである。黄色い蟷螂の身体が薔薇の色に溶け込んで、紅い二つの物体が、独立した生き物のように花びらの上をわずかに揺れながら漂っている。左に右に。
普段は周囲から恐れられ、忌み嫌われる蜘蛛ではあるが、その目のおぞましさ、いやらしさは、そんな彼をもゾッとさせた。
(筋肉が緊張してこわばり、肩に力が入っている。駄目だ、腹に力をためろ)
この蜘蛛も兄弟たちの屍を乗り越え、幾多の命あるものをその手にかけてきた筋金入りの強者なのだ。特に彼の糸が創り出す蜘蛛の巣は、そこへ囚われた者の末路を何度も目撃され恐れられている。そして、毒こそもたないが、彼らの種族は、蜘蛛の中でも飛びぬけて高い戦闘力を誇る。
そんな彼は、戦士としての自分を取り戻すのに、さほどの時間を要しなかった。
彼の暗い無表情な六つの目の奥に、チラチラとくすぶる生存本能の火。それが次第次第に大きくなっていき燃え盛る炎となって彼の目に宿ってゆく。それとは裏腹に、冷静な戦闘用の頭脳コンピューターは、蟷螂との戦闘に備えて、先程見た蝶への攻撃の動きをビデオ映像のような正確さで脳内に自動再生させていた。
(俺は勝つ、この巣の中の俺に勝てる者など何処にもいない)
そう、彼は確かに最強に違いない。ただし、それは彼が、必ず蜘蛛の巣の中で闘うという条件下においてだが……。
つづく
次回予告
威嚇のかまえから繰り出された、蟷螂の目にも止まらね早業に、蜘蛛は驚愕すると共に賞賛の眼差しを向ける。そして蟷螂に与えられた恐ろしい予言!蝶と親しくなりたいという蜘蛛の望みは叶うのか?
次回 六つ目と蝶 第2話 悪魔の予言 悪魔の予言にご期待ください。
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