4. 焦土

 ――その日、ひとつの街が燃えた。


 寝静まった宵の刻午前二時、その静寂はとある獣の咆哮で破られる。地平まで轟く叫び。心臓を搔きむしるような危険信号。背筋は凍り、手足は震え――人々は本能的にその存在への恐怖を思い出した。

 その獣は、砦の頂に君臨していた。

 星一つない空よりも深い黒をした巨躯だった。街を包み込んでしまえるのではと錯覚するほど大きな翼は幻想小説で見た悪魔のそれに似ている。あるいは自身が悪魔だったのか。絶望の夜に映える白い爪と牙は、深く砦に傷を残す。


 砦に傷がつくと攻撃とみなし、自動的に障壁が、つまり防衛魔法が展開される。それが問題なく機能した。しかし人々は安堵などできない。逆に絶望したのではなかろうか。

 障壁は街中を包み込み、外的要因を寄せ付けない。受け入れない。

 


 その獣は叫ぶ。呪いを。己を。栄達を。非難を。

 咆哮とともに獣の口からは灼熱が吐き出された。煉獄の再現。火炎は堅牢と謳われた砦を容易く燃やしていく。いかな魔法を退ける要塞とはいえ、獣の力は桁違いのものだったのだ。

 人々は逃げ惑う。泣き叫ぶ。救いはどこにと彷徨い続ける。それでも獣は止まらない。砦の上から火を吐いて、この世に地獄を形成する。

 あとは時間の問題だった。砦から出てきた憲兵たちが頭上にいる厄災そのものに果敢に立ち向かう。ありとあらゆる防衛機構、攻撃装置を使ってその脅威を打ち払おうとする。その健気な努力たるや、責任感溢れる攻撃たるや。叙事詩ならば英雄として語られるであろう使命感ある兵士たちの攻撃を、しかし、その獣はものともしない。

 獣はその爪先を、ただほんの少しそちらに向けるだけでよかった。たちまち砦は爪によって抉られ、崩壊し、人々は足場を失って落ちていく。


 慈悲はなかった。理由もまたなかった。何故厄災はこの地に降り立ったのか。何故この街が選ばれてしまったのか。人間は論理的な思考を有する、高度な知能を持つ生き物ではあるが、それが逆に仇となることもある。

 その獣がこの街を標的としたことにいかなる論理的な理由もなかったのだから。しいて言えば、そう――「近かったから」だろう。もしその獣が人語を解し、人々と対話する機会を持ち、回答したならば。人々はどのような顔をするだろう。


 要塞都市と言われた西方の拠点ジャグラは、こうして邪竜ヘルヴェルトの手に落ちたのである。


 ***


「手に落ちた、とは言うがな。こんな焦土を手にして何ができると言うのか。吟遊詩人は阿呆か、我を知能指数の低い生物とでも思っておるのか」


 とある街。泉の前で竪琴を奏でる詩人の歌を聴きながら、師匠は不平不満を漏らしていた。軒先のテラス席に座ってジェラートを頬張ると、いかにも観光気分という雰囲気が出る。普段は身に付けない大きめのサングラスをしているのも、シリルを不思議と大きな気分にさせた。まるで別人になったみたいだ。


「しょうがないじゃないですか、お師匠さま何にも言わないんですし。弁明の機会がなければ勘違いされても仕方ありませんよ」

「貴様は我に会見でもせよと申すか。『この度は街一つ消し炭にしてお騒がせしております』とでも言えと?」

「実際やったらすごくシュールですよね」

「その時は貴様を通訳にでも据えてやる。一人だけ安全圏で傍観できると思うなよ小僧」


 イチゴ味のジェラートはこの店のイチオシだと言うので買ってみた。口にすれば爽やかな酸味がいっぱいに広がる。甘ったるさがなくてシリルは好きだった。

 パラソルの日陰から遠巻きに吟遊詩人の紡ぐ歌を堪能する。陽気な日差しの下で聞くには物騒な仕上がりだった。


「怖気ついたか?」


 サングラス越しに視線を横に移せば、挑発的な口調で師匠が煽ってくる。


「我の手を取ったことを後悔するか?」

「……いえ」


 シリルはゆっくりと首を横に振った。


「僕はね、世界なんてどうでもいいんです」


 ジェラートを口に運ぶ。一口が大きすぎたか、歯にしみてぎゅっときつく目を閉じた。


「……たった一人の人間が、世界をどうこうしようなんて考えられるわけがないんです。そういうことを考えるのは王様や国の仕事でしょう。僕はただの村民です。寝転がって、空と羊を見ているだけでいいんです」


 今は村から随分と離れてしまって、羊のいるような街にはなかなか足を運べていない。少しだけ寂しいとすればそれくらいのものだろう。


「僕自身と、ほんのちょっと手が届く周囲のことで手一杯ですよ。そこさえ幸せならばそれでいい。たとえ世界が滅んだって、極論、僕の周りが無事ならなんだっていいんです」


 幻滅しましたか、と問いかけるが師匠は何も答えない。


「お師匠さまの手を取ったのも、手が届いたからです。それだけです。だから後悔なんてするはずがありません」

「……世界を脅かす邪竜の下僕しもべがこんな人間だと、世間は夢にも思わないだろうな」


 純朴で、純粋で。どこにでもいるような平凡な人間。腕っぷしが立つわけでもなく、過酷な家庭環境に生まれ育ったわけでもなく、世界を憎んですらいない。自分を愛し、周囲を愛し、世界の息吹を感じながら流れる空気をただ愛おしく思えるような、そんな平和の象徴のような青年を。

 世界はきっと、悪だと断じるだろう。


 後悔するか? そう問いかけたのはどちらだったか。

 愚問だな。そう、邪竜は独り言ちる。

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