4. アシヤ・スバルの決断

 その日はぐっすり眠れた。眠ってしまった。

 突然の死、からの異世界転移、目の前に現れた魔物に助けてくれた冒険者と、情報量があまりにも多い一日だった。これからのことをきちんと不安がり計画を立てなくてはとわかりつつも睡魔に抗えなかったのだ。着替えてくださいねとサシャが用意してくれたパジャマにも袖を通すのを忘れていた。

 シャワーを浴びることも、夜食を食べることも忘れていたから、朝目覚めたスバルは慌ててシャワー室に飛び込んだ。念入りに身体を洗って目を覚まし、身支度を性急に整える。ベッド脇に置かれていただろう夜食のプレートはなくなっていた。それもまた罪悪感を助長する。サシャがわざわざ用意してくれたものなのに。朝会ったらまず謝ろうと心に決めていた。


 客室を出たはいいものの、どこに向かえばいいか正直わからなかった。二階は同じ扉がずらりと並んでいる。一部屋ずつ探りをいれるのも泥棒のようで失礼ではないか。マスターやサシャがいそうな場所と考えたが、スバルの知っている場所なんて一ヶ所しかなかった。


「あ、スバルさん。おはようございます」


 時刻は縹の刻午前八時。この世界では時刻を色に当てはめて呼んでいるというのも行き交う人々の会話でなんとなく察した。

 一階の店舗ではサシャが洗い場で皿洗いに精を出していた。バーカウンターの奥は厨房になっていて、マスターが何か作っているらしい。ベーコンかハムが焼ける香ばしい匂いがスバルの鼻をくすぐった。サシャはまだ制服に着替えていないようで、緩いシルエットのロングワンピースを纏っていた。被るだけの一枚なのでいかにも「部屋着」という簡素さが、逆にスバルに息苦しさを覚えさせる。


「……っ」

「スバルさん? 何か」

「いえ、その……昨日はすみません。僕、あのまま寝ちゃって」


 夜食用意してくれましたよね、と問えば、合点がいったようにサシャが微笑んだ。


「気にしないでください、まかないですから」

「作ったのは俺だろうが。何自分の手柄みたいに言ってんだ」

「ひゃい!?」


 奥の厨房からぬっと無精髭の男性が顔を出す。背後からの声に驚いたらしく、サシャがびくりと肩を震わせた。


「あ……マスター。朝ごはんはできましたか?」

「ん。アンタも適当に掛けな。夜から食ってねぇなら尚更だ」

「……すみません」


 昨晩は客として使っていたテーブルに座ると、なんだか変な心地がした。橙の刻夕方五時の街並みの喧騒とは異なり、朝は通りを走る人々の足音が聴こえてくる。客を呼び止める売り子もまだベッドの中だろうか。朝というと慌ただしく家を出て自転車をこいでいたから、時間に追われないというのは新鮮な感覚だ。

 テーブルに並んだのはスクランブルエッグとハム、バターにバゲットだと思う。見た目はそれらによく似ている。異世界であるから自分のいた世界とどれくらい共通しているものがあるのか、スバルには把握しきれていなかった。


「美味しい……」


 口のなかに広がるふわふわのスクランブルエッグを飲み込んで、スバルはぽつりと呟いた。無意識だった。「それは良かったです」とサシャが嬉しそうに笑う。マスターは不服そうにサシャを見つめている。

 ずっとこんな平和な朝が続けばいいのにとスバルは思った。朝起きたら全部夢で元いた世界に帰れれば理想的だけど、もし自分が死んでいて帰ることも叶わないと言うのなら。


「メシ食ったら出掛けるぞ」

「え」

「お前を冒険者として登録しないとならんからな」


 しかし、そんな幻想はマスターの一言で泡となって弾けた。驚きを隠せないまま彼を見やる。


「王国ではな、冒険者は管理局で身元を登録しておかなきゃならねぇんだ。万一ってこともあるしな」

「マスター、それは」

「適正とかオススメの役割ジョブとかは向こうの奴が案内してくれるだろう。登録ができたらお前も晴れて冒険者の仲間入りだ」


 嚥下したハムはやたらとしょっぱく感じた。


「冒険者といってもやり方は十人十色だ。日々の小銭を稼ぐも良し、大型魔物を討伐するも良し、塔の探索を進めるも」

「あの!」


 スバルはテーブル席から立ち上がった。伝えなくてはならないことが、頼みたいことがあったからだ。


 おそらく、エリンダス王国は広大だ。電気やガスは通っていなくても、綺麗に整備された街並みや露店の賑わいを見ればわかる。きっとこの国は世界でも有数の先進国なのだ。精霊という言葉も耳にしたし、これは推測でしかないけれど魔法とおぼしきものも存在しているのだと思う。

 剣と魔法の世界、そして存在するギルドという組織。邪竜ヘルヴェルトとやらが目覚めて世界は未曾有の危機だという。ギルドの冒険者たちは未来の英雄を夢見て、謎多き塔に挑んでいるのだろうか。転生者の多くは冒険者の道を選ぶと聞いた。スバルもそうすべきなのだろう。


 けれど。スバルはただの十七歳の男子高校生だった。サッカーが好きで勉強は普通の、とりわけ秀でた何かをもってここにいるわけでもない少年だ。女神の声も聴こえないしステータスの割り振りだってした記憶がない。勇者となるべき呪いはここにはない。

 それに、何より……異邦人であるスバルを受け入れてくれたのは、このマスターとサシャだ。


 スバルは深々と頭を下げた。そして恐らく第二の人生の最初にして最大の決断をした。


「僕を……ここで働かせてください」

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