第59話 私だけは笑顔で拍手をするから

「伊藤君なら、すぐエースナンバーを奪えるさ。初球からジャストミートできる自信が、俺にはないからね」


 淳吾の発言にぎょっとする相沢武を見て、こちらもいつの間にか近くにいたマネージャーの栗本加奈子が大爆笑する。


「だよねー! アタシもそう思う。頑張ってね、伊藤っち」


 淳吾と栗本加奈子の声援に戸惑う伊藤和明の隣で、相沢武が「負けないからな」と気合を入れる。半分は冗談なのだろうが、あまり目は笑っていなかった。とはいえ、競争相手がいないよりは練習の励みになるかもしれない。


「武も言ってたが、これからは投手中心のメニューを伊藤にはこなしてもらう。あとは……仮谷の守備位置なんだが……」


 少しだけ困ったような様子で、土原玲二がこちらを見る。淳吾の情報などほとんど持ってないから、どのポジションが得意なのかもまったくわからないのだ。だからといって、直接尋ねられても困る。当初よりだいぶマシになったとはいえ、まだまだ早朝から練習しなければいけない程度の守備力しかないのだ。


「仮谷っちって、どのポジションを守ってたの?」栗本加奈子が質問してくる。


「どこって言われても、俺は中学時代は陸上部だよ」


「あ、そっか。でも、バッティングがあれだけ凄いんだから、守備もきっとプロレベルなんだよね」


 いつも簡単に人のハードルを上げてくれるあたり、栗本加奈子に本当に悪気がないのか自信がなくなってくる。ひょっとしたら、これまでのも全部、わざと言ってたのではないだろうか。


「打撃もそうだが、守備もそんなに簡単じゃない。もちろん、素質や才能によってある程度は左右されるかもしれないが、最終的には積み重ねてきた練習量がものをいうんだ」


 土原玲二の説明に、栗本加奈子が首を傾げながら「じゃあ……」と口を開く。


「仮谷っちの守備って、駄目駄目なの? スタメンにして大丈夫?」


「それをこれから見るんだ。前の試合での打力を考えると、多少のミスは目を瞑らなきゃいけないだろうけどな」


 栗本加奈子への応対を終えたあとで、土原玲二が改めて淳吾を見てくる。


「栗本にも一度聞かれてるが、改めて質問させてもらう。仮谷はどこか守った経験があるのか?」


「……期待されたら困るけど、外野かな」


「じゃあ、レフトあたりでノックをしてみるか。伊藤、グラブを貸してやってくれ」


 練習に参加すると思ってなかっただけに、淳吾は自分の用具を何ひとつ持ってきていなかった。そこで、もともと外野を守っていた伊藤和明がグラブを貸してくれることになった。借り物のグラブを左手にはめて、小走りで左翼のポジションにつく。それを見届けた土原玲二が早速ノックを開始する。


 守備練習なら何度となく源さんや小笠原大吾らと経験している。場所が違うので、打球の見え方も違う。そうした面に多少の戸惑いはあるものの、なんとか飛んでくる硬球の場所に目星をつけて移動する。目を切らないようにしながら、一直線に打球が落ちてくるであろう地点まで走る。


 決して華麗とは呼べないが、なんとか土原玲二とのノックをこなしていく。打球をキャッチするたびに、心の中で小笠原大吾や源さんに感謝する。土原玲二も言っていたが、やはり守備力は練習量に比例して上手くなる。合計で10球ほどのノックをミスせずに終了すると、もう大丈夫だという声が飛んできた。


 小走りでホームベース付近まで戻ると、先ほど淳吾にからかわれた相沢武がニヤけ顔で待っていた。


「バッティングと違って、守備は頼りないな。レギュラーをすぐ奪われてしまうぞ」


「大歓迎だよ。俺は元々、試合に出場しなくてもいいという条件で入部したんだからね。是非、明日の試合は観客席から応援させてくれ」


「ま、待て! わ、わかった、悪かった! お前が試合に出てくれないと、俺が他の奴らから怒られる!」


 大慌てで謝る相沢武の姿に、場にいる全員が笑う。明日また試合があるので、今日は練習を早めに切り上げることになり、この後すぐに全員が帰宅を許可された。


   *


 高校の敷地から出るまでに、一体何人の人に「頑張れよ」と声をかけられただろう。こんなのは中学時代には、一度もなかった。一緒に帰宅中の土原玲菜は、隣で「それだけ期待されてるのよ」と言ってくれた。


「期待……か」


 淳吾の呟きが聞こえたらしく、土原玲菜が「どうかしたの?」と聞いてくる。


「俺には……応える自信がない。だって、本当の俺は……いや、なんでもない……」


 自分の弱さを白状したくても、恰好悪いと思われたくない虚栄心が言葉を詰まらせる。心配そうに淳吾の横顔を見つめながらも、あえて土原玲菜は何も言おうとしなかった。そのまま2人とも無言で、しばらく歩き続けた。もうすぐで淳吾の家へ着こうという時、土原玲菜が不意に口を開く。


「淳吾はもう、十分に私の期待に応えてくれた。だから、明日は余計なことを考えずに、自分のためだけにプレーをしてほしい。どんな結果になっても、私だけは笑顔で拍手をするから」


 それだけ言うと、土原玲菜はシャンプーの香りだけを残して、淳吾の前から立ち去った。ひとりぼっちで道路に立ち続けていても仕方ないので、すぐに自宅へ入る。ひとり暮らしの部屋は夏なのに妙に涼しく感じられて、どこからともなく寂しさを運んでくる。教科書類が入っているバッグを適当に放り投げてから、仰向けに寝転がって天井を見上げる。


 昨日はたまたまホームランを打てただけで、あれが淳吾の実力かと問われればすぐに否定する。そんな自分が少しでもチームの役に立つにはどうすればいいのか。悩み続けた結果、最後まで答えは出なかった。余計に気分が沈みこみ「はあ」とため息をつきながら、夕食の準備をしようとする。


 すると直後に携帯電話がメールを着信した。誰からだろうと思って見てみると、送信者名は土原玲菜になっていた。急速にドキドキし始めた心臓の音を聞きながら、淳吾は携帯電話を操作してメールを開く。彼女から送られてきたのは「頑張って」の一文だけだった。ずいぶんと短くて簡潔な声援だったが、不思議とその文字を見てるだけで淳吾はリラックスできた。


「どうせ自分が今持ってる以上の力は出せないんだ。どうなろうとも、全力でやるしかないか」


 開き直りのような心境になり、急速に食欲が出てくる。結果が駄目だったとしても、土原玲菜は笑顔で淳吾に拍手を送ってくれると言っていた。それで十分だと思った。あとはよく食べてよく眠り、明日の試合に備えるだけだった。


 そして翌日。送迎バスなどは用意されてないので、今回も大会が行われるグラウンドへ集合する。誰も遅刻せずに全員が揃い、ロッカーへ向かおうとした時に、淳吾ひとりだけが土原玲菜に呼び止められる。


「これ……あの、お守り……」


「え? あ、ああ……ありがとう」


 ユニフォーム姿で、恋人から試合前にお守りを受け取る。こんな青春もありかもしれない。そんなことを考えてるだけで、一時的に試合前の緊張を忘れられる。


「そのお守りにはきっと効力があるぞ。なんせ、かなり遠くの神社まで行ってきたみたいだからな」


 2人だけの世界へ突入しようとしていたところに、土原玲菜の弟でもある土原玲二がやってきた。


「そ、それは別にいいでしょう。玲二のもあるから、ついでに持っていきなさい」


「俺のは仮谷のついでかよ」土原玲二が冗談半分にぼやく。


「貰えないよりはいいだろ」


 先にロッカーへ行ってるかと思いきや、ツッコみを入れた相沢武だけじゃなく、チーム全員がニヤニヤしながら淳吾を待っていた。どことなく羨ましそうにしてる部員がいるのを見て、ここぞとばかりに栗本加奈子が自分の存在をアピールし始める。


   *


「考えることは皆、一緒よね。アタシも近くの神社に行って、全員分のお守りを貰ってきたんだから」


 得意げに胸を張り、持っていたバッグの中からお守りを大量に出現させる。栗本加奈子の容姿は可愛い部類に入るし、性格も明るくて親しみやすい。そんな女の子からお守りをプレゼントされるとあって、野球部の男性部員たちは一斉に目を輝かせる。


「本当はあげたくないけど、チームのために相沢にも一個あげるわよ」


「お前はいつでもひと言余計だな。チームのことを考えるのは、マネージャーとして当然……って、ちょっと待て」


 お守りを受け取ったばかりの相沢武の表情が、急速に厳しさを増していく。その様子を見ていた他の部員たちが、何事だとザワつく。


「お前……これは一体、何だ」


「何だって、お守りに決まってるじゃん」栗本加奈子が答えた。


「それはわかってる。だがな……どうして安産祈願なんて書かれてるんだ?」


「え?」


 相沢武の指摘で、栗本加奈子は目を丸くし、周囲の部員たちは騒然とする。


「お守りって……どこの神社で貰っても一緒じゃないの?」


「そんなわけあるかぁぁぁ!」


 怒声が球場の外で木霊す。発したのはもちろん、安産祈願のお守りを持っている相沢武だ。


「これから試合に出る俺らが、安産祈願のお守りなんて貰ってどうすんだよ! ベタな展開にもほどがあるだろ。ドジは可愛い子がやるから、許されるんだよ!」


「な、何よ、その言い方は。き、きちんと考えた上で買ってきたのよ! 勝利という子供を安産できるようにね!」


 栗本加奈子の切り返しに、土原玲二も「おおー」と感嘆の声を上げる。言われてみれば納得できる点もあるが、ついさっきの反応から見て、彼女がお守りの選択を間違えたのは疑いようのない事実だった。


「と、とにかく、これは返すぞ。万が一、グラウンドで落としたのを見られたら、恥ずかしくて試合どころじゃなくなっちまう!」


 顔を赤くしながら相沢武は、栗本加奈子にお守りを突っ返す。他の部員たちはきちんと受け取っていたが、誰もが苦笑いをしていた。


「お守りの受け渡しも済んだなら、早く行くぞ。試合前の練習時間に遅れたりしたら、シャレにならないからな」


 主将の土原玲二の言葉で、全員の顔に気合が入る。淳吾も他の部員たちと一緒にロッカーへ向かおうとしたところ、こっそりと土原玲菜に手を掴まれた。


「昨日、メールもしたけれど……頑張ってね」


「……お守りも貰えたし、きっと活躍できるよ」


 愛する女性の手の温もりが、不思議と淳吾に自信を与えてくれる。やるべきことはやったのだから、あとは全力を出すだけだ。改めてそういう気持ちになり、いつしか足が震えるくらいの緊張は覚えなくなっていた。もしかしたら、これもお守りの効果かもしれない。心の中で改めて土原玲菜に感謝する。


「じゃあ……行くよ」


「ええ。私は観客席で応援してる」


 名残惜しそうに両手を話した土原玲菜と数秒間だけ見つめあったあと、淳吾は彼女に背を向ける。この間の試合ほど満足できる結果は出せなくても、精一杯の姿を見せようと決意する。


 ロッカーでミーティングをしたあとの試合前練習でノックを受けていると、対戦高校の関係者らしき人の声が聞こえてきた。


「レフトにいる奴、代打でサヨナラホームランを打った選手だぜ。今日はスタメンで出るのか」


 スコアボードを見れば、相沢武と土原玲二に挟まれたところに淳吾の名前がある。4番で左翼。それが今日与えられた役割だ。

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