第37話 じゃあ、10打席で

 すでにスイング動作に入ってしまったあとで、ようやく安田学の腕が見えた。急いでタイミングを合わせようとするも、さらに予想外の事態がバッターボックス内の淳吾を襲った。


 手が見えたかと思ったら、今度はあっという間に安田学が放ったボールが淳吾の近くまで来ていたのだ。マズいと思って慌ててバットを振ろうとする。


 背後から届いてくるキャッチャーミットにボールが収まる音を聞きながら、淳吾は両手で持っているバットを振っていた。完璧なまでの振り遅れである。


 これでワンストライクとなり、キャッチャーから返してもらったボールをグローブで掴んだ安田学が得意げに笑う。


「今のが、いわゆる着払いってやつだな。ミットに届いてからバットを振っても、空気くらいしか打てないぜ」


 確かにそのとおりで、淳吾は安田学の投球フォームに完全にタイミングを崩された。投げられたボールの速さ以前の問題で、そこをどうにかしないと5打席連続三振で終わる可能性が高い。


 実際に打席内で対峙してみるまではわからなかったが、マウンド上の安田学の投球フォームはかなり特殊な部類に入るのだろう。外見的には他の投手と、あまり差がないように見えていたにもかかわらずだ。


「どう、茜ちゃん。俺の実力は。毎朝、見たくなってきたんじゃない?」


 たった1球で調子に乗るなと一喝したいところだが、実際に打てる気配がないのだから、勝利を確信するような態度をとられても仕方がなかった。現状を打破するには、あくまでも淳吾が安田学のボールを打つしかない。


 幸いにしてという表現が妥当かどうかはわからないが、とりあえず小笠原茜は安田学の言葉を適当に受け流していた。いちいちまともに相手をするのも面倒になってきたのだろう。


 その様子を見て、何故か小笠原茜の父親である小笠原大吾がハラハラしている。コントみたいで面白かったが、陽気に笑ってる余裕は淳吾になかった。


 従来の投手のフォームよりも、手が遅れて出てくると理解した上で、淳吾はタイミングをとらなければならない。すべてが初めての経験になるが、これも実力を高めるための試練だと理解して打席内で気合を入れ直す。


 淳吾が5打席連続の三振に終わったところで、損をする人間は誰もいない。せいぜいが安田学に、ほら見たことかと嫌味を言われる程度だ。それも打席で真剣勝負を経験できたのを考えれば安いものだった。


「お前も、もっと頑張ってくれよ。じゃないと、茜ちゃんに格好いい姿を見せられないからな」


 早くも勝者の顔になっている安田学が、皮肉交じりに淳吾を激励してくる。結果を出していないからには、何を言われても仕方ない立場なので「わかりました」とだけ返しておく。


 今度もまた得意げにニヤリとした安田学が、マウンド上で振りかぶる。本人はニヒルな感じが出て格好いいと思ってるのかもしれないが、傍から見れば悪人丸出しの笑みにしか見えない。


 あれを素敵と感じる女性がいるのだろうかと心配になったところで、そんな余裕を出してる場合じゃないと淳吾は自分を戒める。今度は1球目よりも、少しだけタイミングを遅くしてみるつもりだった。


「――っ!」


 すると今度は、先ほどよりも早いタイミングで腕が出てきた。おかげで準備ができてなかった淳吾は、大慌てでスイングする結果になった。そんな有様ではまともにボールを捉えられるはずもなく、またもや無様な空振りを披露してしまう。


 あっさりとツーストライクに追い込まれ、野球経験のある安田学との実力差をまざまざと見せつけられる。本当に自分に打てるのだろうかと、不安にもなる。しかし、考えてみれば、これが当たり前なのだ。


 私立群雲学園野球部の一員として試合に参加すれば、淳吾よりもずっと野球経験が豊富な相手とばかり対戦することになる。今現在、対峙している安田学より実力が上の投手だっているかもしれない。


 改めて、前途多難な道を選んだものだと痛感し、内心でため息をつく。どうしても駄目だったら最後には逃げればいい。だから、それまでは精一杯足掻いてやろうと打席で安田学が放つ3球目を待った。


   *


 練習試合の際に守備位置から見ていた限りでは、さほど球速があるようには思えなかった。しかし、いざ打席に立ってみると印象はガラリと変わった。


 どれくらいのスピードが出ているか正確な数字はわからないものの、体感ではかなり速い。バッティングセンターでは最速の140キロもなんとか打てていたのに、安田学のストレートにはかすりもしない。


 どうしてかすぐにわかるのであれば、淳吾には野球の才能があるといえるのかもしれないが、生憎と凡人だと理解しているのでそうした洞察力はない。


 ただし、思い当たるふしはひとつだけある。それは安田学の投球フォームだ。1球ごとにタイミングを変えられているせいで、淳吾は自分のスイングというものがまるでできていない。


 一応は2球とも空振りしているが、どちらもタイミングが合わずに焦ってバットを振っただけの結果にすぎない。ここまでは、満足感なんて微塵も得られないままきている。


 マウンドにいる投手が、投球のリズムを変えるだけで、打者の淳吾にここまで影響が出るなんて想像もしていなかった。野球の奥深さを知ると同時に、難しさも改めて痛感させられる。


 だからといって、簡単に白旗を上げるつもりはない。まずはなんとか安田学とのタイミングを合わせて、自分でも納得ができるスイングをしよう。そう決めた淳吾は、安田学の3球目を待つ。


 今度は変化球なのか、それとも真っ直ぐなのか。打席内で前にしている左足でタイミングを取りながら、安田学の手がボールを放つのを待つ。すでに二度ほど投球フォームを見ているので、当初みたいな戸惑いはなかった。


 早いタイミングがあるのを見越して、淳吾もそれに合わせて打撃動作に入る。その一方で、遅くされた場合も想定して、なんとか反応できるように心構えもしておく。完璧な対処とは言い難いが、事前情報すらろくになかった2球目までよりは合格点を出せる。


 今度は早くも遅くもなく、その中間ぐらいで安田学の腕がスっと出てきた。これが1球目なら驚いていただろうが、事前にこういうケースもあるだろうと考えていたので、さほどうろたえずに済んだ。


 安田学の手の動きに合わせて左足のスパイクで打席内の土を掴み、下半身から上半身へバットを振るための力を伝達する。両手でしっかりと握り締めた金属バットを、向かってくるボールめがけて叩きつける。


 結果は、またしても見事な空振り。これで淳吾の1打席目は、情けなくも3球三振で終了する。残りはまだ4打席残っているが、この分ではヒットどころか前に飛ばすのも難しそうだった。


「高めのボール球を振ってくれて、ありがとうよ。今のを釣り球って言うんだぜ」


 勝ち誇り中の安田学がわざわざ説明してくれたとおり、淳吾が三振をさせられた球は、ストライクコースから結構上に離れたボール球だった。


 バットを振り終わったあとに、背後のキャッチャーミットを確認してボールだったと気づけるが、振るまでは完全にストライクだと判断していた。


 目線に近い位置へボールが来るので錯覚を起こし、自然に身体が引っ張られてしまうのだろう。誰が考えたかは知らないが、釣り球というのは絶妙のネーミングに思えた。


 しかも安田学が真っ直ぐと変化球のどちらを投げるのか最後まで迷っていたせいで、ストレートに対する反応がかなり遅れてしまった。文字どおりの完敗で、勝者の安田学に何を言われても、淳吾に反論する資格はなかった。


   *


 よくプロ野球の解説では、来た球を打つなんて方針も話されたりするが、初心者の淳吾には不可能も同然の難題だった。そんなのが最初から可能なら、それこそプロ野球選手への道も開かれてておかしくない。


 直球と変化球の両方を、一度に追いかけるのは無理。1打席目の勝負で、それを理解できただけでも淳吾にとっては収穫になる。やはりどちらを待つか決めて、対応をするしかない。


「ハンデのつもりで5打席も与えたんだけど、それじゃ足りなかったかな。何なら10打席にしてみるか?」


「はい。じゃあ、10打席で」


 ふざけるなと淳吾が怒るのを期待してたのかもしれないが、とにかくこちらは経験を積みたい。勝負の打席を増やしてもらえるのなら、いくらでも頭を下げられる。


 まったく予想してなかった返答だったらしく、しばらく安田学は唖然としていた。ベンチに座ってる小笠原茜は面白そうにしているが、余計な口を挟むつもりはないみたいだった。


 小笠原茜が前面に出てくると、また安田学によって景品扱いをされかねない。十分に理解しているからこそ、おとなしく勝負を見物してるのだろう。


「お、お前……プライドがないのか。そんな弱い男に、ますます茜ちゃんは渡せないな!」


「黙れっ! そもそも茜はお前なんかの……ん、ううんっ!」


 安田学を一喝しようとした小笠原大吾が、途中で何故か咳払いをしながら淳吾を見てきた。


「……つかぬことを聞くが、淳吾君。娘との関係はどうなのかね」


「くだらない質問をしてないで、さっさと2打席目を始めたら? 時間は無限にあるわけじゃないでしょ!」


「そ、そんなに怒らなくてもいいだろう。わ、わかった。それなら、2打席目をやるぞ」


 娘に怒られた小笠原大吾が、頭をポリポリ掻きながら2打席目のプレイボールを宣言する。


 マウンド上にいる安田学はまだ何か言いたそうだったが、まずは勝負に集中しようと決めたみたいだった。しっかりと口を閉じ、鋭い目つきで打席内の淳吾を睨んでくる。


 結局10打席勝負はどうなったのか聞きたかったが、どうやらうやむやになって消えた感じが強い。恐らくは5打席のままだろう。元々そういう約束だったので、嘘つきと相手を罵るつもりはなかった。


 淳吾も2打席目に集中する必要があるし、まずは直球と変化球のどちらを待つか決めなければならない。本能的にきそうな気がするのは、変化球だった。


 安田学の変化球はまともに見たことがないので、自分の目でしっかり確認しておきたいという思いが強い。しかし、決め球に使ったら間違いなく三振する変化球を、わざわざ初球で見せるだろうか。


 迷いがさらなる迷いを生んで、結論を出せないままに安田学の1球目を迎えるはめになる。2打席目最初のボールだというのに、まったく手を出せないままに直球を見送る。コースはボールだったので、何もせずにワンストライクを取られるのは避けられたが、コースを見極めたわけでないのは簡単にバレた。


「もっと気合を入れてくれよ。ぼんやり見送ってばかりだと、1打席目と同じ結果になるぞ」


 反論の余地もないほどそのとおりなのだが、たった数日で打撃技術が飛躍的に上昇するはずもない。加えて淳吾は、実戦の経験が著しく不足している。


 こうなったら待ち球をストレートに絞って、バットをおもいきり振ってやろう。気合を入れて安田学の2球目を待つ。投球フォームもだいぶ頭に入っているので、1打席目みたいに極端にタイミングをずらされたりはしなくなった。


 安田学の手からボールが離れた瞬間に息を止めてバットをスイングするが、今度は途中で硬球が消えた。どこへいったのかもわからないまま、淳吾はこの2球目も空振りした。

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