世界で一番美しい場所

ロッドユール

第1話 出会い

 山に囲まれた、中心に大きな湖のある町があった。その町の中心にある湖の、湖畔沿いから少し住宅街に入った家がぽつぽつと建つ地域のその一角に、かわいらしい赤いズキンを被った小さな女の子の絵をかたどった看板のぶら下がる、小さな絵本の美術館があった。

「今日もあの子は来ているな」

 年は十歳ぐらいだろうか。なぜあんな小さな子が毎日足しげくやってくるのか、年老いた館長には不思議だった。

 別にお金を取っているわけではなかった。子どものできなかった妻が、近所や地域の子供たちのためにと買い集めた絵本やその原画を陳列している、自宅を兼ねた趣味の小さな美術館だった。その妻も亡くなり、今は年老いたその夫である今の館長が、その妻の意思を継ぐ形で、会社勤めを定年後、一人細々と管理人をしているだけの、本当に小さな美術館だった。

 客もほとんど来ない。来るとしても知り合いか、話し相手の欲しい近所のお年寄りか、本当に絵本好きな人が、何で知ったのか、たまにふらっと来るくらいだった。ましてや平日の昼過ぎなどいつも閑散としていた。

「なんであんな小さな子が・・・」

 目のくりくりとしたおかっぱ頭のかわいらしい女の子だった。女の子は真剣な表情で一つ一つ食い入るように、絵本や挿絵の原画を見ている。

「君は最近毎日ここに来ているね」

 年老いた館長は、やさしく少女に話しかけた。

「うん」

 少女はそのくりくりとした大きな瞳で元気よく館長を見上げた。

「何か気にいった絵本でもあったのかい」

「ううん」

 少女は大きく首を横に振った。

「何かを探しているのかい」

「うん」

 少女は今度は縦に大きく首を振り、はっきりと答えた。

「何を探しているんだい」

「わたしは世界で一番美しいものを探しているの」

「世界で一番美しいもの?」

「そうよ。世界で一番美しいもの」

「世界で一番美しいもの・・」

 年老いた館長は、意外な答えに少し驚いた。

「わたしは世界で一番美しいものを見たいの」

「なんで、世界で一番美しいものを見たいんだい?」

「わたし、もうすぐ目が見えなくなるの」

「えっ」

 館長はあまりに衝撃的なことを、少女がさらりとはっきりと言うので、驚きその場に固まってしまった。

「だから、目が見えなくなる前に最後に世界で一番美しいものを見たいの」

 少女は館長を真っすぐ見上げて言った。その目の奥には、大人が失ってしまった活き活きとした純真さがはっきりと息づいていた。

「そうだったのか」

 年老いた館長は改めて少女の美しい黒目がちな瞳を見つめた。

「さあ、こっちへおいで、温かいココアを淹れてあげよう」

 館長は、少女を奥の部屋へ誘った。

「クッキーもあるんだ」

「うわぁ、うれしい」

 少女は本当にうれしそうに、年老いた館長の後ろをひょこひょことついていった。


「おじいさんは何が世界で一番美しいと思うの?」

 少女の顔よりも大きなチョコチップ入りのクッキーを、まだ無垢な白さの小さな歯でパリパリ頬張りながら、少女はテーブルの向かいに座る館長に無邪気に訊いた。

「う~ん」

 そう言われると館長も困った。

「なんだろうなぁ」

「おじいさんが最後に見たいものってな~に?」

「う~ん、なんだろう」

 館長はさらに困ってしまった。

「それはとても難しい問題だ」

「そうよ。とても難しい問題だわ。それに私には時間が無い」

「そうだね。とても難しい問題だ。さて、どうしたものか・・」

 館長は、困り果ててしまった。

「ところで、お母さんはどうしたんだい?」

「お母さんはいないの」

「いない?」

「わたしにはお母さんがいないの。私がもっと小さい時にはいたのよ。でも、今はいないの」

「何か事情があったのかな」

「さあ、私には分からないわ。まだ小さいし、ただ気づいたら私にはお母さんがいなかったの。それが私の知っているすべて」

「そうか。それじゃあ、お父さんは?」

「お父さんはいるわ。でも、仕事がとても忙しいの。かわいそうなくらい。だから、私は私の見たいものを一人で探しているのよ。パパを困らせたくはないもの」

 少女はその年齢に似合わず、はきはきと答える。

「そうか」

 館長は、ちいさな手を伸ばし、無邪気に二枚目のチョコチップ入りクッキーを手に取る少女を見つめた。

「わたしは小さいから、この町の中で探すのがせいぜいだわ。もっと、いろんな所がみたいんだけど」

「う~ん、確かに小さい子どもが一人で遠くへ行くのは危ないな」

「お父さんもそう言ったわ。でも、頼れる大人はお父さんしかいないし、そのお父さんは仕事がとても忙しい」

「う~ん」

 館長はしばらくしわしわの顔にさらに多くのしわを作って、首を捻って熟考した。その向かいで、少女はクッキーを片手に今度はココアのアップを手に取りそれを啜った。

「わたしココアって初めて飲むわ」

「そうかい」

「とてもおいしいのね」

「そう言ってくれるとうれしいよ。もらいものだがね、とても上等のココアなんだ」

 館長は微笑んだ。

「よしっ」

 突然、館長がそう言って膝を打った。少女はカップを持ったまま何事かと目を見開いて館長を見た。

「私が、君のお手伝いをするよ」

 館長は少女を見た。

「ほんと?」

 少女はうれしそうに笑顔を館長に向けた。

「ああ、本当だ」

「うれしいわ。でも大丈夫?」

 少女は美術館の方を見た。

「ああ、大丈夫だ。ここは趣味でやっているだけだし、それにご覧の通り、客なんてめったに来ない。しばらく閉めたって誰も気にもしないだろう。それに私にはやらなければならない仕事もない。引退しているからね」

「正直途方にくれていたの」

 少女は舞台役者のように大げさに大きくそのかわいい眉を動かした。

「本当にうれしいわ」

「ところでどうしてこの美術館に来たんだい」

「看板の女の子がとてもかわいかったから」

「ああ、そうなのか。あれは妻の手作りなんだ」

「そうだったの。とてもかわいい絵だわ」

「そう言ってくれるととてもうれしいよ」

 館長は心底うれしそうに、微笑んだ。

「さあ、どこへ行こうか。何か見たいものはあるかい?」

「私はルーブル美術館へ行きたいわ」

 館長は思わず飲みかけていたコーヒーを吹き出しそうになった。

「ごほっ、ごほっ」

「大英博物館も」

 少女は、うれしそうに期待に胸を膨らませて言った。

「どうして、そこへ行きたいんだい?」

「テレビでやっていたの。たくさんすばらしい絵とか色んな美術品があるって」

「そうか。テレビで見たのか」

「どうして?」

「君が今言ったところは外国のとても遠いところにあるんだ」

「そうだったの」

 少女はとてもがっかりしたように肩をすぼめた。

「でも、美術館へ行きたいなら、日本にだってすばらしい美術館はたくさんあるよ。昔、この美術館を作るにあたって、妻と色んな美術館巡りをしたんだ。だから、私も少しは、いろいろ知っているつもりだ」

「ほんと」

「本当さ。じゃあ、まず近くの美術館から連れて行ってあげようか」

「うん」

 少女は本当にうれしそうにうなずいた。

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