第9話 九尾の狐を探して

 四日目が来た。日曜日である。最終日だからなのか、朝食を終えると陽子は林檎からお茶に招待された。左肩を向日葵の造花で飾られた純白のドレスに着替えて、陽子は薔薇園に備えられた屋根付きのテーブルに向かった。お辞儀をして林檎の前に座ると、いつもの年配の女中が紅茶を淹れてくれた。

 美しい水色だった。実際に飲んでみると、記憶にあるマスカテルフレーバーを鮮明に感じることができた。地球産のダージリンだと陽子は思った。それも二条家でも手に入れることが困難なほどの最高品質の葉だ。地球は重力が強く、距離も海王星まで三十天文単位ほどある。それを手に入れることができる時点で相手は普通の人工知能ではない。

 陽子が驚いていると、女中が小さな包みを持ってやってきた。

「陽子さんの荷物ですね。見ていてもよろしいですか?」と林檎は言った。

「ご自由に」と陽子はまゆをひそめた。「でも、誰かしら?」

 包みを開けるとカードが出てきた。天照大神、八岐大蛇、その他にも仮想世界で購入したアマテラスカードが封入されていた。陽子はテーブルの上に広げた。加工は美しく、日本の加工技術の高さを思わせた。

「触れてもよろしいですか?」と林檎が言った。

「どうぞ」と陽子はカードを差しだした。

 林檎は天照大神を手に取った。彼女の手のなかで、ホログラム加工の美しいカードが角度を変えるたびに色を変えた。

「陽子さんは日本書紀を読んだことがありますか?」と林檎が訊ねた。

「一度もないわ」と陽子は即答した。「木星では教会に通っていたし、そこでは聖書ばかりを読んでいたから。私、日本人だけど日本神話にそれほど明るくないの。でも、話の内容くらいは知っているわよ」

「天照大神は好きですか?」

「残念だけど、マルクスとエンゲルスのほうが好きよ」と言うと、陽子は肩をすくめた。「まだ資本論は読んだことがないけど、でも共産党宣言は読んだわ。日本書紀を読む前に、私は資本論を読んで理解したい。私は古い宗教よりも新しい科学に惹かれているの。過去と現在の延長線上に未来はないわ」

 林檎はくすりと笑った。

「私たちは自分たちが知らないことを愛することを望まれます。多くの場合、愛とは存在ではなく言葉に向かうものなのです」

「何の話をしているの?」と陽子は不安になって訊ねた。

「イデオロギーとは憧れです」と林檎は微笑んだ。「自分が本当は何を愛しているのかを考えることを本当は人はしないものです。たいていは自分が何を愛して何を愛することができるのかではなくて、このようなものを愛するような人物でありたいという憧れで人は何を愛するのかを決めるのです。これはイデオロギーと呼ばれます。陽子さんはイデオロギーという単語の有名な日本語訳をご存じですか?」

「偽りの意識よ」と陽子は即答した。

「そうですね」と林檎は微笑んだ。「しかし、イデオロギーという言葉はもともとは真理を意味していました。差別の英語訳はディスクリミネイションですが、これには正義を行うという意味があったのです。十九世紀までに使われていた言葉は、今生きている私たちが使っている言葉と同じではありません」

 彼女の話を聞きながら、陽子は恐怖を抱きはじめた。

 もしかしたら、自分は今まで恐ろしい勘違いをしていたのかもしれない。声を震わせて、陽子は不安に感じたことを思いきって彼女に訊ねた。彼女が持つ権力、そして自信にあふれた口ぶりから彼女の正体が分かったのだ。

「林檎さん、あなたは同志ですか?」

 林檎は楽しそうに微笑んだ。「もちろん、私は同志ですよ。あなたは私を何者だと思っていたのですか?」

「私は」

「あなたが私を敵だと誤解していたことは知っていました。しかし、そのことを気にする必要はありません」

 陽子は自分の愚かさを呪った。

 しかし、林檎はむしろ機嫌がよかった。お茶の時間を終えると、陽子は着替えてから仮想世界に接続した。

 ツララに手紙を送ると、爽平と玉藻前の屋敷にいると返事が返ってきた。日曜日で高校が休みなので、今日は彼も朝から仮想世界に接続していたらしい。陽子が屋敷へ行くと、二人は開催されている催しを熱心に調べていた。

 陽子が椅子に座ると、ツララはウインドウ・パネルを陽子に見せた。

「次は、ここへ行きましょう」

 覗きこむと、そこには玉藻前が主催している催しが紹介されていた。内容は小学校の遠足などでするような宝探しであり、鴨川方面の森へ行き、森のなかを歩きながらカードを探すというものだった。催しの概要と手に入るカードが紹介されていた。

「逃げた子狐を探すのね」と陽子は二人に確認した。

「そうです」とツララはやる気に満ちていた。「九匹の子狐を捕まえて、彼らが持っているカードを手に入れるのです。もちろん、子狐が持っているカード以外にも森には多くのカードが隠されています」

 獲得可能カードの一覧に九尾の狐があった。

 九尾の狐は攻撃力一五〇の上級妖怪である。召喚条件は場の玉藻前と「狐火」カード二枚を墓地に送ること。一ターンに一度、自分の墓地のカード三枚をデッキに戻すことで、自身の攻撃力を一〇上げて、さらに相手妖怪を一体破壊することができる。また、自分ターンに破壊されたときにはデッキの上からカードを九枚めくり相手に公開して、その攻撃力がすべて異なっていれば相手カードをすべて破壊して自分及び相手ターンを強制終了させる効果もある。しかも、この効果は無効にできない。

 破壊されたときに自分の下級デッキの中身を相手に知られる弱点はあるものの、戦闘破壊と効果破壊の両方をこなすことができる強力な切り札である。

「陽子さんは打点が高いカードが好きだよね」と爽平は悪戯な笑みを浮かべた。

「大好き」と陽子は笑顔を浮かべた。「九匹の子狐のうち、少なくとも一匹を捕まえることができればいいのね。さっそく捕まえに行きましょう」

 陽子たちは催しに登録した。すると景色が変わり、三人は森のなかにいた。木と木のあいだに小道が伸びている。案内人が現れて、催しの説明をはじめた。期間は二〇時まで、森のなかで手に入れたカードは自分のものにしてよいということだった。

 すでに催しには二万人ほどが参加しているらしい。そのため、他の参加者と喧嘩をしないようにと注意があった。今はまだ十一時を過ぎたばかりだった。

「時間はあるので、ゆっくりとカードを探しましょう」

 陽子が言うと、爽平が首をふった。案内の若者が消えると、すぐに爽平はカードを四枚取りだして投げた。四枚は妖怪の青(あお)鷺(さぎの)火(ひ)となり、青い炎をまといながら飛び立った。さらに爽平は二枚のカードを投げた。二枚のカードは窮奇となり、森の奥へと駆けていった。

「爽平君、今のは何かしら?」

「妖怪だよ。斥候に出したんだ」と爽平は説明した。「手持ちのカードを六枚まで妖怪として使うことができるからね」

 爽平はウインドウ・パネルを開いて陽子に見せた。陽子が読むと、確かに好きなカードを六枚だけ選んで妖怪にすることができるようだった。

 さっそく、陽子は狐火の姫を含む六枚を投げて妖怪にした。

「さあ、行きなさい私の狐火たち」と陽子は五匹の狐たちに命令を出した。そして、狐火の姫だけは呼びとめた。「あなたは、ここで私のお供よ」

 狐火の姫に先導させて、陽子たちは森のなかを歩いた。ときどき、爽平が斥候に出した青鷺火が報告に戻ってきた。青鷺火が戻ってくるたびに、爽平はウインドウ・パネルを開いて地図を見せながら指示を出した。

 青鷺火は爽平の意図を理解できるようだった。彼が命令して腕を上げると、声を上げて空に飛び立っていった。

「まるで心があるようね」と陽子が感心して言った。

「心はあるよ。簡単なものだけどね」と爽平は言った。「アマテラスカードには簡単な人工知能が埋めこまれている。言葉は話せないけど、動物よりは賢い」

「そうなの?」

「日頃から大切にしておくと、こういうときに役に立つよ」

 二人の前を歩いていた狐火の姫が、ぱっと駆けだした。そして、岩のあいだに隠されていた一枚のカードを見つけて戻ってきた。赤と金の振り袖を揺らしながら、狐火の姫は陽子にカードを手渡した。

 見ると、気の弱そうな子狐が描かれている。「子狐の叫び」と書かれていた。振り袖の少女は自慢げな顔をした。

「ようやく手に入れたわ」と効果テキストを読んだ陽子はほっとしたようだった。

「玉藻前を使うなら必要なカードだね」と爽平は笑った。「これで手札からだけではなくてデッキからも玉藻前を呼びだすことができる」

「お手柄よ」

 陽子から褒められて、狐火の姫は恥ずかしそうな顔をした。簡易人工知能なので言葉を話せないのが残念だった。

 昼食のために現実世界に戻ると、また午後から探索をはじめた。狐火たちはたくさんのカードをくわえてきて、十五時までに三十枚ほどのカードが手に入った。足下に注意しながら、陽子は爽平と雑談をしながら歩いた。好きな本の話になると、爽平は陽子が一度も題名を聞いたことのない空想科学小説の話をはじめた。

 陽子も好きな本を訊ねられたので、ブロンテ姉妹と答えた。陽子が驚いたことに爽平はブロンテ姉妹について知っていた。訊くと彼には妹がおり、妹がブロンテ姉妹を一所懸命に読んでいるらしかった。爽平は何がおもしろいのか分からないらしいが、妹はヒースクリフの話をするのが好きなようだと教えてくれた。

「でも、妹さんが好きなのは映画のほうね」と陽子は笑った。

「そうなの?」と爽平は首をかしげた。「本を読んでいるのを見たけど」

「エミリー・ブロンテの小説は、それほど美しくもなければ甘美な物語でもないもの」と陽子は内容を思いだしながら言った。「それに『嵐が丘』は信頼のできない語り手による、少し複雑な小説だしね」

 再び青鷺火が舞いおりてきた。爽平が腕を出すと、青鷺火は静かにとまった。低い声で鳴いてから首を動かした。

「どうやら、見つかったようだ」と爽平が言った。

「何が見つかったの?」と陽子は訊ねた。

「九尾の子狐だよ」と爽平は答えた。「こいつを捕まえるとよいことがあるんだ。めずらしいカードを持っている」

 爽平が地図を表示させると、青鷺火が目的地を嘴でつついた。羅針盤を取りだして方角を確認すると爽平は言った。

「川のほうだね。急ごう」

「妖怪を利用して空から子狐を見つけるなんて、ちょっと不公平よね。他の人から文句を言われないのかしら」と陽子が意地悪を言った。

「言われたら困った顔をして笑えばいいだけだよ」と爽平は答えた。「結局、文句を言われてもぼくたちが困るわけではないからね。競争をしていることを忘れているやつらのことを気にしてもしかたがない」

 爽平は歩きだした。陽子は感心して彼についていった。

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