第1話 淑景館

 まだ幼かった頃、加奈は何度も淑(し)景(げい)館(かん)に忍びこんだものだった。淑景館は太陽系第八惑星海王星の衛星トリトン、その軌道を回っている全長五五キロメートルの宇宙都市、東京都に建てられていた。トリトンには日本国に属する宇宙都市が五十以上もあったが、東京都はそのなかでも最大の規模だった。

 弘徽館(こきかん)などと比べると淑景館は見劣りすると宇宙都市の人々は笑っていたが、広い堀と美しい壁に囲まれたこの屋敷は幼い加奈にとっては自然公園に思えたほど壮大だった。淑景館では百人を超える人間と人工知能が召使いとして働いていたが、肝心の主人は留守であり木星地方で暮らしているらしかった。

 屋敷には三つの門があった。神社のある東門のほうは監視が厳しくなく、子どもらしい好奇心に促されて加奈はそこから敷地内に入ると、薄紫の美しい桐の花が咲き誇っている道をわくわくしながら歩いた。奥まで行くとチューリップの花壇もあり、ずんぐりとしたドーム頭のロボットたちが働いていた。

 追い出されることを恐れていたが、働いていたロボットたちは追いかけてくることも警告を出すこともなかった。花壇の隅に座り、屋敷の建物をぼんやりと眺めていた加奈を猫の仲間だとでも思っているようだった。

 女中たちも退屈だったのだろう。若い女中に見つかったものの、まだ六歳だった加奈はここは私有地ですよと軽く注意を受けただけで、むしろそれからはお茶に招待されるようになった。銀の菓子棚にクッキーや小さなケーキが並んでいた。とても豪華だったので小さな加奈としては大満足だった。木星のカードゲームまで教わり、そのことを加奈は何度も自分の両親に自慢したものだった。

 加奈は淑景館が好きだった。大好きになった。

 しかし、あれほど大好きだったにもかかわらず、小学四年生になると加奈は淑景館を避けるようになりはじめた。

 淑景館は不気味な場所だと学校の同級生たちが口にしていたので、そのような場所に出入りすることでいじめられるのを恐れたのかもしれなかった。ときどき女中頭から手紙をもらうことがあったが、そのときも短い時間だけ紅茶を飲むだけになり、下校時間が過ぎると学校の友だちとボールなどで遊ぶことが多くなった。

 学校の帰り道、気まぐれに敷地内を通り、そのときに女中やロボットたちに挨拶したりはするものの、もうかつてのように庭にある屋根付きのテーブルでカードゲームをして遊ぶ習慣はなくなってしまった。

 ところが、彼女が中学二年生のときに事件が起きた。淑景館の主が十五年ぶりに木星地方から帰ってくるという噂が流れたのだ。

 屋敷の主はどのような人物なのだろう。ずっと加奈は気になっていたので、久しぶりに自分から淑景館を訪ねると屋敷の主について女中たちに訊ねてみた。しかし、若い女中たちで淑景館の主人を知る者はおらず、顔を見たことがあるはずの年配の女中頭などは微笑むだけで何も教えてくれなかった。

 九月になるとロボットたちによる見張りが厳重になり、加奈は淑景館に出入りすることが禁止されてしまった。

 これまで避けていたのに身勝手だとは思いながらも、加奈は自分が愛していた淑景館から遠ざけられて寂しく感じていた。放課後になるたびに、まだ会ったこともない主人をうらめしく思うこともあった。

 そして、出会いがあった。下校の途中でだった。近道のために加奈は神社の階段を駆け足で登っていた。鳥居をくぐり境内に足を踏みいれて、池の小道を小走りに駆けていた。そのときに今まで見たことがない少女が長椅子に腰かけているのを見つけたのだった。紅葉の赤に彩られ、少女は青い空を見つめていた。年齢は加奈と同じくらいで、白いドレスを着て髪は金色のリボンで結ばれていた。

 少女は加奈に気がついたようだった。加奈は少女が怖くなって逃げてしまった。家まで走り自室にぱたぱたと駆け込むと、もしかしたら彼女こそが淑景館の主、その一族の令嬢なのではないかと思いはじめた。

 加奈の予想は正しかった。次の日、あの日に見た少女が先生に連れられて、紺色の制服を着て教室に入ってきた。

 自己紹介が終わると加奈のとなりに座り、焦げ茶色の重々しい鞄を置くと、外国製だと思われる見慣れないタブレット端末を取りだした。それから加奈を見つめると、木星地方育ちらしい開放的な笑顔を向けてきた。

「あなた、北原加奈さんね。私は二条陽子です」

「は、はじめまして」と加奈は緊張して声がつかえてしまった。逃げ出してしまった負い目もあって陽子のことが怖かったのだ。

「女中たちから話を聞いたのよ」と言うと、陽子はにこりと笑った。「あなた、淑景館に出入りしていたのよね。ねえ、私の友だちになってくれないかしら。私、海王星で暮らすのははじめてだから、ちょっと不安で戸惑っているの」

 陽子は積極的な女の子だった。この日、加奈を淑景館に招待すると、そのまま自分の両親に紹介して加奈用の部屋まで用意してくれた。陽子もまだ屋敷のことに詳しくなく、また加奈も館内に入ったことはなかったので二人は探検することにした。

 三日もすると、陽子の周りには多くの少女たちが集まってきた。加奈が気がついたときには大きな派閥になっており、放課後になると淑景館で紅茶を楽しむのがクラスメイトたちの憧れの行事となった。

 陽子の両親も地元の有力者たちを屋敷に呼んで舞踏会を開くようになったので、夏が来る頃には淑景館は地域の中心になっていた。主人が戻ってきたことで、屋敷は命を取り戻したように華やいだのだった。

 陽子は普通の上流階級の女の子に見えたが、それだけではなかった。球技の授業では容赦なく男子たちを打ち負かしたし、アスレチックでは身体をくるくると回転させてクラスメイトたちを驚かせた。よく笑い、男の子のような豪快なところがあった。腕が細いのに力が異常に強くて加奈を何度も驚かせた。

 もちろん、高級な趣味こそ彼女が得意とするところだった。加奈が屋敷に入ったときにピアノの演奏が聞こえた。音楽室に案内されて扉を開けると、そこで陽子は女性の奏者からラフマニノフを習って演奏していた。教え手は加奈が演奏会で見たことがある有名なピアニストだった。

「加奈は何か楽器を扱えて?」

 加奈は小さい頃からバイオリンを習っていた。それを伝えると、それはすばらしいわと陽子は嬉しそうに手を叩いた。

「あなたと友だちになって正解ね」と召使いにバイオリンを用意させながら、陽子はとても嬉しそうな声で言った。「私、あまり音楽は得意ではないの。でも、加奈といっしょに演奏できると思うと嬉しいわ」

「二条さん、私、普通の人なのだけど」と加奈は怯えて言った。とても自分のような庶民は陽子のような令嬢とはつきあえないと思った。

「誰もが得意分野以外では普通の人よ」と陽子は見当違いなことを言うと、くすりと悪戯な笑みを浮かべた。「たとえ加奈がバイオリンが上手ではなかったとしても、私はがっかりしたりしないわ。いっしょに上達しましょう」

 数ヶ月もすると男の子の家来たちも増えて、今や彼女を中心として学校での身分が決まるのではと思われるほどだった。そして、加奈は学園を支配する陽子様の忠臣だった。天智天皇を支えた藤原鎌足のように、いかなるときも加奈は陽子の味方であると信じられていた。

 去年までは背が高くてのっぽといじめられていたが、今では加奈のほうがいじめないように気をつけなければならなかった。学校では陽子に敵意を向ける生徒たちと戦い、陽子が何かをしたいと言うと根回しをするようになった。

 バイオリンも上達して、二人で最新の曲の録音をするようにもなった。もともと成績優秀な加奈だったが、さらに真剣に勉強するようになり総合成績で一番になることも多くなった。陽子は数学が抜群にすぐれており、彼女の権威を傷つけないためにも加奈は陽子に負けるわけにはいかなかったのだ。それに工科附属に進学する予定の陽子と同じ高校に行きたかったので、加奈は猛勉強したのである。

 ある晴れた日だった。

 遠足で高尾山に登っていたときに、二人は岩に腰かけてお弁当を食べていた。山上の風は爽やかで、天井で輝く人工太陽は心地よい日差しを注いでいた。突然、陽子は真剣な顔をして加奈の手を取り強く握った。

「お願いがあるの」と言う陽子の声には熱がこもっていた「これから何があっても、加奈だけは私の友だちでいてほしいの。加奈は私が無敵に見えるかもしれないけど、でも、私は加奈のことをとても頼りにしているからね」

「分かったわ、陽子」と加奈は答えた。

「ありがとう」

 陽子は弁当箱を鞄にしまった。このとき、加奈ははじめて自分が陽子のことをとても好きなのだと気がついたのだった。

 そして、二人は同じ高校に進学した。

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