262.1つのアウト


「バッターは、長谷部。背番号24」


 審判に軽く会釈して挨拶しながら、長谷部が左のバッターボックスに入る。


 ——すげぇ殺気……


 流石スタールズの代打の切り札、と呼ばれるだけのことはある。集中力とか、オーラとかがとにかく半端じゃないのだ。


 ——この一打席のために、きっと今日一日中準備してたんだろうな。


 当たり前と言えば当たり前のことだけれども、中継ぎとして試合に出てくるピッチャーと同じ様に、途中出場する野手も自分の出番に備えて準備している。特に代打の切り札だとか代走のスペシャリストなんて形容されるような選手はどんな起用をされるかが分かっているということもあって、出番が来た時に体の状態がピークになるように試合の進み具合に合わせてアップしたりルーティンをこなす選手も少なくない。人によっては、例えば代打専門の選手だと試合前のバッティング練習の時からそれを意識する選手まで居るらしい。


 内山が出した外角ストレートのサインに頷いて、セットポジションに入る。ツーアウト満塁というこの場面、スクイズなど何か仕掛けてくることはまず無いと思って良い。まして、代打の切り札を投入してきてるのだから。


 ——絶対にフォアボールは出せない、初球はストライクが欲しいな……


 四死球でも押し出しで1点が入ってしまう場面、それを避けるにはカウントを悪くはしたくない。とは言え、初球から手を出してきてもおかしくない場面でもあるから、簡単にストライクを取りに行ったら痛い目に遭うかもしれない。となれば、コースを突いてストライクを取るのが理想、ただし最悪ボールになっても良いくらいの気持ちで厳しく行くべきだろう。


 マウンド上の高橋はセットポジションから大きく右足を上げて、クロスステップで踏み出す。軸足の左足から踏み込んだ右足にしっかりと体重を移して、その力を伝えた左腕をコンパクトに振り抜く。


「ボール!」


 外角低めのボール、際どいコースを突いた一球はボールの判定。長谷部は狙い球ではなかったらしく、ほんの少し反応しただけで悠然とそれを見送ってきた。


 ——反応してこない……?


 ストライクと判定されてもおかしくないボールだったから、狙っている球種やコースだったらたとえ見逃したとしても無反応ということはあるまい。初球は様子見、ということが出来る様な場面でも無かろう。となれば、恐らくは球種かコースで絞ってきているのだろう。


 ——次は絶対にストライクを取らないと……


 フォアボールが許されない場面だから、2ボールにはしたくない。まあ、そんなことは打席の長谷部だって分かっているだろうから、簡単に置きに行ったら間違いなく痛い目を見ることになる。


 内山がじっと長谷部の様子を伺ってから出してきたサインは内角へのストレート、懐を突いていくボール。それに頷いた高橋は、大きく一度深呼吸してからプレートの端に足を沿わせる。


 ——インコース、なるべく厳しく……


 大きく右足を振り上げて、そこからクロスステップで踏み出す。体重を踏み出した身がsに乗せて、肘が体から離れすぎない様に注意しながら思いっきり左腕を振り抜く。


 ——良い感じ!


 シュルルルルッ、と指先を離れたボールが空気を切り裂く。


 カァン!


「ファール!」


 引っ張った鋭い打球に球場がどよめくも、ライナー性の打球はカメラマン席に飛び込むファール。何かが割れる様な音とともに跳ね返ってきたボールを待機していたボールボーイが拾いに行く間に、高橋は新しいボールを主審から受け取る。視界の端に映る、髪がくしゃくしゃになるくらいに頭を抱えて青ざめているプレスの人が少し気になるけれど、どうやら今ので怪我人が出ることはなかったらしい。


 ——あのコースなら、打ってもファールにしかならねぇだろ。これで1ストライク1ボールか……


 受け取ったボールを両手でこねながら、高橋は一度後ろを見て内野陣とアイコンタクト。ショートを守る尾木が、「大丈夫、落ち着いていけ」とでも言うように深く頷く。


 ——大丈夫、バックには皆が居てくれる……


 前を向き直した高橋に、パパッと内山がサインを出す。今度は外角に逃げていくスライダー、ストライクからボールに変化する球。高橋はそれに首を縦に振って、セットポジションに入る。そこから足を振り上げて、投球モーションに入る。


 ——振ってくれ……!


 リリースされたボールは、長谷部の手元でスルスルッと外側に逃げていく。が、長谷部のバットはピクリとも反応しない。


「ボール!」


 ——反応無し……?


 一番自信のあるボールを見切られたように見送られると、少し動揺してしまう。決め球にも使いたいボールだし、何より自分の中の一番を見切られてしまっては他の球種が通用しないのではないかと思えてしまうのだ。


「タイム!」


 キャッチャーの内山が主審にタイムを要求してから、マウンドまで走ってくる。


「多分、相手は外角を捨ててきてるんだと思うわ。お前の外角に逃げてくスライダーを振らされないように、ってことかも。だから決め球は内角で行こうと思うけど、落ち着いてお前のボールを投げ込んできてくれよ。お前のボールなら、多少甘く入ったところでそうそう打たれないから大丈夫だ」

「分かりました!」


 高橋の返答に安心した様な表情を見せて、内山が再び走って自分の守備位置に戻っていく。


 ——ってことは長谷部さん、俺対策をしてきたってことなのかな……


 左の代打が出てきた時にサウスポーをぶつけていく、というのは割とよくある作戦である。となれば、今シーズンの高橋の起用法からして長谷部が代打で出た時に高橋がマウンドに送られる、というこのシチュエーションは当然予想されるものである。が、わざわざその対策をしてきたということは対高橋の打席のために時間を割いてきたということであり、それだけのことをする必要がある、言い換えれば警戒して相応の準備が必要だと長谷部が感じたということである。


 ——俺も、一応プロの世界に馴染んできたってことなのかな……


 その場で対応出来る程度のピッチャーだと思われたのなら、わざわざ対策してくるなんてことは無いだろう。対戦する可能性が高かったとはいえ、相手が自分対策をしてきたことが自分を認めてくれた証であるように思えて、何だか少し嬉しくなる。


 ——でも、それだけで打たれる訳にはいかないよね。こんな大事な場面で投げさせてもらってるんだから……


 この試合を左右するターニングポイント、決定機のアウト1つがどれほど大きなものなのか、ここに居る全員が分かっている。そこであえて起用した白石をはじめとするムーンズベンチ、そしてボールを受ける内山をはじめと出てきた時に「なぜ?」ではなく「頼んだぞ」という空気感で迎えてくれた野手陣が、どれだけ自分のことを信頼してくれているのかも。シーズン序盤には自分の名前が呼ばれた時に「誰だコイツ?」と思われているのが分かったものだけれど、今はそんなことはもう無くて、実際自分でも「この場面は俺かな?」なんて思える様になってきた。


 内山の外角ストレートの要求に頷いた高橋はセットポジションに入ると、少し長めにボールを持つ。そこから右足を上げ、一度セカンドベース方向にゆったりと振ってから、クロスステップで踏み出す。その右足に体重を乗せると同時に、体に巻き付ける様にコンパクトに、左腕をしならせて振り抜く。


 ——打てるもんなら打ってみろ!


 指先を離れたボールは狙い通り外角へ、しかし内山が構えた所よりも少し高めに浮く。長谷部のバットがピクッと動く。が、それを堪えて見逃す。


「ストォライク!」


 主審の甲高いコールに、長谷部が思わず天を仰ぐ。ボールだと思ってせっかくスイングを堪えたのに、というリアクションだ。


 内山は「それで良い」とでも言うように、大きく頷きながら力強いボールを返してくる。これで2ストライク2ボール、追い込んだ。あと1球ボール球を投げれることを考えれば、大分余裕が出来たと言える。


 ——どうする? 遊び球は……


 内山はしゃがむとすぐ、次のサインを出してきた。迷うこと無く要求してきたのは内角、背中からストライクゾーンに切り込んでいく軌道のスライダー。さっき声を掛けに来た時に決め球に使うと行っていたコースだ、どうやら次で勝負に行こうということらしい。


 サインに頷いた高橋は、プレートの端に左足を沿わせて、セットポジションに入る。グラウンドの張り詰めるような緊張感が、何だか少し心地良く感じられる。


 ——行きますよ、内山さん……!


 大きく右足を振り上げた高橋は、流れるようなしなやかなフォームで、思いっきり左腕をサイドから振り抜く。


 リリースされたボールが、長谷部の体の方に向かう。それに腰を引いた長谷部は、その球が曲がり始めたのに反応して何とかバットにボールを当てようと両膝を踏ん張って体勢が崩れるのを何とか堪えながら両腕を伸ばす。


 パチィィン!


 乾いた革の音と共に、白いボールは内山のミットに吸い込まれる。


「「っっしゃああぁぁぁぁぁっっっ!!」」


 内山と高橋が、シンクロしてガッツポーズ、そして互いに利き手に作った拳を突き出し合う。


「ナイスピッチング! 流石だな!」


 そう言って白石が突き出してきた右の拳に、高橋も右手にはめたグラブを突き出し返す。


「このアウト1つ取るのが、俺の仕事ですからね」


 高橋がそう答えて拳を返しながら真横を通過すると、白石は無言で背中をパン、と叩いて労った。


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