228.フレーミング


「ボール!」


 ——マジかよ、そこ取ってもらえないの?


 6月30日、福岡ドームでの福岡スタールズ戦。ムーンズが1点をリードして迎えた7回の裏、ツーアウトランナー2塁の場面でマウンドに上がった高橋は、3番内原に対して2ボール0ストライクとカウントを悪くしていた。


 ——どうしよ、外角低め取ってもらえないのキツいな……


 外角低めはピッチャーにとって生命線とも言えるコース。「困ったらとりあえずアウトローに投げろ」というのが常識となっているくらいなのである。外角がボールと判定されるなら打者は外角に来たら全て振らなければ良い訳で、外角に逃げていく変化球を最大の武器に戦う高橋にとっては特にこのコースの判定が辛いというのは影響が大きい。


 ——バッティングカウントか……。けど、ここで勝負した方が良いよな……


 セカンドランナーの首藤は俊足だし、ツーアウトということはどんな打球であれバットにボールが当たった瞬間にスタートを切るから、内野安打でない限りヒットを打たれれば即失点だと思って良い。1塁が空いているから打たれる位なら最悪フォアボールでも、と割り切っても良いのかもしれないが、逆転のランナーになってしまう。それに次の4番・柳谷は打率3割、ホームラン30本、盗塁30個を同一シーズンで達成するトリプルスリーを達成したこともあるバッターだから、内原を歩かせたところで打ち取れるとも限らない。ならば、逆転のランナーを出していないこの場面で勝負に行くというのもアリだろう。


 ファールチップを左手首に受けて途中で退いた儀間に代わってこの回からマスクを被る横田も迷っているらしく、少し時間を掛けてスライダーのサインを出してくる。構えたのは外角低め、恐らく変化してボール球になるボールを投げろ、ということだろう。バッティングカウントで振ってくるとみて、空振りを誘おうということらしい。


 高橋はサインに小さく頷いた後、ふう、と息を吐き出してからセットポジションに入る。一度セカンドランナーを目で牽制してから、サッと足を上げる。クロスステップで踏み出した右足に体重を乗せて、コンパクトに左腕を振り抜く。


 外角を捨てていたらしい内原は反応する素振りすら見せずにあっさりと見逃し、ボールは横田のミットに収まる。


「ボール!」


 ——えっ、マジで? 今のでもボール?


 横田のミットは捕る時に少しだけ外に動いたけれど、狙ったよりも少し内側に入ったボールは、これまでどの主審にもストライクを取ってもらえていたコースと高さに行ったはず。



「これで3ボール! 代わった高橋、ストライクが入りません!」

「これね、悪い所に投げてる訳じゃないんですよ」

「と、言いますと?」

「良いところには行ってるんだけど、キャッチャーがあの捕り方したんじゃストライクを取ってもらえないんですわ。低めの球捕る瞬間に、下にミットがブレすぎだし、その後のミットの動かし方もちょっとわざとらしいですよね」



 3ボール0ストライクでミスショットなんてしたらもったいないから、よっぽど甘い球でない限り、次は恐らく振ってこない。出されたストレートのサインに頷いてからセットポジションに入って、今度はすぐさま投球モーションを開始する。


「ストライク!」



 真ん中ややイン寄りの所に思い切り腕を振って投げ込んだストレートを、内原は全く打つ気無しと言う様なリアクションで見逃した。


「これは一球見てストライク。佐藤さん、さきほどのお話ですが……」

「ええ、僕もピッチャーだったので細かいことまではあまり分からないですけど、明らかに横田君の場合はミットが良くない方向に動いてしまってますよね。ストライクからボールになる方向に動いちゃってますから」

「最近よく聞く『フレーミング』というやつでしょうか?」

「そうですね。よくフレーミングは『ボール球をストライクに見せる技術』なんて言われますけど、僕の認識だと『際どいコースをストライクにする技術』、もしくは『ストライクをボールに見せない技術』だと思ってて。横田君のキャッチング見てる感じだと、ミットを動かしすぎててストライクもボールだと判定されてしまってる様な気がしますね。捕ってからミットを動かす必要なんて無いはずなんですけど、ミットが動いちゃってるんですよねぇ。横田君も若い選手だからある程度は仕方ないのかもしれないですけどねぇ……」



 ——どうする、次もストライクゾーンに投げるしかないぞ……


 どうすれば良いか自分の中でも分からなくなりながら、横田のサインを確認する。横田も決めかねたらしく、少し間を置いてからスライダーのサインを出してくる。


 サインに頷いた高橋は、左足をプレートに沿わせてセットポジションに入る。少しボールを長めに持ってから、サッと足を上げる。着地した右足にしっかり体重を乗せて、左腕をシャープに振り……


 ——しまっ……


 リリースの瞬間、球が指先から少し抜ける嫌な感覚が走る。


 ——曲がらねぇ……!


 パアァァァァン!


 声援を切り裂いて快音が響き渡り、ほんの少し間を置いて歓声がドームを包み込む。内原が投げたバットが地面でバウンドし、置き去りにされる。やがて歓声は打者への賞賛に代わり、より一気に球場中のボルテージが上がる。


 マウンド上の高橋は上がった瞬間それと分かる当たりに目をやらず、一切後ろを振り向くこともなく、ひとり天を仰いだ。


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