第21話9
僕は大阪へ向かう新幹線に乗っていた。会社の方は有給休暇を取った。兄の結婚式に出席する時でさえ、貴重な休日を無駄に使ってしまったと感じたり、家族で帰省するだけの移動にかかる金銭を気にするほどの僕がだ。父の生い立ちを知っているという唯一の人物、僕に手紙をくれた人に会いに行くために。自分でも不思議なくらい心の中で損得勘定の気持ちはなかった。手紙をくれた人が「実は何も知らない。いたずらで返事を書いた」と言うとも思っていない。電話番号は書かれていなかったが、その人の住所とその近くらしき郵便局の消印。実はいうと、僕はその人の手紙に対し、「お話を伺いたく、そちらへお邪魔してもよろしいでしょうか?」との返事を書き、「もう隠居している身ですので。いつでもお待ちしております」との手紙を受け取っていた。僕は手土産を用意し、その住所を目指した。新大阪駅で下車し、電車に乗り換える。今はスマホが分かりやすく案内してくれる。その人が住む町の最寄り駅に僕は降り立つ。駅の前にはタクシー乗り場があり、順番待ちしているタクシーが何台か止まっていた。僕はスマホでその人の住所までの道のりを調べた。五キロほどの距離。どうせ帰りも徒歩だろうという考えと、なにか「歩いていくべき(父ならまず確実にタクシーに乗らず歩く。金銭的な問題で)」との思いで僕はその人の住んでいるところを目指し歩き始めた。
胸がドキドキと高鳴る。理由は分からない。緊張しているのだろうか。歩きながら僕はいろんなことを頭の中で考えていた。そして目的の住所に到着した。古い木造の一軒家。表札には手紙と同じ名前。僕は少しだけ躊躇し、勇気を出して呼び鈴ボタンを押した。反応がない。留守なのだろうか。もう一度呼び鈴ボタンを押すことは失礼じゃないだろうか。そんなことを考えていたら扉の向こうから人の気配がした。そして古いドアのカギを開ける音。僕の父よりも高齢に見える男性が僕を出迎えてくれた。
「初めまして。お手紙をいただきました」
僕の自己紹介にその老人は丁寧な挨拶を返し、家の中へと案内してくれた。
「東京からわざわざご苦労様です。飛行機ですか?」
「いえ、新幹線です」
居間らしき部屋で用意された座布団に座り、答える僕。僕のためにお茶を入れているであろう老人。そして部屋の真ん中に置かれた机に二つの湯飲みを置き、向かい合って話を続ける。
「この度は本当にありがとうございます。あの手紙を頂けなかったら僕は完全に父の生い立ちを知る術がありませんでした」
「いえいえ。それよりわざわざ東京から来られるほどのことでしょう。それによく私の住所が分かりましたね」
「はい。あなたは昔、父に手紙を送られていました。その手紙の住所がこちらの住所でしたので。大変失礼だとは思いましたがそれを承知で手紙を書かせていただきました」
「そうだったんですか。それにしてもその手紙は随分昔のものだと思います。私の記憶ではもう十年、二十年以上も昔のものだと思いますが」
「はい。二十年前のお手紙でした」
老人はそれから僕に対し誠実に向き合ってくれた。
「…そうですか。あの人は『今』、元気に暮らされてますでしょうか?」
「はい。『今』も元気に暮らしております。母も健在です。僕の兄も含め、四人がともに何事もなく元気にやっております」
「そうですか。それはよかった」
それから僕は多くのことをその老人から聞かされる。それはとても悲しいことであり、真実であった。
・この老人は父の実母の年の離れた弟であること
・父の実母は母が言っていたとおり、父が六歳の時に亡くなってしまったこと
・すぐに父の実父は再婚したこと
・父はその実父の再婚相手の継母に育てられたが酷い仕打ちというより、まったく愛情を与えられずに育ったこと(これは老人の主観である)
・父が十歳の時に父の実父と継母の間に子供が生まれ、その最初の子供が幼い頃の僕に「ゴライオン」の超合金を買ってくれた長女であり、それから順番に長男、次男と三人の子供をもうけたこと
・父は家のすぐ近所に役所があったにも関わらず、戸籍の届け出をしてもらえなかったこと(養子縁組の届け出を継母はしなかったそうだ)
・父が大学に入る時、初めて父の戸籍謄本が必要になり、十八歳でようやく父は戸籍の届け出を役所に出してもらえたこと
・幼かった頃の僕に「ゴライオン」の超合金を買い与えてくれた女性はその後すぐに亡くなってしまったこと。死因は自殺であること
「そんなことが許される時代だったんですよ」
僕はこの国で生きている限り誰しもが戸籍の届け出をされているものだと思っていた。また、それをしないと厳しい罰則があることも知っていた。けれど昔はそれがまかり通っていたことに驚き、そしてとてつもない絶望的な気持ちになった。それはあの「ゴライオン」の超合金を僕に買い与えてくれたあの人が自殺をしたこともその理由のひとつであった。今、この時間。愛煙家であり、かなりのヘビースモーカーでもある僕がタバコを吸いたい気持ちにすらならなかった。老人が用意してくれたお茶にも最初の一口しか手をつけていない。
「ちょっと失礼していいかな」
老人はそう言って、灰皿とタバコとライターを用意し、それを吸い始めた。僕にも「あなたはタバコを吸わないのですか。どうぞ遠慮なく吸ってください」と言ってくれたが僕は丁寧にそれを断った。僕とこの老人は対等ではない。会社の社長や上司の前で同じことを言われても僕は吸わない。でもそんなのとはちょっと違う。ただ、誠実に僕と向き合ってくれたこの人の前でタバコを吸うことはこの人を侮辱してしまうと思ったからだ。当然、話している間、僕は正座を崩さない。ゆっくりと、そして美味しそうに、そして悲しそうに何かを思い出すように根元までタバコを吸う老人。その人は吸い終わったタバコを灰皿に押し付けて火を消し、それから小さな封筒を取り出して僕に手渡してきた。
「これは何でしょうか?」
「当時の姉の写真です。六歳ではさすがに顔も覚えていないでしょう。出来れば是非見せてあげてください」
「あのう。今、僕がこの封筒の中を見てもよろしいでしょうか?」
「ええ。もちろんです」
僕は封筒の中から一枚の写真を取り出し、それを見た。それはとても若く、美しい女性が写ったものであった。どれくらいの間、僕はその写真を見つめていたのだろう。僕はしばらくしてから『三十年の往復切符』の話をその人に話し始めた。僕の話を黙ってその人は聞き続けてくれた。僕の話が終わり、その人は笑顔で言った。
「私も亡くなった父と同じぐらいの年になりましたね」
「失礼ですが、もし天国であなたのお父さんと今のあなたが再開したらどんな話をしますでしょうか?」
「そうですね…。いろいろ謝りたいことがたくさんありますね」
それから少しの間、その人の昔の話を聞き、僕は持参した手土産をその人に手渡し、頂いた写真は責任を持って必ず父に見せることを約束し、その人の家をあとにした。
「駅まではかなり歩きますよ。電話でタクシーを呼びますよ」
「いえ。父は歩くのが好きな人ですので」
「そうですか」
老人は笑顔でそう言った。そして僕の姿が見えなくなるまでずっと家の前に立ち、僕のことを見送ってくれた。
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