第2話

 僕の兄の結婚式の朝、僕の両親が飼っていた犬が死んだ。その時、僕はもう就職して実家を出て長かったのでその犬のことは母親から電話で話をする時にたまに聞くぐらいで名前ぐらいしか知らなかったし、実際にその犬を見たのも兄の結婚式で随分久しぶりに実家に嫁と幼い子供を連れて帰省した時が初めてのことだった。僕はその犬を初めて見た時、随分いい扱いを受けているもんだと少しだけ思った。実家の大きな玄関に横たわり、僕や僕の嫁や子供を見ても何も反応せず、ただ大きな体を震わせながら舌を出しながら「ハアハア」と呼吸し、顔を動かせば体を動かさなくても飲めるように水が入った皿がいい位置に置かれていて、延長コードを繋げて家庭用の扇風機が玄関に置かれ、その一生懸命呼吸している犬を「強」の風量で涼しくさせているのだとすぐに分かった。僕の父は昔からほとんど何も言わない人だった。例えるなら家族の中(僕と兄と父と母の四人)で父だけが言語の違う口数の少ない人で母がその通訳のような感じだった。当時の僕は子供ながらに父のことをなんとなく「そういう人なんだろう」と自分の中で考えていた。僕が当時、父について知っていたことは複雑な家庭環境で育ったこと、本当なら東大に入れるほどの学力があったのにそういう事情で国立の関西では一番の大学を卒業したこと(金銭的事情や家族の面倒を見なければならないなどの理由で自宅から通える大学を選んだらしい)、サラリーマンをしながら五時半にはいつも家に帰ってきてそのまま副業として夕方六時から三時間、平日は塾の講師を家の横にあるプレハブ小屋を教室代わりに一人でやっていたこと(町内会の会議みたいなのをやる時によく見るような横長の机に椅子なんかなく、座布団を人数分敷いて、問題集をやりながら父が分からないところを生徒さんに説明するやり方であり、学校の授業みたいな感じではなく分からないところがある生徒さんは父に声をかけて順番待ちするやり方だった)。ほとんど自分のことは言わない父だったがやたら分かりやすい部分もあり、今でいうなら「エコ」と言うか、言葉は悪くなるがものすごいケチと言うか倹約家と言うか。無駄な電気の点けっぱなしや水道の水の出しっぱなしにはとても敏感で、そういう場面では必ず嫌そうな表情でこちらが理解できないが怒っているのは分かる短い言葉をぶつぶつと言う人だった。そういう記憶があったから、そんな父が犬に対して扇風機で風を送っていることに、父がいる実家でそんなことが許されていることに僕は少し驚いた。なにしろ僕が幼い頃に扇風機を使っていた時も父は必ず一番風が少ない「微」に変える人だったし、タイマーまで「連続」から一番短い時間に気が付けば変えてしまう人だった。金のありがたみが少しは分かるようになった僕は、その当時、「貧しさ」を感じたことはなかったが今になってあの父の行為は「そういうものを大事にしたい」と言う父の考えだったのかもしれないと安易に想像していた。

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