70年の片道切符と30年の往復切符

工藤千尋(一八九三~一九六二 仏)

第1話第一章

 人生は片道切符と人は時に表現する。確かに生命を与えられ、この世に生まれたものはその瞬間から己の死へと旅を続けるものかもしれない。人生という電車に乗り、この世は数え切れない電車が時に上手に、時には衝突したり、また、その電車のレールがまったく他の電車のレールと交わることなくだったり。また、その電車のスピードも走り方もそれぞれに特徴があり。そんなことを考えていた時、ふと僕はあることを考えてしまった。


 もし、人生に往復切符があれば。


 四十を過ぎた今の僕は、ちょうど自分の人生を半分ぐらい過ぎてしまったのだろうか?同級生たちの中には、もうすでに亡くなってしまったやつもいる。でもそれは本当にごく僅かな数であり(僕が知っているだけで二人である)、僕を含め多くの同級生たちは結婚もして人の親になり。僕の両親も健在であり、父も母も七十を過ぎた今でも元気に暮らしている。僕の片道切符はひょっとしたら明日や明後日までなのかもしれないし、それは己の電車を運転しているものなら多かれ少なかれそれをたまに意識したりし、その片道切符が出来る限り遠くまであるように己で工夫出来ることをしたり、また、結婚し、共に走ることを選んだ人たちはお互いのパートナーの片道切符がより遠くまで走れるように助け合ったり。もちろん僕も自分の子供たちの片道切符がより素晴らしい旅になるように考える。

 僕の古くからの友人であり、頑張っているやつ(僕はそいつとは住んでいるところも離れており、直接本人と話すこともない)が最近、「もう死にたい」と漏らしていると人伝に僕は耳にした。そいつは親の残した借金を他にも責任を取るべき立場の人間が何人かいたにも拘らず、自分一人で背負う選択を随分昔にし、今まで長い間頑張っていた。

 僕の頭の中に残る記憶がその考えに導いたとしか言えない。

 三十年前、僕が小学生を卒業するか、中学生になる頃。僕の両親の年齢は今の僕の年齢とほぼ同じだった。当時は自分では理解出来なかったことも今になって「あれはこういうことを言いたかったのかな?」と想像したりする。今の僕が人生の往復切符を手にして、当時の両親と同じ年で実際に会って会話をするとどんな会話をするのだろうか?と。そう考えると今の僕が今までの自分の人生を振り返ってみると多くの選択ミスをしたものだとも考えるが、それをやり直すためにその切符を使いたいとは全く思わない。ただ、僕の両親以外にも、何人かその切符を使って当時に戻って、昔の僕は幼すぎて僕の為を思って言ってくれたりしてくれたことに対して随分と反抗的な対応をしたのでその幼い時の自分に「この人はこういう意味でそう言ってくれているんだ」と分かりやすく説明するためにその切符を使ってみたいとは強く思う。

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