第14話 あの人はダメ

 その翌朝にはすっかり熱も下がって、暖かいうちに、という名目で暑い中シャワーを浴びさせられる。それでも久しぶりに使う水は気持ちが良くて、体の隅々まで泡を立てて存分に洗った。

「千夏、調子に乗ったらダメよ!」

という声が聞こえて、慌てて体を流す。汚れは全て流されて行った。

「よお、よく髪の毛乾かした?」

「しっかり」

「それなら良し」

 涼みに来た和室には先客がいて、スマホで何やらポチポチしながらにやにや笑っていた。

「部屋でやったらいいのに」

「ここ、涼しいからさ」

「うち、うるさいよ。特にお父さん」

 蓮ちゃんは顔をパッと上げてわたしを見た後、ポチポチして、スマホを置いた。

「自分の部屋なら大丈夫だよ」

「千夏はしないの?」

「たまに友だちとけっこう遅くまでLINEする時もあるよ」

 ふぅん、と返事があって、蓮ちゃんは二階に消えて行った。まだLINEの続きがあるんだろう。

 上を向いて、大きくため息をつく。自分の吐いたため息はそのまま顔に覆いかぶさってしまいそうな重みだった。

 熱があったから、あんなことを考えたんだろう。よく、「熱に浮かされて」っていうもの。蓮ちゃんが好きだなんて、そんなのは嘘だ。蓮ちゃんはどこまで行っても仲の良い従兄弟の蓮ちゃんで、それ以上でもそれ以下でもない。わたしが、どうかしていた。

 まあ、インフルエンザ並の熱が出たんだから仕方ないとしよう。

「千夏、またこんなところにいて。まだ寝てなくちゃダメよ。冷房切って、二階に行きなさい」

 はぁい、と生返事をしてよっこいしょ、と立ち上がる。まだ、体が重い。

「……うん、帰ったら時間作るよ。仕方ないだろう? バイトだってあるんだしさ。こっち来てた分、ずいぶん休んじゃったから働かないと。……うん、わかった、約束な」

 なるほど、蓮ちゃんがわたしの顔を見て二階に来たのは彼女と電話をするためだったのか。次に会うための約束をするために。

 はぁ、とまたため息が出る。ため息をひとつつく度にしあわせがどんどん逃げてしまう。蓮ちゃんの彼女なら、きっとやさしくしてもらえるだろうな。

 今回は、特に足音を気にせず部屋に戻った。

 ひんやりしたイルカを捕まえる。

 頭の芯が、まだぼーっとする。

 蓮ちゃんの部屋からぼそぼそ喋る声は聞こえなくなって、トントンと代わりにわたしの部屋をノックする音が聞こえた。

「千夏、まだ起きてる?」

 いつになくそっと顔を出して、少し遠慮がちに彼は部屋に入ってきた。

「熱、下がったって?」

「ずいぶん良くなったよ」

「桃、効いた?」

「たぶん」

 そう言ったわたしに蓮ちゃんははにかんで笑った。そして、横になっていたわたしの枕元の、わたしと同じ頭の高さに近くなるように彼はしゃがんだ。

 蓮ちゃんは真顔でわたしを見て、何も言わなかった。唇の端さえ動かなくて、わたしから何か言った方がいいのか、頭を働かせる。何か……何を?

「すごくビックリした。考えてみたら暑い中歩かせて買い物に行ったり、お墓掃除も暑い時間だったり、すごく無理させたんだよな。千夏は女の子なんだから、俺がもっと気を付けるべきだったんだよ。ごめんな、辛い思いさせて」

 今度はわたしの声が詰まってしまった。

 言葉がするりと上手い具合に滑り落ちてこなくて、口を開くこともままならなかった。

「暑いのに熱出て、辛かっただろう?」

 何も言わないわたしの左手を蓮ちゃんは取って、やさしく握った。どうしたらいいのかまるでわからなくて、気がつけば手が小さく震えていた。

 これじゃまるで、手を握られていることを拒否してるみたいじゃないの?

「蓮ちゃん」

 小さな震えに気づかれないうちに、畳み掛けるように大きく名前を呼んだ。

「買い物も、お墓掃除も楽しかったよ。全然、嫌じゃなかったし、楽しかった」

 まるで小学生の作文のような棒読みだったけれど、蓮ちゃんはわたしの言葉に微笑んだ。それはいつものいたずらっ子っぽい感じでも、お兄ちゃんモードの時とも違って、勘違いでなければ大人の男の人の笑顔だった。静かで、ゆったりした。

「じゃあやっぱり、帰るまでにリベンジな。靴擦れは治った? 治ってたらまた履いていけよ。すごくかわいかったから」

 アウトだ。

 どれだけ揺さぶれば気が済むんだろう? 他の人から見たらどうかはわかんないけど、こんな風にされて勘違いしない女の子はいないんじゃないかな?

 彼女がいるって知らなければ――。

 知らなければ?

 こっちに来ている時だけでも彼女みたいにしてほしいなんて、そんな浅ましい考えはないだろう。今のままでも、十分、やさしいんだから。これ以上、何を望むというんだろう?

 何も。ただ少し胸が痛むだけ。

「喉、乾いちゃった。冷たい麦茶、もらってきてくれる?」

 ああ、と相槌を打って蓮ちゃんは階段を下りた。ふぅ、と体の力が抜けたわたしはイルカをぎゅっと抱きしめた。

 できれば他の人を、早く好きになってしまいたい。あの人はダメだから。

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