花火
たなゆう
第1話
「加藤、さっきお願いしたコピーどうなった?」
部長の春日の声に史帆は我に返った。
「え?何部でしたっけ?」
「2部だよ!」
「はい、すぐに用意します!」
コピー機の前に行くと、課長の若林から声をかけられた。
「これ、すっといたから。部長のとこ持ってけ。」
若林の手には綺麗に折られたコピーが2部重ねられていた。
「すみません…」
「あんまり、ぼっとすんなよ。疲れてるなら、明日、年休取れ、会議は俺が代わりに出といてやるから。」そういって、自席に戻る若林の背中に史帆は呟いた。
「若林さんのせいです」
史帆は仕事ができて、面倒見が良くて、優しくて、ちょっと根暗な若林に分かりやすく恋をしていた。
若様、カッコいいよねなどと女子会で盛り上がる女子社員は多いが、史帆はそのレベルではなかった。周囲がちょっと引くくらいにガチで若林に恋をしていた。
ただ、若林と付き合おうと積極的にアプローチしたりは決してしなかった。41歳の若林と25歳の史帆では歳の差がありすぎる。遠くから眺めているだけで十分、満足だと自分にずっと言い聞かせてきた。去年のあの日までは。
12月の金曜日、居酒屋「タコ太郎」の細長い座敷席には部署の面々20人ほどが勢揃いしていた。みんなが席についたことを確認して、入り口近くの席に着いていた幹事の史帆は声を張る。
「皆さま、本日はお集まり頂きありがとうございます。それでは、お時間になりましたので、始めさせて頂きます。部長、乾杯の音頭、お願いします!」
「それはいいんだけど、その前に若林君から何か皆さんに報告することがあるんじゃないか?」
春日は史帆の音頭を制して、急に隣の席の若林に水を向けた。全員の視線が若林に集まる。
若林は頭をかきながら、照れ臭そうに立ち上がった。
「えー。私事で大変、恐縮ですが、私、先月、11月22日良い夫婦の日に入籍させて頂きました。」
室内は一瞬、どよめいて、その後、おめでとう、とか、おめでとうございます!という声があちこちから聞こえた。指笛を鳴らす馬鹿もいる。
思わぬ展開に史帆は自分が幹事であることも忘れて茫然としていた。諦めていたとはいえ、若林が結婚となるとやはりショックは隠せなかった。良い夫婦の日に入籍という激寒な行動も若林らしくなくて、若林という人間が分からなくなった。
どさくさに紛れて、お調子者の女子社員の富田が質問する。「ちなみに、お相手は?」
「えー、富田さんの質問ですが、相手は26歳の看護士の方です。」
若林の答えに驚きの混じった大きなどよめきが起こった。「若い!」そんな声もどこかから聞こえてくる。
「26歳…」小声で何回も呟いた。自分とそんなに変わらない年齢の女と若林が結婚したことを知り、史帆の中でさっきとは別の感情が動いた。
どよめきが治らない中、若林は声を張った「では、私若林の結婚を祝して、乾杯の挨拶とさせて頂きます。カンパイ!」
「いや、お前がカンパイすんのかい!」
史帆には春日の声がどこか遠くに聞こえた。
史帆はアパートのベランダで笹の木キットを組み立てていた。造花の笹の木バージョンのようなものをAmazonで3千円で購入したのだった。
いくつかに分かれた人工笹のパーツをつなげて、土台にセットして完成。最後に付属の短冊に筆ペンを走らせる。
若林さんと一緒に花火を見に行けますように
ベランダに設置した笹の木に短冊を吊るすとおりしもの雨ですぐに短冊が濡れて書かれた文字が滲んだ。
この地方で7月7日の夜が晴れることはほとんどない。
恨めしそうに星の見えない空を見上げる史帆の頬に容赦なく雨が降り注いでいた。
1週間後、定時で上がろうとデスクの片付けをしていた史帆は春日から突然、声をかけられた。
「定時後にすまんが、ついさっき、ヒガシムラ工業でボヤがあったらしい、至急、現場に確認に行って欲しい。」
史帆の所属する調達部では仕入先の管理全般が仕事のため、このようなことはままあった。
「分かりました。」
史帆がそう言って部署の出口から出ようとすると、若林が携帯片手に入ってきて、春日に言った。
「部長、ヒガシムラ工業の件、俺、行ってきます。帰りそっち方面なんで。」
「課長、今回は私に行かせて下さい。ヒガシムラは私の担当です。」
史帆はいつになく、強い口調で若林に宣言した。
いつもいつも、若林に頼ってばかりでは自己嫌悪が募るばかりだ。
「じゃあ、2人で行ってこい。」
春日の指示で結局、2人とも現場に向かうことになった。
期せずして、若林の自家用車の助手席に座ることになった史帆はヒガシムラ工業までの道中、緊張して無言になってしまった。若林も言葉を発することはなく、窓ガラスを叩く雨の音だけが車内に響いていた。
ヒガシムラ工業の入り口には、社長と専務がペコペコ頭を下げながら、2人を出迎えていた。こういう時、どういう顔をすれば良いのか入社3年目になる史帆は未だに分からない。ふと、隣の若林の顔を窺うと死んだ目をして一点を凝視している。これが正解なのだろう。
ボヤ騒ぎの原因は工場の敷地内で焼き芋を焼いた後、火を消さずにそのままにしていたのが、近くのダンボールにに引火したというものだった。煙が立ち昇るのを周辺住民が目撃して、通報。幸いボヤで済んだが、消防が駆けつける騒ぎとなった。
応接室で説明を受ける2人にコーヒーが出てきた。史帆はコーヒーが苦手だ。私、現場見てきます。そう言って、史帆は1人で焼き芋事件の現場に向かった。史帆が建物から出るともう、雨は止んでいた。焼け焦げた葉っぱの上にぶちまけられた消火器の白い泡がぷくぷくいっている。
不意に、誰かから声をかけられて振り返ると若林が先ほどのメンバーと一緒に立っていた。作業着に茶髪の男が1人増えている。若い男で年齢は史帆と同じくらいだろう。
「お前からお2人に説明しろ」
専務が促すままに男は話し始めた。
「俺が焼き芋やりました。雨、降ってきたんで、火はついたままにして、事務所に戻りました。」
「何で、火を消さずにここを離れたんですか?」
堪らず、史帆が質問する。
「雨降ってきたんで、勝手に消えると思って」
「雨、関係ないですよね。火はつけたら消して下さい。」
「加藤、もういい。戻るぞ」
若林は諦めた表情で、場を切り上げた。
車に戻り、運転席で春日に簡単な報告を入れた後、若林はため息をついた。
「この時期に焼き芋って、季節感考えろよな」
「私、焼き芋、大好きです。」
「お前が焼き芋好きかどうかは一言も聞いていない。」
若林は空気を読めない言動を平気でする人間を何よりも嫌う。
「すみません……。若林の性格を知り尽くしている加藤は、落ち込んで、下を向いた。」
一呼吸おいて、若林は言った。
「加藤、この後、時間あるか?」
「はい。ありますけど…?」
史帆には若林の言葉の意図がわかりかねた。
「折角だから、花火、観に行かないか?
ここちょっと行った高台によく見えるとこあるから。」
「是非!」
史帆は即答した。
山道をクルマでしばらく登ると、開けた平地に停車した。クルマの外にでると、眼下に、市内の夜景を一望できた。
会社のビルも病院も湾に停泊する船の灯りも全て見える。
明滅する無数の光を見るだけで、何故か、史帆は優しい気持ちになれた。
「ここ、穴場なんだよな。仕事でも、仕事以外でも行き詰まったときはいつも、ここに来るんだよ。なんつーか、優しい気持ちになれんだよな」
史帆はびっくりして、若林の顔を見た。普段、会社では決して見ることのない穏やかな表情がそこにはあった。
「もう、そろそろ始まっててもおかしくないんだけどな。」
若林が時計を見たタイミングで、彼の胸ポケットの携帯がブーブーと振動を始めた。
「ごめん、嫁からだわ」
画面を見て、若林はクルマの方に体の向きを変えた。
「行かないでください」
気づくと史帆は若林の右手首を伸ばした右手に掴んでいた。
若林は一瞬、驚いた表情を浮かべたが、優しく史帆の手を解いて、言った。
「すぐ、戻るから。」
若林はクルマの方に歩いていく。バンッとドアが締まる音が響き、史帆は外に一人取り残された。空を見上げると、無数の星が輝いているのがはっきりと見える。
ヒュー、ドーン! 突然、轟音が響き、数秒遅れて、夜空に鮮やかな紫の輪がパッと開いて、そして、あっけなく消えた。
花火 たなゆう @71093232
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