第23話

 その日から。

 雪からのメールを、わたしは全て無視した。LINEも未読のまま、確認しなかった。夜勤が終わったあと、ロッカーの中に放り込んであったスマートフォンが光っていたのでちらりと見ると、着信が入っていて、音声のメーッセージが残されていた。

 雪からだった。

「……どうして無視するんですか。お願いです。連絡をください」

 涙で滲んだ声だった。その声を聞いただけでわたしの胸は罪悪感でいっぱいになってしまった。でも、どうすることもできなかった。このまま、お互いに何も告げずに、終わった方がいい。そう思ったのだ。そうするしかないと思ったのだ。それでも彼女の通知をブロックしなかったのは……未練だったのかもしれない。いつか自然に消えていくことを、仕方のないこととして、それでもこうして連絡をくれることを期待して、暗い自分の心を慰めていたかったのかもしれない。

 桜はあの日の寒さにやられてしまったのか、すぐに散った。病院の敷地いっぱいに、しなびてくすんでしまった花びらが敷き詰められているのを見ると、胸の苦しさがより一層強くなった。

 朝日が眩しい。

 わたしは目を細めて、そっと頭上をまばらに覆う木立を見上げた。小さな芽吹いたばかりの桜の葉が、すでに虫に食われている。

 家に帰り、シャワーを浴びたあとで、わたしは庭に植えた薔薇の葉や芽を、剪定ばさみで残らず切り落とした。丸坊主になった枝を見ていると、少しだけ清々した。

 室内に戻って台所で手を洗っていると、ピンポン、とチャイムの鳴る音がした。今日は志子が遊びにくる日だっただろうか。そう思いながら、

「開いているから勝手に入って」

 と声をかけた。

 ためらいがちにドアノブが回され、けれどカリカリという聞き覚えのある音に驚いて振り向いてみると、そこにいたのは、……雪だった。

「……どうして」

 わたしの声は、情けないくらい、かすれていた。喉が一瞬でひっついてしまったようになって、うまく言葉が出てこない。

 慌ててキッチンの水を止めると、指の先が痺れて、両脇に嫌な汗が滲んだ。

 どうして……どうやってこの場所まで来たのだろう。

 雪がこのアパートに来たのは、たった一度だけ。薔薇の……さっきわたしが切り刻んでしまった薔薇の……苗を植えたあの日、ただ一度きり。目の不自由な雪が、どんな手段を用いたら、ここまで来ることができるのだろう……ううん、できたのだろう。不思議で仕方がないのだった。

「ハイネさんの方こそどうしてなんですか? どうして……ずっとわたしを無視するんですか?」

 部屋の入り口で、白杖を両手でぎゅっと握りしめたまま、涙声で雪が言った。

「わたしのことが嫌いになったのなら、そう言ってください。こんなの……フェアじゃない」

 フェア? フェアって……いったいなんだろう。

 わたしは両手を布巾で拭いてから駆け寄り、固く握り締められた雪の手に、自分の両の手のひらを重ねた。雪がわたしの胸に飛び込んできて、声をあげて泣いた。熱い涙が、わたしのブラウスに、染み込んでいった。雪の体はまるでがんぜない子猫のように、命そのものの熱を発していた。

 わたしはそのまま、動けなくなった。

 わたしはあの日から、雪に対しての言葉を、失ってしまったままだった。失語症のようになってしまって、思うように声が出てこないのだ。思いを伝えようとしても、文字に起こせないのだ。わたしは周囲を見回した。言葉を探した。わたしの喉をついて出てくる、決定的な言葉を。

 ふと目に留まったのは、あの赤い色のスラッグだった。

 スラッグは少しずつしおれて精彩を欠くように乾いていったけれど、花の放つ匂いは、より鮮明になっていた。

「ゆき」

 とわたしは言った。名前を囁くだけで、とてつもない労力がいった。少しだけ体を避けて隙間を作ると、わたしの胸の前で組み合わされた雪の左手薬指に、銀色の、見たことのない、別の指輪が光っていた。

 あの指輪は外されてしまって、もう、どこにも見えなかった。あの指輪……あの指輪たちが意味していたものは、一体何だったのだろう。

 自分の胸で泣かれているうちに、わたしの目にも涙が浮かんできて、それはとめどなく溢れて、いつしか堰を切ったように頬を伝っていった。どうして自分が泣いているのかもよくわからずに、わたしは泣き続けていた。

 雪が白杖を手放し、カランという玄関の床に転がる音が響き、それを目で追った瞬間、わたしの唇は雪の唇にふさがれていた。わたしは嫌々をするように首を何度も横に振ったが、彼女は逃がしてくれなかった。わたしの頭をしっかりと両手で抱き、唇を割って舌を絡ませ、スリッパを押しつぶすように、わたしの体とひとつになった。

 ブラウスをキャミソールごとをたくし上げられ、下着があらわになって、それでも雪の手は止まらない。最初は抵抗していたわたしも、雪の涙を受けているうちに、その力が削がれていくのがわかった。

 魔女の指に絡め取られ、大釜に放り込まれる前に哀れな声で鳴く、不思議な植物のように。わたしの抵抗は、彼女の前では無意味なものなのだと思い知らされた。

 雪の涙は、塩からい味がした。

 さみだれのように降り続き、わたしを濡らし続けた。

 どうしてこうなってしまったのだろう、とわたしは思い、そう思いながら、それでも彼女を自然と受け入れていた。……だって、わたしは元々、人妻専門のたらしだったじゃないか。ずっとそうやって、刹那的に女性を抱いてきたではないか。

 でも、でも。

 雪の体を抱きながら、雪に体を抱かれながら、それでも思っていた。

 わたしの抱いている雪は、もう他人なのだと。

 わたしを抱いている雪は、別人を抱いているのだと。

 わたしは再び居間の奥の、壁に掛けられたスワッグを見た。

 雪も何かを感じたように、動きを止めた。そして、不意にわたしの足と足のあいだから、顔を上げた。

「嘘……この花の匂いの組み合わせ、そんな、嘘だわ」

 エリカ。

 ラムズイヤー。

 シルバープルニア。

 アイビーのプロテア。

 そして、……ラベンダー。

 雪がゆっくりと立ち上がり、手で空間を探るように、歩いていく。テーブルに腰をぶつけても、ひるまずに。……雪の手がスワッグに触れた。雪の体が、電気が走ったように、びくっと震えた。わたしはそれを、ただ、じっと見ていた。

「わたしの」

 と、わたしは掠れた声で言った。

「名前を当てて」


「……ハイネさんの」

 裸のままの雪が振り返り、わたしの声を探していた。わたしは胸のつかえが取れたように、氷でできた栓が溶けてしまったかのように、再び話し始めた。喉の渇きも、息苦しさも、何もかもなくして。

「本当の名前……?」

「そう、わたしの本当の名前。あなたの職業はわかったわ。だって、わたしはあの会場にいたんだもの。あなたの演奏する曲を聞いたんだもの。そのスワッグが答えの代わりになるわよね。だから、……だから、今度はわたしの名前を当ててよ」

 春の日差しが薄いレースのカーテンを透かして、部屋に入り込んでいる。すべてのものの輪郭を、優しくしている。雪の裸は、とても、とても綺麗だった。かつて眠れない夜に邪な想像をした姿よりも、ずっと、十倍も百倍も綺麗だった。股間を覆う和毛がわたしの唾液と愛撫とに濡れて、きらきらと光っていることも。全てが綺麗に見えた。

「間違えると、どうなりますか」

 雪が訊ねた。無意識なのだろうか、彼女の右の手の指が、結婚指輪に触れた。その仕草に、けれどもう、わたしは何かを感じたりはしなかった。

 わたしは自分のブラのホックを背中で止めて、さて、どうなるのだろう、と思った。しかし今更どうにもなりはしないのだろう、とも思えた。

「いくら藁を黄金に変えても、結局のところ偽物は偽物だわ」

 わたしは言った。少しだけ皮肉めいた口調で。

 雪はためらいがちに、小さく首をかしげていた。きっとグリムの……ルンペルシュテルツヒェンの童話は知らないのだ。名前を言い当てられたからといって、わたしは怒りながら二つに裂けたりはしない。

 だって、

 元々、わたしたちは……姉とわたしは、二人で一つみたいなものだったのだ。

「あなたはずっと、本当の名前を知っていた。知っていながら、知らないふりをしていた。そうよね?」

 雪は裸の胸を隠すようにしながら、唇を噛んでいた。わたしは立ち尽くす彼女に、一枚いちまい、花のような下着を手渡していった。

「わたしはずっと、あなたの、雪のことしか見ていなかった」

 わたしは手櫛で雪の髪を梳いた。

「あなたは……わたしだけを見てくれていた?」

 嘘。わたしの言葉だって嘘だ。思わず自分のことを笑ってしまいそうになる。わたしが誠実だったときなんて、今までどのくらいあっただろうか。最初から体だけの、そういう目的で声をかけたんじゃないか。

「ハイネさん……?」

 わたしは再び流れ出そうになった涙を押しとどめようとして、視線を逸らした。そして仏壇の姉の写真を見た。鼻をすすると、少しだけ鉄臭い雪の、匂いがした。

 どんな名前を出してもいい。とわたしは思った。わたしは雪のために、その名を残らず正解にするだろう。よく当ててくれたわ、正解よ、そう言ってもう一度雪の唇に口づけをするだろう。手を取り、わたしが彼女の目になって、今度は本当に、ベッドへと雪を誘うだろう。今までごめんなさい。わたしが悪かった、許して、と言いながら。けれど……もしも、もしもその名を、

篠井ささい

 とかすれるような小さな声で、雪が言った。その名字が囁かれただけで、わたしの心臓は止まりそうになった。言わないで、と思い、聞きたくない、と思った。そこには一縷の望みさえなかった。


「あなたの名前は、篠井……瑠夏るか


 嗚呼。

 どうして、どうして。あなたはその名を口にしてしまったのか。

 呪われろ、呪われろ、呪われてしまえ、としわがれた声で鳴く、不吉な三羽の黒い鳥が、わたしの頭の中で大きく羽を広げて、今にも飛び立とうとしていた。マクベスの一幕のように。そんなイメージが奔流となって渦巻いていた。


「違うわ」


 わたしは言った。

「わたしの名前は瑠夏じゃない。わたしの名前は、篠井蕗菜るな。瑠夏の妹の、蕗菜よ」

 雪に服を着せてあげながら、彼女の耳元で、ささやくようにわたしは言った。

 雪は驚愕に目を大きく見開きながら、その美しい顔を、紙よりもなお白くさせていた。

「姉は他界した。もうこの世にはいないの。あなたが捧げた曲も、もう姉の耳には届かないわ」

 わたしは言った。そして沈黙した。

 それからわたしたちの、

「どうして」

「どうして」

 という声が重なった。

 雪はきっと、最初からわたしを瑠夏だと思っていた。そのつもりで接していた。過去にどのようにして知り合い、どんな経緯があって同性愛を毛嫌いしていたはずの姉と、ペアの指輪を作るまでに至ったのか、そして別れたのか。……わたしは知らない。知りようもないし、知りたくもない。あるいは姉は、雪とのことがあったから、同性を愛すること、わたしのセクシュアリティを殊更に嫌悪していたのかもしれない、でも、そんなことさえどうでもいい。だって姉は、もう、死んでしまっているのだから。

 気づくとわたしの隣に姉の亡霊が立っていた。姉は生前の姿のままで……つまりわたしよりも歳をとっていなくて、若くて、そこに立っていた。

 ずるい、と思った。

 今、このタイミングで、雪の前に……わたしの前に現れるなんて、ずるい、と思った。

 いったい今まで、どこにいたのだろう。油圧系の中にそっと隠れていて、このアパートにバイクと共にたどり着き、その後は遺影の中からじっとわたしたちを見ていたのだろうか。それともわたしが徒然に送った、既読のつくはずのないあのLINEが、姉の形に成ったのだろうか。

 姉の唇が、ゆき、と動いた。そして彼女の左手の薬指を見つめて、悲しそうな色で眉を染めた。

 きっと、わたしが悪かったのだろう。双子なんかに生まれてしまったから、彼女を……雪を混乱させることになってしまったのだ。わたしの声が姉に似ていなかったら。雪が触れたわたしの顔の、体の輪郭が姉に似ていなかったら。そうしたら……ううん、そうしたらたぶん、わたしと雪はこんな関係にはなっていなかった。雪はわたしに好意を示さなかった。きっと、そうなのだ。

 人妻を装わせてしまったことも、あるいはわたしの罪なのだろうか。彼女の指輪。それを見たのが姉だったなら、すぐに気づいた。それとも知っていて、それに気付いていて、わざと知らないふりをしていると思われていたのだろうか。どちらにしろ、雪にとって……酷なことだったに違いない。

 そして、とわたしは思う。ちらりと隣を見やる。そこにいるのは、佇んでいるのは、病を得る前の姉の姿だった。

 姉は死の間際に、雪のことを思ったのだろうか。その横顔からは、何も伺うことができない。

 わたしには一言もその存在を告げぬまま、静かに息を引き取った姉は、本当は、雪に看取られたかったのではないだろうか。指輪を最後まで握りしめ、ただそれだけにすがるようにして、姉は死んだ。わたしは姉に対しても……罪の意識を負うべきなのだろうか。

 わたしは姉との最後の日々を思い出していた。少しずつやせ衰えていく姉の、頬の翳り、目の色を失って、全てを諦めた表情、声にならない声、細く節が目につくようになったあの指先は、誰を求めていたのだろう。

 わたしの横に立つ姉の指先が、ゆっくりと伸ばされて、雪の頬に触れた。雪は何かを感じたのか、その箇所に、自分の手のひらをそっと押し当てていた。

「そっか、イルカちゃんは……本当に死んでしもたんね」

 わたしはその吐息のような、京訛りの声を聞きながら、雪に服を着せて、唇からはみ出てしまった紅を、指先で静かに拭った。髪はまだ幾分ほつれたままだった。彼女はもう、どうして、とは訊かなかった。まるで、全部、丸ごとわかってしまったみたいに見えた。

「駅まで送って行くわ」

 とわたしは言った。

 雪は首を横に振って、大丈夫です、一人で帰れます、と言った。

「白杖があれば、わたしはどこにでもいけます。それに地図のアプリもありますし」

 そして、彼女は苦笑して、この場所も地図アプリに登録させてもらっていたんですけれど、消しておきますね、と。寂しそうに呟いた。

「ゲームはわたしの負けですね」

 そしてそう言うと、雪は静かに部屋を出て行った。

 わたしはゆっくりと玄関ドアの向こう側に消える雪の姿を、その足音を、部屋の中にいて感じながら、同じタイミングで消えてしまった姉の姿を、いつまでも探していた。

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