第22話

「そこは事前にネットの写真で見た通りの、こぢんまりとしたレストランだった。内扉の前にはまるで……中世のフランス貴族みたいな格好をした、綺麗な男の人が立っていた。目鼻立も日本人離れしていて、もしかしたらハーフだったのかもしれない。片眼鏡をかけて、髪を後ろに撫で付けていて。チケットを拝見します、と言われて、わたしはお店の入り口で慌ててしまった。男の人に見とれることがあるなんて……。急がなくても大丈夫ですよ、と言われても、余計に焦るだけだった。カバンの中に手を入れて、チケットを入れた紙入れを探した。傘を閉じるのも忘れていて、骨の先端から、溶けた雪の雫がポタポタと落ちるのが見えた。

 室内に入ると、中は一面、花に覆われていたわ。壁に幾つも花束が吊るされていた。知らなかったのだけれど、それはスワッグと言うのね。草花の青い、そして何かの香辛料のような、刺激的な匂いがした。花の色は青系統のものが多かった。

 そして驚いたことがもう一つあった。

 お客さんの格好。みんな、なんていうのかしら……ゴスロリ、って言うのかしら。黒い、ひらひらとしたレースのいっぱいついた、ドレスを着ていた。スカートがパニエで大きく広がっていた。お化粧も濃くて不思議な感じがした。カラコンを入れている人もいたわ。わたしだけが場違いにみたいに見えた。

 中央の壇上には、楽譜台が置かれていて、その向こう側に、グランドピアノが見えた。席は自由だと言われて、わたしは壁際の目立たない席に着いた。テーブルの上には今日の次第が書かれた紙が置かれていた。わたしはそれを手にとって、そこに印刷された彼女の写真をじっと見ていた。

 本物の彼女の姿はまだどこにも見えなかった。ただ、仕切りの向こう側から、時折バイオリンの調弦の音が聞こえていた。わたしはその音を聞くたびに、胸が締め付けられるように痛んだ。それが何に起因する痛みなのかわからなかった。罪悪感なのか、それとも別の何かだったのか。今でもわからないままなのよ。本当にこの場所にいていいのだろうかと自分に問いかけながら、美しい彫刻が施された椅子の上で、わたしはしばらくのあいだ身を縮ませていた。

 彼女が黒い服の男の人と出てきたとき、わたしは二つの意味で心臓が止まるかと思った。一つは、あまりにも彼女が美しすぎたから。黒いローブのような、ドレープのたっぷりとついたビロードのドレスを纏って、右手には飴色に輝くバイオリンを、そして左手を男の人の腕にそっと預けていて。濃い紫色のアイラインが彼女の目をいつもより大きく見せていた。唇の色は黒に近い真紅だった。そんなメイクをした彼女を、そんな表情を浮かべる彼女を、わたしは知らなかった。白杖を持たずに歩く彼女の姿を、わたしじゃない誰かに手を引かれて歩く彼女の姿を、わたしは初めて見た。彼女は美しい魔女だった。魔女そのものだった。そして、二つ目。どうして今の今まで気づかなかったんだろうってそのとき思った。写真だって、見たはずなのに。何度もなんども、見ていたはずなのに。わたしはその男が、駅で偶然わたしたちを見ていたあの男だと、その瞬間まで気づかなかった。改札口の向こう側から、わたしと彼女が口付けを交わしているのを、じっと見ていたあの男。その男が、まさか彼女と一緒に現れるだなんて、夢にも思わなかった。ううん、違う。悪い夢だと思った。もしかしたら無意識に、男の顔を認識するのを拒絶していたのかもしれない。彼女が男と一緒に写っている姿を、拒絶していただけだったのかもしれない。交通事故で利き腕を怪我したというピアニスト。彼女が結婚しているのだとわたしに嘘をついたその男。写真とも、駅で会ったときの印象とも、そのときの彼はまるで違っていた。魔女の従者のようだった。

 男の方は、わたしにすぐに気付いたみたいだった。わたしを見て、眉をぴくりと一瞬動かして、それから自分の腕に手を添えている、彼女の横顔を見たの。

 彼女は、小さく微笑んで、お客さんの拍手に応えていた。目が見えないから。彼女はわたしの姿が、見えないから。壁際の、拍手すら忘れたわたしには、顔を向けることさえなかった。頭上の花束がわたしに甘い匂いを振りまいていただけ。男は訝しそうな表情を浮かべていたのだけれど、何事もなかったかのように彼女を壇上に導き、彼女の元を離れた。ピアノの前の椅子に座り、その高さを少しだけ調整した。彼女はそのまま壇の中央でライトを浴びていた。それから急に、かつかつ、とリズムをとるように、ヒールで足踏みをした。男も何も言わずに和音を奏でた。

 そしておもむろに演奏が始まったわ。アストル・ピアソラの『ブエノスアイレスの冬』だった。バンドネオンのパートを彼女がバイオリンで演奏するのを、わたしは呆然と眺めていた。ピアノがそれに呼応するように情熱的な音を放っていた。それはタンゴだった。男と女の、絡み合うような。激しい音楽。アルゼンチン・タンゴ以外の何物でもない。そう思った。わたしは圧倒されて、そして嫉妬で狂いそうになりながら、その演奏を聴いた。バイオリンの最後の一音が消えると、会場から割れるような拍手が起こったわ。給仕がそっと寄ってきて、アスパラガスの前菜のお皿を置いた。わたしは機械的にフォークとナイフで小さくして、口に運んだ。でもそれがどんな味だったのか、全く覚えていない。

『こんにちは。この会も今回で五回目を迎えました。初めての方も、そうでない方も。改めまして、橘美雪です。今日はわたしと、あと彼のために集まってくださいまして、誠にありがとうございます』

 彼女が少し上気した顔と声で言った。また拍手が起こった。男が短いフレーズを、軽快に弾いた。

『今日のお洋服は、……いささか演奏には不向きなのですが、魔女っぽく仕上げてみました。皆様も……わたしには見ることが叶いませんが、きっと素敵な魔女さんの格好でらっしゃるかと思います』

 彼女がそう続けると、会場からは小さな、温かい笑い声が聞こえてきた。

『最近、スワッグに凝りだしまして。この会場一面の花たちは、全てわたしの手作りです。三日間徹夜して作らせていただきました。皆様にはお帰りの際にお一つずつお渡ししようと思いますので、楽しみにしていてください。それでは、次の曲に参ります』

 ちらりと彼女が後ろを振り返った。見えないはずなのに、男とアイコンタクトしている。わたしはその姿に、やはり嫉妬を覚えないわけにはいかなかった。彼女がバイオリンを構えた。左手の薬指の指輪が、シャンデリアの照明を受けて、静かに光っていた。彼女が次に弾いたのはラフマニノフの前奏曲、『鐘』だった。静かなピアノの音から始まって、いつしか寄り添うように、彼女のバイオリンが高音でそれを迎え入れた。先ほどの『ブエノスアイレスの冬』とは違う、でも、しっとりとお互いが絡みつくようなその演奏は、やはり男女を思わせた。ううん。もしかしたら、そう思ってしまったのは、わたしの中にあるやましい気持ちの現れだったのかもしれない。最初から彼女が人妻だと思っていたのに、それなのに。いざ、目の前に男と女でいる姿を見ると、たまらなくて、いたたまれなかったのよ。わたしは彼女の姿を見続けながら、機械的な動作で食事を口に運んだ。指先はパンをちぎり、冷たくなったバターを塗った。カトラリーは両端から消えていった。スズキのポアレがあった。チキンの香草焼きも。でも、やっぱり味は覚えていない。美味しかったのか、薄い味付けだったのか、どんな匂いだったのか……。次の曲で終わりです、と彼女が告げたとき、わたしはもうデザートを食べ終えていた。そして彼女たちが最後に演奏したのは、サン=サーンスの『死の舞踏』だった。

 彼女がバイオリンを指先で爪弾いて、そしておもむろに床を蹴った。それに呼応するように力強いピアノが続いた。主旋律を入れ替えながら、曲が進んでいったわ。髪を振り乱すようにして、汗の雫を照明に光らせて、彼女の手が力強く動くのを、わたしは見ていた。あの手が、あの指がわたしに触れたのだと、どうしても思えなかった。口元は引き締められ、眉と眉のあいだには深いシワが刻まれていた。それを見て、ああ、魔女だ、と思った。美しい魔女だ、と。壁一面の青い花束たちがざわざわとゆれていた。叩きつけるようなピアノの音、それに負けない斬りつけるようなバイオリンの音。情感的な旋律。弦の上を跳ね回り、踊り狂う黒のローブ。全身で死の舞踏を演奏する彼女の姿は、なんだか変な言い回しになっちゃうけれど……命にあふれていて、本当に綺麗だった。

 演奏が終わるとお客さんたちは皆立ち上がって、惜しみない拍手を送っていた。上気した彼女の頬が薔薇色に染まっていた。白いメイクの下から浮かび上がるそれは、まるでアプリコットみたいな色。杏色だったわ。

 頭を下げた彼女の横に、男が寄り添った。男は最初から最後まで無言だった。最後に軽く左手で右手の甲を、何度か軽く撫でただけだった。事故の後遺症なんて微塵も感じさせない演奏だった。

 彼女が男の右肘に自分の左手を優しく乗せた。そして出てきたときと同じように、仕切りの中に消えていった。拍手が鳴り止まなかった。わたしは放心していて、何も考えられないままだった。その拍手がアンコールを表していたのだと気付いたのは、リズムを刻み始めて、彼女たちが再び現れたあとだったわ。

『温かな拍手をありがとうございます。アンコールにお応えしまして、この曲を送りたいと思います。わたしのオリジナルの曲で、もう何度も聴いたことがある方もいらっしゃるかもしれませんが……わたしの一番好きな曲です。それでは演奏します。……『イルカに捧げる歌』、よろしくお願いします』

 それはとても優しい曲だった。それでいて、どこか胸が痛くなるような、切ない曲だった。今まで聴いたどの曲にも似ていないのに……ううん、あれは、思えばショパンの夜想曲に似ていたかもしれない。わたしの姉が好きだった曲、ノクターン第20番・嬰ハ短調に。……ピアノの音が小さく、彼女のバイオリンを支えていた。それが彼の仕事であるかのように、ね。

 わたしは姉を思った。思わないわけにはいかなかった。わたしと同じ顔、同じ声、同じ体を持った、そしてそれを丸ごと向こう側へと持って行ってしまった、姉を思った。ここに姉さんがいたら、雪のバイオリンを聴いたら、どう思うだろうって、それしか考えられなかった。気づくと涙が溢れていた。ずっと、感情が麻痺していたのに、その曲を聴いたらもう、駄目だった。わたしの心の中で固く凍りついていた何かが……あるいはわたしの中に眠っていた姉の残滓が、その曲に反応していた。確かにそう感じていた。そのときわかったの。全部、……全部わかったのよ。曲も、曲のタイトルに込められた意味も、全部。

 最後の一音がゆっくりと空気に溶けていくと、花の甘い匂いだけが残った。会場が惜しみない、温かい拍手に包まれた。彼女がバイオリンを肩から下ろして頭を下げた。男が彼女の隣に立って、同じように頭を下げた。そして頭を上げると、男が言ったわ。

『あなたは喋ると残念な感じになるからと言われていて……今日は裏方に徹するつもりでいたのですが……。やはりこればかりは自分から、皆様にご報告をしたいと思います。

 このたび彼女と……橘美雪さんと正式に籍を入れることになりました』

 会場が一気に華やいだわ。わたしは目の前が真っ暗になった。文字通り何も見えなくなって、自分がどこにいるのかわからなくなった。

『彼女にはずっと待たせてしまって、辛い思いをさせたかと思います。事故で利き腕を怪我してから、長いリハビリの期間も含め、僕たちは互いに支えあってきました。けれどどうしても、僕には最後の踏ん切りがつかなったのです』

 初めて……電話越しのくぐもった声を除けば……聞いた男の声は、凛としていて、低くて、とてもよく通った。わたしの胸を、心臓を、貫いてしまうくらいに。目が見えなくなったのは一瞬だった。もしもあれが永遠に続いていたら……わたしは彼女と同じものになれていたかもしれない、って。今でもそう思う。

『それはきっと、僕が弱かったからなのだと思います。目に障害を負っていても、彼女は大切な人です。そのことを、今更ながら改めて思い知りました。これからは夫婦としても、互いに支えあっていきたいと思います』

 男が喋っている。わたしには一瞥もくれずに、わたしには関係ないことのように、喋っている。わたしは目を閉じた。そして、ゆっくりとまぶたを上げて、彼女の顔を見た。そこに浮かんでいた表情を、きっと、永遠に、わたしは忘れないと思う。それを……彼女の表情を言葉で言い表すのは、難しいわ。本当に難しい。今でも夢に見るけれど、そのときの彼女の顔が……どうしようもなく……わたしは、一番、好きなんだもの。演奏会が終わると、男とスタッフ……中世の貴族のようなあの男性……が、壁のスワッグを外して回った。それは大きくて豪奢なワゴンに乗せられて、彼女の前に置かれたの。会のおしまいに観客と握手をして、彼女は一人ひとりにそれを渡していった。男がワゴンから彼女に手渡して、彼女がお客さんに手渡して……。そうしてわたしの番になった。男と目が合った。男は何も言わなかった。わたしも何も言わなかった。そっと手を差し出すと、男はわたしの目を見ながら彼女にむきだしの花の束を手渡した。それは、その中にあった、唯一の赤い色味のスワッグだった。

 エリカ。

 ラムズイヤー。

 シルバープルニア。

 アイビーのプロテア。

 そして、……ラベンダー。

 今壁に掛けてあるスワッグはドライフラワーに変わってしまったけれど、手渡されたときには、……しばらくのあいだは、本当にいい匂いがしたの。彼女は一度そのスワッグに顔を寄せた。そしてにっこりと笑って、このスワッグの匂いの取り合わせが、わたし一番好きなんです、って言ったの。だから、本当に好きだから、一つだけしか作らなかったんです。そして声のトーンを落として、内緒ですけど、この子は本日の当たりです、って言ったのよ。顔を近づけた彼女から、汗と、嗅いだことのある香水の匂いがした。スワッグからは不思議に組み合わされた花の匂いがした。わたしは何も答えられなかった。声を出したら、きっと彼女に気付かれてしまう。そう思った。そう思ったら息を吸って吐くことすら、苦しくなった。吐息の匂いですら、わたしであることがわかってしまう。そう思った。わたしは慌てて頭を下げながら、急いでその場を離れた。色男のあのスタッフがそっと寄ってきて、わたしの持っていたスワッグににビニールの覆いをして、大ぶりな紙袋に入れてくれた。外はまだ雪が降っていた。春なのに、桜が散っていく季節なのに、凍えるような寒さだった。わたしは喘いだ。呼吸するのを忘れていたわたしが吐き出した白い息は、降りしきる雪の中に溶けて、すぐに見えなくなった。わたしは声をなくしてしまった。話す言葉をなくしてしまった。だから声を殺したまま、泣き続けたの」

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