生意気
紺堂 カヤ
第1話
どっしりと重い扉を開くと、店内には明るい声が満ちていた。そこに混ざる、食器の触れ合う音やコーヒーの香り。
夏帆がレジ前できょろきょろしていると、空のグラスをたくさん乗せたトレイを手にした女性に、少々お待ちください、と声をかけられた。そちらに、はい、と返事をして、後ろからやってきた敦子を振り向く。
「混んでそうだよ」
「えー、ここもか……」
敦子は、わかりやすく渋面をつくった。
「他を探す?」
「まあ、いいや。外に行列ができてないだけマシでしょ」
それはそうだ、と夏帆がうなずいたとき、先ほどの女性が急ぎ足でやってきた。
「お待たせいたしました。二名様ですか」
「はい」
「奥のお席へご案内します、どうぞ」
「あ、はい。あっちゃん、入れるって」
「え、そうなの? ラッキー」
店の最奥らしい小部屋の席に案内されて腰を下ろすと、ようやく、どっしりした扉を持つ店に似つかわしい落ち着いた雰囲気に包まれた。
豊富なメニューの中から、夏帆がビーフシチューセット、敦子がアボカドシュリンプサンドイッチセットを注文して、ふう、と息をつく。
「いやあ、すごいねえ。休日の吉祥寺ってこんなにたくさん人がいるんだねえ」
夏帆がへらり、と笑うと、敦子はまた渋面をつくった。
「休日じゃなくてもやたらと人がいるよ、吉祥寺は」
「そうなのかー」
吉祥寺へ行きたい、と言い出したのは夏帆だった。愛知県で生まれ育ち、大学進学に合わせて上京してきた彼女にとって吉祥寺は、あこがれと言えばあこがれだけれど、なぜあこがれているのか明確なイメージがつかめない、そんな場所だった。たとえるならば竜宮城のようなところか。
敦子は、同い年のいとこである。毎年、正月と盆にしか顔を合わせないが、年齢が同じこともあって夏帆とは親しく付き合ってきた。
「吉祥寺は生意気なんだよ、武蔵野のくせに」
「は? 生意気?」
敦子が大真面目にそう言うので、夏帆は笑っていいのかいけないのか判断できず、半笑いのような表情でまばたきをした。
「東京じゃないのに、って意味」
「でも、武蔵野市も東京都じゃあ……?」
夏帆がそうっと質問したとき、お待たせいたしました、とはきはきした声が割って入った。ビーフシチューとアボカドシュリンプサンドイッチ、それにセットのサラダが運ばれてきたのだ。
「ドリンクは食後でよろしいですか」
「あ、はい」
「では、デザートと一緒にお持ちいたしますね。ごゆっくりどうぞ」
できたての料理を前に、夏帆と敦子はうん、とうなずきあって湯気の中へ挑みかかった。料理は冷めてしまう前に食べる。夏帆も敦子もそう教わって大きくなった。
「美味しい」
「うん、美味しい」
食事中にかわす言葉はこれだけだ。
夏帆は、デミグラスソースとともに口の中でとけてゆく牛肉を味わいながら、敦子の先ほどの言葉について考えた。「吉祥寺は生意気だ。武蔵野のくせに」というやつである。
夏帆にとっては、吉祥寺も武蔵野も「東京」でしかない。だが、東京都品川区に生まれ育った敦子から見た「東京」の中に武蔵野は入っていないのだろう。それは、きっと東京に移り住んだばかりの夏帆にはわからない感覚に違いなかった。そして東京にいる間にわかるようになることはなさそうだ。
「武蔵野の範囲から東京は省かなければならない」
ふと、夏帆の口をそんな言葉が突いて出た。
「え? 何?」
サンドイッチの最後のひときれを手にした敦子が、怪訝そうに夏帆を見る。
「あ、いや、受験中に読んだものの中に、そう書いてあったものがあったなあ、って」
「ふうん」
敦子はちょっと興味を持ったような目をしたけれど、話すことよりも食べることのために口を使うことを選んだらしく、サンドイッチにかじりついた。
武蔵野の範囲から東京は省かなければならない、というのは、武蔵野は東京ではない、というのと、反対側の考え方なのではないだろうか。敦子の言葉が「東京側」から見たものだとするならば、こちらは「武蔵野側」から見たものだ。だがどちらも、「東京」と「武蔵野」は違うものだと定義している点で共通している。
「……面白いところだなあ、東京は」
ふふふ、と夏帆は笑った。ビーフシチューの皿はまるで嘗め尽くしたようにきれいになっている。
「そうお? 慣れちゃえばなんということもなくなると思うよ」
敦子は何げないふうに言ったけれど、その声音には得意げな色がにじんでいた。
「ま、慣れるまではあたしがなんでも教えてあげるよ。東京は全部、あたしの庭だからね」
この敦子の言葉が聞こえたのだろう、隣の席でケーキを食べていた妙齢の女性ふたりが、くすくすと笑った。夏帆は自分が言ったわけでもないのに恥ずかしくなって首を縮める。敦子はちょうど、すみませーん食後のドリンクお願いしますー、と店員に向かって叫んでいるところで、くすくす笑いには気が付かなったらしく、夏帆はそっと胸をなでおろし、気を取り直した。
「なんでも、かあ」
夏帆が繰り返すと、敦子はちょっと身を引いた。
「え、なんか変なこと考えてるんじゃないでしょうねえ?」
「変なことって何よ」
夏帆が笑うと、いやわかんないけど、と敦子も笑った。美味しいものを食べた後は、笑顔以外の表情をつくるのが難しい。
「そうだなあ。あ、じゃあさ、今度は、生意気じゃない武蔵野に連れて行ってよ」
「ええー? いいけど……、何しに?」
敦子がそう尋ねたところで、食後のドリンクとデザートが運ばれてきた。アイスティーと、バナナのシフォンケーキだ。ふたりはまた、うなずきあった。
これを食べ終えたら、「月を見に行く」と敦子に言おう、と夏帆は思った。受験中に読んだ文章にはたしか、武蔵野は月がきれいなのだと、そうも書いてあったと、記憶しているから。
生意気 紺堂 カヤ @kaya-kon
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