第2話 パパになれたら

 数分後。美姫と桜井さんは水を染み込ませたタオルを肩に掛け、リビングでテレビを流し見する俺の元へと姿を見せた。


「ごめんねー、お待たせしちゃった」


「いえ、いいんです。それより……ありがとうございます」


 俺はソファの上で組んでいた足を下ろし、床に正座した。ここまで良くしてくれた桜井さんに対し、少しでも敬意を払わなくては、との思いからだ。


「困っている人を助けるのは当然のことよ。それが高広君なら尚更。あっ、それよりもさっきの話よね。もうすぐ就寝の時間だし、わたしは帰ろうかしら」


「待ってください」


 荷物を詰めこんだ鞄を引っ提げ、玄関へと向き直る桜井さんの手を俺は咄嗟に掴んだ。


「姉についての話なんです。姉の最後の願いを、言葉を……桜井さんにも聞いてほしくて」


 掴んだ細い腕は、小刻みに震えていた。表情は俺からは見えなかったが、美姫はその様子を不安そうに見ている。


「少し長くなるかと思いますし、まだ気持ちの整理ができてないはず……」


 そこまで言って、俺は口を噤んだ。ここで彼女を引き止めてしまっては、また頼る事になってしまう。いい加減、現実を受け入れなくては。それがお互いにとって、辛く苦しい物でも共に生きていかなくては……そんな思いが、続く言葉を押し沈めた。

 数秒の沈黙の後、桜井さんは重々しい唇を広げ、ゆっくりと声を絞り出した。


「……雨、凄いよね」


 俺は重圧に押し潰されるように、下へ下へと追いやられていた視線をぱっと上げた。その時桜井さんと目があったが、その瞳は怒りでも悲しみでも無い――、複雑な瞳だった。俺は彼女の言葉で外に耳を澄ますと、確かに窓に水の打ち付ける音がしている。こんな中帰らせるのは人としてどうなのだろうか。


「お風呂も入っちゃったし、もしよければ今晩止めてくれると嬉しいな」


 桜井さんはいつもの優しい笑顔を浮かべているが、双眸は雫を解して輝いていた。

 俺に彼女の感情はわからないが、想像はできる。きっと現実を受け止め、前に進もうとしているのだろう。

 ああ、いつまでも姉を恨み、美姫に当たり続ける自分を殺してやりたくなる。

 俺はぎこちない笑顔を浮かべ、立ち上がった。


「ぜひ泊まっていってください。寝るには少し早い時間ですけど、布団の用意でもしてきますね」


 彼女を見ていたら美姫と話す決意が揺らぎ、元の弱い自分が顔を出し始めた。俺は隣の寝室へ行って照明をつけると、リビングに繋がる襖をそっと閉めた。

 独りになった自分に、再びどうしようもない、やり場の無い怒りが込み上げてきた。


 ――姉は何故、こんな弱い俺に期待したんだ? 桜井さんは何故すぐに立ち直れる? 美姫はどうして俺になついてくれない、みんななんで俺を叱ってくれないんだ!


「あー、くそっ!」


 俺は隣に聞こえないよう小声で叫ぶと、押し入れからひっぱり出した布団を床に叩きつけた。

 一人で使うには少し大きい布団を綺麗に敷き、襖を開く。


「準備できました。少し狭いですが、この布団で美姫と寝てやってください」


「高広くんは?」


「俺はそこのソファで十分です」


 きっとこの時、俺はまたぎこちない笑みを浮かべていただろう。桜井さんは一瞬怪訝そうな顔を浮かべると、美姫へと微笑んだ。


「美姫ちゃん、先に歯磨きしよっか。わたしはちょっとだけパパとお話するから一緒にいけないけど……大丈夫? 一人でできる?」


「うん、だいじょーぶ」


 美姫は廊下をぺたぺたと歩き、お風呂場と隣接する洗面所へと消えていった。


「子育てがお上手なんですね」


「なーにそれ。三十過ぎても未だ独身の私への嫌味?」


「あっいやっその、そういうわけでは」


 慌てる俺を見て、桜井さんはくすり、と笑った。


「冗談よ。ほら、優子ちゃんってばちょっとガサツだったじゃない? だから少しでも手本にならなきゃ、わたしがしっかりしなきゃってね」


 どこか懐かしげに語る桜井さんに、少し憤りを覚えた。


「どうして桜井さんは普通でいられるんですか」


「え?」


「姉が、あなたの親友が死んで、悲しくないんですか」


 拳が痛み、歯が軋む。

 どうして俺は憤っているのだろうか。さっきまで、ずっと姉を恨んで、美姫に八つ当たりをしていたのに。

 俺の言葉に桜井さんは黙って俯いてしまった。本当は悲しいってわかっているのに。俺や美姫に悟らせないよう、気丈に振る舞ってるだけだってわかっているのに。

 ほら、彼女の表情が曇っていく。俺ですら理解できない感情に振り回されて、複雑な思いがまるでクモの巣のように張り巡らされて行く――――


「悲しくないわよ」


「だったらどうして笑って――――え?」


「全っ然悲しくなんてないわ。美姫ちゃんがいない今だから言うけど、あの子にはあなたの事を父親だと思わせているの。仕事が忙しくてあまり帰れない、頑張りやさんだってね」


「待ってください」


 それは違う。俺の求めた回答なんかじゃない。


「話をすり替えないでください。そんなの、悲しくないなんて言葉と関係ないじゃないですか」


「最後まで聞いて頂戴」


 桜井さんの見せる真剣な眼差し。普段怒らない、温厚な彼女が見せる、初めての表情。研ぎ澄まされた刃物のような視線に、溢れかけた感情は引き裂かれた。


「実は、病気のことは前から知ってたの。『もしもあたしが』なんて言葉、よく聞かされたから。まさかあんな冗談、現実になるなんて思いもしなかったわよ」


 桜井さんの顔は、普段の穏やかな物に戻っていた。


「美姫ちゃんを、弟のあなたに任せるーって何度も言ってたわね。わたしの方が好かれてるのに、わたしの方がきちんとお世話できるのに、どうして? って毎回のように聞いてたの。でも優子ちゃんは、こう返してきたの。今でもよく覚えているわ」


『アイツと美姫には、あたしらには無い特別な縁があるんだ。それも信じられねえような、突飛なもんだがな。美姫はその事に気づいてる。アタシは神のことを信じちゃいねーが、流石にこれは神の仕業としか思えねーわな、がははっ!』


「正直何を言ってるか理解できなかったわよ。当然今もね。あの時のわたしは美姫ちゃんを娘のように可愛がってたもんだから、そこで頭にきちゃって」


 ――――だったら貰ってくれよ。連れ帰ってくれよ。俺には子育ては無理だ、特に美姫には苦手意識を抱いている。『困ったら美姫に合言葉を』なんて思っていたが、手っ取り早い解決方法が目の前にぶら下がっているじゃないか。


「1年くらい前かしら。わたしは優子ちゃんと言い争いになっちゃって、通うのを止めたの」


 俺が出向かなくなったのと同じ位の時期か。ここまで恨み、怒りの対象だった姉が途端に可哀想に思えてきた。弟に見捨てられ、親友とは喧嘩別れ……その上病気を抱えてしまうなんて、俺だったら耐えられない。


「だから、あなたから訃報を聞いたとき、多少喜んでしまったわたしがいたの。これで美姫ちゃんと一緒に暮らせる、なんて。本当に最低よね……わたし」


「それは…………」


 言葉は喉で止まり、それ以上は出てこなかった。だって、俺も同じだから。美姫を預けた姉を、最初は恨んでいたのだから。


「高広くん、居心地悪そうにしてたでしょ? だからお風呂の後、美姫ちゃんを連れて帰ろうと思ったの。運命はわたしに味方してる、"縁"はわたしにあったんだってね」


「…………」


 俺は俯いた。必死で涙を堪え、訴えかけようとするが、どうしても言葉が出てこない。ただ一言、美姫を連れて帰ってくれと言えばどれだけ楽だろう。だが、今の話で姉に向けた負の感情は同情へと変わった。同時に、託された美姫と共に笑っている姿を見せ、安心させたいとも思ってしまった。

 今までずっと強がって、人のせいばかりしてきたが俺は、俺は本当は――――


「だから、無理に家族にならなくても、わたしが……」


 俺は大きく息を吸って、吐いた。


「俺は本当は、姉さんが死んでめちゃくちゃ悲しかったんだ……! 馬鹿な俺はそれを認めたくなくて、八つ当たりばかりして、あやうく姉さんの宝物まで手放してしまう所だった。でも俺は決めた。この先どれだけ辛かろうと、美姫と二人で生きていくんだって。姉さんに天国で笑っていて貰うんだって」


 桜井さんは目を丸くし、俺を見上げている。

 もう、後戻りはできない。


「すみません桜井さん。突然こんなこと言い出して……どんな怒りや恨みを向けられても仕方ないと思います。だって、桜井さんは前々からずっと美姫のことを思っていたんですから……でも、俺は本当の父親じゃないけど、きっと本物以上の父親になってみせます。娘に嫌われるのは、父親の特権ですから」


 俺は桜井さんに笑いかけた。下手な笑いではなく、誠心誠意心から。彼女は、それに一粒の涙で答えた。

 その時、純粋で無垢な甲高い声が、静まり返った寝室へと響いた。


「けんか、だめ」


 一瞬で背筋が凍りついた。話が長引いたことは薄々理解していたが、もしかするとずっと前から聞かれていたのかもしれない。大声も出してしまったのだから、当然と言えば当然だが……それでも、聞かれていなかったことを願う。

 桜井さんは俺の意図を汲み取ったようで、


「な、なんだか眠くなってきちゃった。明日は休みだし、今日はもう寝ましょう?」


「そ、そうですね。今日は色々あって疲れましたし」


 美姫はただ、その場に立ち尽くしていた。その表情に抑揚は無く、作り笑いを浮かべている俺達を無言で見つめている。


「じゃあ電気消しますね」


 俺は、寝支度を終えて布団を纏う二人を見下ろした。

 すると、美姫は思い出したかのように話し始めた。


「しってたよ、私。パパは、ほんとうはパパじゃないんでしょ」


 桜井さんは額に冷や汗を浮かべ、苦笑いで必死に手を動かしていたが、何も言葉を発していなかった。


「私、もう小学生だもん。ママが泣いちゃだめだって。でも、おばちゃんとパパがけんかしてたら、止めてっていってた」


 姉さんは、もしかしたらここまで見通していたのかも知れない。桜井さんの思惑も、俺の邪念も全て理解した上で。

 やっぱり、姉さんには頭が上がらない。


「あのな美姫、別に喧嘩してた訳じゃ……」


「パパもおばちゃんも、ごめんなさいして!」


 美姫の目にはうっすらと涙が浮かび、光を帯びている。

 俺と桜井さんは、お互いに顔を見合わせた。


「本当に、すみません……何から何まで頼りきって、最後に裏切るような事をして」


「ふふっ、いいのよ。わたしこそ必死になりすぎていたわ。ごめんなさいね。さっきの話で……あなたの美姫ちゃんへの思いに、敵わないなって思ったの。それより応援してるわよ、お父さん」


 俺は恥ずかしさに目を背け、美姫を見た。


「美姫。お前は俺が、偽物のパパが嫌いか?」


 美姫は小さく首を振った。だが、その表情はさっきまでの自信に満ちた物とは対照的に、怯えたような、儚い物だった。


「じゃあ、どうしていつも俺を見て泣くんだ?」


「わかんない。パパを見ると、かなしくなっちゃうの」


 どういうことだ? 最近始まったことならわかるが、生まれてからずっと同じ調子だったはずだぞ?


「もしかすると、優子ちゃんの言う通りなのかも知れないわね」


 俺と美姫は二人して桜井さんを見つめ、首を傾げた。


「ほら、優子ちゃんが言ってた言葉よ。あなた達にしか無い、特別な縁……」


 嬉しそうに手を打ち鳴らす桜井さんに、俺は微笑んだ。


「そうかも知れないですね」


 姉さんはいつもガサツで、口が悪くて、その上とても他人想いだ。今回のことも、こうなることを見越していたのかも知れない。やっぱり、姉さんには何一つ、敵わないな。


「ふわぁぁあ……」


 美姫の大きな欠伸。

 いつもは俺を避けてばっかりで、可愛げのない奴だけど、本当は優しくて、泣き虫で、世界で一番俺の事を愛している。

 美姫はしっかり娘をやってるよ、姉さん。

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