夢を食す
甲池 幸
第一話 不思議な森の喫茶店
その喫茶店は深い森の中ほどに存在していた。地図には存在しない深い森。出口はなく、もちろん入り口もない。招かれざる者はその存在を知ることすら許されない不思議な森だ。
外の世界では例年より早く梅雨が明け、まだ七月の中旬だというのに真夏日が続いている。だが、森の中は静かだった。
半袖では寒く感じるほどのひんやりとした空気に満たされ、蝉ではなく小鳥が歌っている。木々の葉が日差しを遮っているせいか、全体的に薄暗い。
そして、丸く森を刈り取ったかのような敷地の北側に、一軒の喫茶店がある。明るい茶色のレンガでできた母屋に赤茶の屋根がのっている。
室内から出てきた喫茶店の店主は、ご機嫌で表の看板をひっくり返した。隠れていた「OPEN 」の文字が、柔らかな日差しに照らされる。鼻歌を歌いだしそうな様子で、店主は店内へと戻った。
店内には、カウンター席が三つと四人掛けのボックス席が一つ。小ぶりのキッチンと、部屋の奥には一人用のベッド。店主はカウンターと机をクロスで拭き、棚の中にあるティーカップを丁寧に磨く。最後の一つを磨き終えたところで、ドアのベルが勝手に音を立てた。ドアはまだ開いていない。
店主は棚の中から、白磁に濃紺で紫陽花の柄が描かれたティーカップを取り出して、水を火にかける。注ぎ口の細い赤いやかんだ。
コンロの下からアールグレイの茶葉を取り出したところで、ドアが開く。戸惑いを浮かべた顔で店内をのぞき込んでいるのは、セーラー服に身を包んだ女の子だった。店主は意図的に口角を上げ、柔らかな声を意識して口を開く。
「いらっしゃいませ。ちょうどお茶が入るところですので、中へどうぞ」
少女はそぉっと、店内に足を踏み入れた。白いスニーカーが音もなく床を踏む。店主はカウンター席を片手で指し、ちょうど沸騰したやかんの火を止める。ティーポットにお湯を注いでから、深緑色の茶葉の缶を手に取った。
「アールグレイでよろしいですか?」
「え? あ、あぁ、はい。だいじょうぶです」
少女が少し高い声で答える。少女は視線を忙しなく動かして店内の様子を眺めた。その視線が部屋の奥にあるベッドに止まり、店主を見て、またベッドに戻り、また店主に向く。
店主はその動きを横目で見つつ、ポットにティーコージーを被せる。少女は何度か口を開いては閉じを繰り返していたが、タイマーが残り一分ほどになると決心がついたのか、声を発した。
「あの」
店主は少女に視線を向け、笑いかける。
「何でしょう?」
「ここは、どこなんですか? 私、学校に行こうと思ってて。でも、気がついたらここにいたんです。それで、青い小鳥が飛んでて。綺麗だなーって追いかけているうちにここにたどり着いて、それで」
「ええ。あの小鳥にはお客様の案内をお願いしてありますから」
店主はポットから紅茶をカップに注ぐ。コポコポコポと軽やかな音を立てながら、赤茶色の液体が白いカップを満たしていく。店主はそのいい香りに目を細めた。
「今日もよい香りです」
少女は居心地悪そうに何度か、椅子に座る位置を変えている。店主はカウンターにカップとソーサー、ビスケットののった皿を置いて少女に微笑みかけた。
「どうぞ。疲れた体には甘いもの、と昔から決まっていますから」
少女はしばらく店主と紅茶を見比べていたが、小さく「いただきます」とつぶやいてカップに手を伸ばす。一口、紅茶を飲んだ少女は驚いたように勢いよく顔を上げた。目は見開かれ、その口元には笑みが浮かんでいる。
「お口にあったようでなによりです」
店主は笑みを返した。少女はカップを静かに置くと、小さく、そっと、息をついた。ため息にも安堵にも聞こえる吐息は、店内の空気に吸い込まれて消える。
「すごい美味しいです」
少女は小さな笑みを浮かべたまま、紅茶の表面に視線を向ける。
「私、たぶん、学校が好きじゃなくて。別にいじめられてるとか、友達がいないとか、勉強が特別できないとかじゃないんですけど……なんかこう、ちょっとだけ息苦しいんです、たぶん」
少女は紅茶を口に含んだ。誰にも言えずにいた本音が少女の口から零れ落ちる。
「学校にいるときっていうか、クラスにいるとき、とかはそんなこと思わないし、楽しいなって感じることも、それなりにあって。でも、朝、制服に着替えるときとか。玄関を開けるときとか。通学路を歩いてるときとか。なんか、もう、休んじゃおうかなって、なる時があって」
店主は静かに少女を見つめている。
「でも、なんでって聞かれたらよく分かんなくて。甘えてるのかなとも思って」
少女はビスケットをかじった。
「ここは、そういった方のためにある秘密の喫茶店なんです。少しだけ疲れ切ってしまった方のための。ほんの少し立ち止まりたい気分の方のための」
少女は店主に視線を向ける。その両目にはうっすらと涙の膜が張っていた。
「休み方を忘れてしまった方を勝手にご招待し、勝手に休息をサービスしております。さあ、紅茶のおかわりはいかがです?」
少女は空になったカップを差し出す。店主は紅茶を注ぎながら「二杯目はミルクティーなんて如何でしょう?」と問いかける。少女は笑ってその問いにうなずいた。
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