作曲家お嬢様の隠し部屋
アスカ
作曲家お嬢様の隠し部屋
「このわたくしに、あの汚いブタ共の品定めをしろと?」
豪華なシャンデリアの眩しいまでの光が揺れる食堂室の中、吐き捨てるように言った娘に、傍らに控えるメイドが「サタリアお嬢様……」とため息交じりに呟いた。頭痛がする、というように軽く目をつぶる。
サタリアと呼ばれた娘は流れるようなウェーブの美しい金髪と、いかにも勝気そうなコバルト・ブルーの瞳を持つ名家の女の子だった。十四という齢の割に成熟した端正な顔を嫌そうに歪め、悪寒を振り払うが如く「フン」と鼻を鳴らす。
「お口を慎みくださいませ。お嬢様の音楽は確かに世にも素晴らしいものですが、それも演奏して下さる楽団の皆様あってこそなのですよ」
コルセットで矯正され、さらに高価なドレスに身を包んだサタリアと比べると、メイドはいささか質素に見える。だがそれは決して貧相だということではなかった。
しわが刻まれ始めた顔からは思慮深さが窺えるし、衣装に汚れはなく、見る人にこざっぱりとした印象を与える、名家のメイドにふさわしい女性そのものだ。
「はッ」
かたん、とフォークを置き、サタリアは嘲る。
「家畜の目利きなど、肉屋に任せればよいのですわ」
そんな暴言を聞いたメイドは「お嬢様」と半ば諦めたように口にした。
クスリ、と笑ったサタリアは席を立ち、おいしかったわ、と少し棘を抜いた声で労う。
「ありがとうございます」
対して、メイドはどこまでも形式的な受け応えで済ませた。
「旦那様と奥様は先にお休みになっておられます」
「……でしょうね」
頷きながらサタリアはちらりと窓の外に目を移す。
とうの昔に太陽は落ち、夜の帳は深く垂れている。
家族が揃って食卓に着かない。一般的にはあまりないことだが、この家族にとってはいっそこれが当たり前だった。
もちろんそうでなかった時期もあった。だがそれは随分と昔のことで、その時のことをサタリアは既に覚えていないのではないか、とメイドは考えている。おそらくそんなことがあったということさえも。
「兄は?」
サタリアが再びメイドに振り向くと、彼女は観念したように答えた。
「先ほど御食事を済まされ、お部屋に向かわれました。今頃はお休みになられているかと」
「そう」
頷きはしたものの、サタリアはじっとメイドに目配せをしている。
「お食事は、いつも通りに」
メイドは肩をすくめて、何かを密告するように小声でそう言った。事実、内緒話ではあるのだ。――密告されるとまずい内容の。
それを知ってか知らずか、サタリアは満足そうにうなずき、軽い足取りで自分の寝室へと向かう。
その背中を見ながら、メイドは再びため息をついた。しばらく何かの幻惑を眺めるように、泣きも笑いもせず立ち竦んでいた。
サタリアが自分の寝室に向かうと、扉の前に食事が乗ったトレーが置いてあった。先ほど自分が食べたものを簡素にしたそれを、彼女は何の疑問も持たずに慣れた様子で手に取る。
これも、もはや習慣である。
サタリアは嬉しそうに瞳を輝かせながら寝室に入る。
高名な画家が絢爛という言葉をそのまま表現したかのような部屋だった。巨大すぎる部屋の埋め合わせをするように、壁一面を絵画が埋め尽くしている。そのほとんどは風景画で、肖像画は一枚もない。わずかに描かれている人間は女性ばかりで、しかもこちらに顔を向けているようなものは徹底的に、注意深く排除されている。
ほかに目を引くものは大きな天蓋付きのベッドと、なによりも風格あるピアノだ。寝室にピアノを置く令嬢など他にはいないだろう。見る人が見れば顔をしかめるかもしれない。傍らの本棚には楽譜が几帳面に並べられてある。内幾つかにはサタリアの名が書かれてあった。
彼女はそれらに目もくれず、暖炉の側面を触る。連歌に偽装したスイッチを押すと、そばの壁がガラガラと音を立てて動いた。
隠し扉に、隠し部屋。有事の際に身をひそめるように作られた部屋だ。
壁は防音仕様で、扉は勝手に閉まるようにできている。それをいいことに、彼女は全く別の用途でこの部屋を使っていた。
笑みを浮かべながらその秘密の部屋に入る。
そこには使用人が使う質素なベッドと、小さなテーブル、それらとは妙に不釣り合いな立派な湯船と便所、そして、それらとは比べ物にならないほど高価なピアノが真ん中に安置してあった。
壁紙には汚れが目立ち、床には小さなごみが所々落ちている。明らかに掃除の行き届いていない部屋に、その少女はいた。
「……」
暗い部屋でピアノの椅子に座り、不明瞭な目をサタリアに向ける黒髪の少女。あまりきれいとは言えない服を身に纏い、それでもなお、森の奥で暮らす幻の鳥のような美しさを持つ娘。
だが、月下美人というにはその姿はあまりにもアンバランスすぎた。
彼女には、右腕がなかったのだから。
「ジャス……」
恍惚とした声でサタリアは彼女の名前を呼ぶ。息が乱れ、体が震えている。
食事をテーブルに置く。これ以上手の震えを抑えることができそうになかった。
ジャスの表情は変わらない。もう弾くことのないピアノに背を向け、ただサタリアを見つめているだけ。
ここには全てがある、とサタリアは思った。
蛆虫のような連中が集まる空っぽで下らないコンサートホールにはないものが、ここにはある。
その中心がジャスだった。失われた腕が、生気のない瞳が、身もだえするほど美しい。
ハアハア、と息が荒くなる。どうしても抑えきれない。苦しさが増していく。まるで胸を刺されたかのように。
けれどそれは決して不快な苦しみではなかった。むしろその逆――喜びと快楽に満ちた苦しさだった。
意識も理性も、その他それに準じる全てのものが無価値になるのを感じる。
サタリアはらんらんと目を光らせながら、覚つかない足取りで歩み寄る。先行する気持ちに体がついていかない。はたから見ればまるで死人のような力ない歩みだった。
襲い掛からんとするサタリアを見てなお、ジャスは動こうとしない。諦めているようにも、そもそも気づいていないようにも見える。
そんな彼女の膝に座り、半ば倒れ込むようにしながら抱き着いた。それは拘束しているようでもあった。
体と体を密着させ、歓喜の声を上げる。その段階になっても、ジャスは一切の反応を見せない。何もかもを受け入れているかのように。あるいは他のことを考えているかのように。右腕をなくしたまま、左腕をだらりと下げたまま。
むしろ呻き声を出したのはサタリアの方だった。心臓は暴れまわり、体は自分のものではないかのように取り返しがつかないほど制御がきかない。
ジャスの膝に座り直し、強く抱き締め直す。
熱い舌で少し冷たい唇を舐めた。サタリアの舌が熱すぎるのか、ジャスの唇が冷たいのか、そんなことはどうでもいいことだった。
何を気にする必要があるだろう。ここには全てがあり、ジャスは全てを持っているというのに。
そう――ブタ共と違って。
二人が出会ったのはコンサートホールの中でのことだった。
その日披露するのはピアノソナタだった。演奏するのは近頃有名なピアニストだと聞いていたが、正直なところその時はまだサタリアにとってはどちらでもいいことだった。有名だろうが無名だろうが大して変わりはない。誰かの書いた楽譜を正確に奏でるだけの奴隷根性溢れた存在。
五線譜に何が掛かれていようが、どんな指示があろうが、彼らは文句ひとつなく奏でていく。
重要なのはサタリアの持つ知名度なのだ。それが欲しくて、彼らはひたすら手を伸ばし、演奏の機会をうかがっている。
――ゴミだ。
そう、サタリアは呟く。こんな場所に集まる人間は等しくゴミなのだ。
だからこそ、本番直前にピアニストと顔を合わせたとき、サタリアは呆気にとられた。
「ボクは、ジャスと申します。よろしくお願いします」
控室に現れ、そう言って細い目で笑ったのは同じ年頃の娘だったからだ。
髪を後ろに一つでまとめた彼女は、紺色のドレスのスカートを摘まんでお辞儀をしてみせる。その身のこなしから貴族ではなさそうだと見抜いた。
生まれてから何度も繰り返し、否応なしに習慣化したものではなく、最近練習して身に着けた、そんなぎこちなさが微妙に伝わってきた。
何気なく「サタリアよ」と素直に応じてしまってから、自分に驚いた。予想とは違ったとはいえ、彼女とてサタリアに媚びを売る存在に違いない。平凡な家の出であれば、地位のため余計に彼女の知名度を必要としているだろう。そんな輩に返事など。
そんなサタリアの胸裏を知っているかのように、彼女は「それでは失礼致します」と生真面目にもう一度お辞儀をして立ち去って行く。
やはり微かな庶民臭を漂わせているその後姿をじっと見つめてしまう。
「……っ」
無意識に口が開いていた。
そのことに気が付いたとき、思わず動揺してしまった。
呼び止めようとしていたからだ。
訳がわからなかった。呼び止めてどうするつもりだったのか。話したいこともないというのに。
慌てて口を閉じる。
もうすぐ開演だと、主催者が入れ替わるようにして飛び込んできた。
「……サタリア様、どうかされましたか?」
そうたずねられて、頭を振る。
「いえ、何でもございませんわ」
笑みを張り付けるようにしなければならないほど、口の中が渇いていた。
空虚なホールには客が詰め掛けていた。まるで餌に群がる獣のように。
とはいえ、ただピアノ曲を聞きに来たという客の入り方ではない。サタリアの曲だから――ということだけでもなさそうだ、と周りの囁くような話し声を最前列で聴きながら思った。
ジャス、という名前が何度も何度もいろいろな人の口から出てきた。それだけでも彼女の才能が窺い知れる。
舞台の幕が上がる。
司会者が現れ、長い口上を語る。サタリアはいつもこの前口上を聞くたびに思う。よく黙って聞いていられるものだ、と。
実のところ誰も聞いてやいないのではないかとさえ考えたこともある。
ただ、今回ばかりはサタリアも耳を傾けざるを得なかった。言うまでもなく、ジャスのことを聞きたかったからだ。
ジャスは、と司会の男は語る。
「幼い頃、家族を養うために働きに出かけなければならないような、普通と言うのも憚れるような貧民層の少女でした」
やはり、とサタリアはうなずく。社交パーティとは無縁の家に生まれた子供。
ただ、貧民層という言葉には少し胸がざわついた。なぜかはわからない。自分とは正反対だからかもしれない。
「そんな少女の生まれ持った才を、音楽の女神は見逃しませんでした。少女が売り子として働いていた居酒屋には、ピアノが置いてあったのです!」
すると、よほど大きな居酒屋だったのだろう。なぜ貧民層の娘がそんなところで働くことができたのかはわからないが、彼女の容姿からすればそこまで不思議ではないのかもしれない。細身だが決して骨ばっているというわけではない体つき。大きいとは言わないまでも並にはある胸。背丈も特別低くもなく、高すぎもしない。おまけに顔もいい。
なるほど、さぞいい稼ぎ口だったことだろう。
後は、だいたい予想できる範囲のことが起きた。彼女はある日、興味本位でピアノに触った。そして、奇跡が起きた。
才能を見初められた少女は、あっという間に売り子からピアニストに転身することになる。
最後に司会者は腕まで広げてこう叫んだ。
「紳士淑女の皆様。今宵お届けするのは女神に愛された二人の乙女による奇跡のハーモニーです!」
――下らない。
吐き気のするような口上だ。これを聞いてサルのように拍手する方もどうかしている。
噴出した拍手が収まると、一転して静寂が形作られる。
その中を、ジャスが現れた。
鳥のようだ、とその時サタリアは思った。人々の拍手を一身に受けてなおその場に立つことができる強さと、ともすればどこかへ消えてしまうのではないかと思ってしまうような不安を感じた。
不思議な感覚だった。寒いような、暑いような。そういえば、控室で会った時もそうだった。彼女を見るとなぜか自然と目が吸い寄せられてしまう。
彼女が優雅に頭を下げ、轟々と拍手が巻き起こっても、サタリアは手を叩かなかった。
かといって、いつものように下らないと思ったのではない。何も考えられなかったからだ。まるで脳の奥が麻痺してしまったかのように。
再び顔を上げたとき、目があったと思った。
あるいは気のせいだったのかもしれない。ただの自意識過剰で、本当は誰のことも大して見てなどいないのかもしれない――サタリア自身が譜面台の前に立った時、常にそうであるように。
ぎし、と音を立てながらジャスはピアノの椅子に座り、少しの間自分とピアノの距離を調整する。やがて納得がいくと鍵盤蓋を開けた。
そんな何気ない行為でさえ、どこか非現実的なものに見える。彼女の周りの空気だけ隔離されているかのようだった。
非現実的で美しい儀式だ。音楽という魔法が、これから始まるのだという予感を感じさせる、そんな儀式。
細い指が鍵盤に置かれる。息を飲んだ。
何かの始まりを、感じ取った。
滑るように指が動く。
体の動きが、ピアノ独特の音が、鍵盤を叩くこつんという雑音さえも、何かを形作っていく。
第一小節。
そこには、全てがあった。
演奏が終わり、全部のプログラムが終了しても、サタリアは呆然としていた。夢を見ているかのような気分だった。
いや、夢を見ているような、というのは正確ではない。正しく表現するなら、夢にまで見たものを見つけたときのような興奮。
何をするよりも先に、ジャスを探した。こんなことは普段絶対にやることはないが、別に間違っていないはずだ、と自分に言い聞かせた。何せ自分は彼女が弾いた曲の作曲者なのだから。
けれどなぜか会うことはできなかった。
彼女の控室に行くとトイレに行っていると言われ、トイレに向かえばいつの間にか行き違いになった。
コンサートホールを歩き回りながら、次第に焦り始めていた。背中に汗がにじみ始め、手から力が抜けるような錯覚があった。
そもそもなぜこんなふうに必死になっているのか? わからなかった。ジャスと会ってどうしたいのか、自分でもわからない。
感想を言いたいのだろうか? とても良かったですわ、と。
まさか、と強く否定する。このわたくしが?
確かに彼女の演奏は素晴らしかった。魅入られたと言ってもいい。天才と呼ばれる所以はよくわかった。でも、それだけのはずだ。
あるいは作者たる自分に一考に挨拶しに来る気配がないからだろうか?
それこそあり得ない。率直に言って、サタリアはそういうのが大嫌いだった。見え透いた媚びなど、もう見飽きている。
ならば、なぜ。
「サタリア様!」
不意に、背後から男の声がした。
思い切り顔をしかめ、足を速める。どうしてこんな時でも屑野郎というものは構わず話しかけてくるのだろう。
男の足音はまるで影のようにぴったりとついてくる。怒りで握った拳が震えてくるのがわかった。
「サタリア様、此度の曲も素晴らしく――」
我慢できない苛立ちに足を止め、振り返る。
「この意地汚いブタ野郎めが。わたくしのそばで喚かないでくださる? 耳が腐り落ちそうですわ」
悪態もここまでくれば誹謗中傷だが、この手の輩はサタリアがコンサートホールに赴くたびに必ず現れる。菓子に群がる虫のように。理解しがたいのはいくら罵っても数が減らないということだ。
人によってはなぜか嬉しそうにするのだから意味がわからない。
目を丸くした男に「御免遊ばせ」と言い捨てて立ち去る。
なんだかうまくいきませんわ、と腹立たしく首を振った。
目的は果たせず、ブタに付き纏われ。
結局、サタリアは諦めて家に帰るほかなかった。
ひょっとしたらこれでよかったのかもしれない、と馬車に揺られながらそんなことを思ったことを覚えている。
ジャスが事故で腕を無くしたのはその日の夜。
サタリアの屋敷に彼女が現れたのはそれから二週間後のことだった。
ピアノの前に座り、ポロポロと弾きながら五線譜に音符を書き込む。
シャンデリアの淡い光が暗い寝室を妖しく照らしていた。
「……」
サタリアの顔に表情はない。まるで何も見ていないかのように。
実際、何も見ていなかった。部屋中に飾られているどこぞの著名な画家が描いた風景画も、柔らかな眠りへと誘う派手なベッドも、手元や楽譜ですらも、彼女は一切の認識をしていなかった。
流れていく音に身を任せ、汲み上げて、書き起こす。サタリアはそれをごく自然に、かつ無意識に行うことができた。
いつからなのかはわからない。いつの間にかできるようになっていて、気が付いたら楽団が自分の曲を演奏するようになっていた。
そこに行きつくまでに彼女の意思が介入していた、という記憶はない。もちろんいくつかの事象は自分の手で選び取っていたのかもしれない。けれど、大きな分かれ道で左右どちらかに行くことを決めた、というような、はっきりとした手ごたえのようなものはなかった。――少なくとも、彼女が自覚している限りでは。
ともかく、世界はそれを才能と呼んだが、そんなに大それたことだとはどうしても思えなかった。
生まれたばかりの小鹿が歩き出すようなものだ。
ただ、できるだけ。それ以上の意味はない。
何かに貢献しているわけでもなく、努力だってさしてしていない。それを讃えられてもあまり嬉しいとは思えなかった。
むしろ反感が募った。うまく言葉にはできないが、褒められれば褒められるほど頭の中に罵倒の言葉ががぐるぐると回る。押しとどめる間もなく、口に出る。態度に出る。
それでも、毎日手紙は来る。
やれ『貴女の曲に魅了されました』だの『やはり貴女は天才です』だの。自分勝手な解釈をつらつらと並べたてたものもあった。
もっとひどいものもある。音楽のことなど一切触れずサタリアの容姿を褒め称えた挙句求婚を申し入れてきた手紙だ。もし父や母に見せれば無理やりにでも嫁がされていただろう。相手はそれくらい高貴な生まれの長男だった。
最初のうちは返事を書いたりもしていたが、そのうち読みもせずに届いたそばから捨てるようになった。
あまりにもどうでもいい内容。あまりにも見え透いた内懐。
奴らがサタリアに近づこうとするのは才能のためではない。名家のお嬢様と懇意になって地位を保ちたいからだ。
「……」
正直なところ、どうしてこんなことを続けているのだろう、と思わないこともない。
多分、意味なんてないのだと思う。将来的に付与される可能性もないのだろう、と心のどこかで確信している。そして過去にそれに準じるものがあったこともない。
おそらく、芸術そのものがそういうものなのだ、とサタリアは考えている。意味などない。できてしまうからやっているだけ。それ以上でも以下でもない。
それがわかっていながら、辞めるという選択肢をどうしても取れないのも事実だった。
いや、どちらかといえばその意欲は高まっている。まるで深い海の底に沈んでいくように。
今や自分から部屋から出てこなくなったサタリアをとやかく言う人はこの屋敷にはいない。
両親は注意するよりもむしろ応援して、彼女が寝室にいるときは入らないよう使用人に命令しているし、兄とは長く顔も見ていない。
特別仲が悪いわけではなく、次期当主として色々と忙しくしている彼には少し近寄りがたい空気があったからだ。
一応、例のメイドだけは口うるさく言ってくる。外に出たほうがいいとか、健康に悪いとか。でも、止めようとはしない。
コトン、とペンを置く。
紙には音符と修正案と、その他様々な理由で染め物のようなまだら模様が出来上がっている。
悪くない、と笑みを浮かべた。悪くない。
目を細めて、背もたれに背中を預け全身の力を抜く。ふと目に入った湖の絵を見ながら、無音に魂すら委ねる。
心地の良い無音だった。森の中のどこかにある、精霊が守る神聖な湖のような、美しく透き通った静けさだ。
――サタリアはいつも思っている。この世界で最も完全な音楽とは何か。それは静寂ではないかと。
豪気な金管の音も、純情な木管の音も、貞淑な弦楽器の音も、自然に表れる沈黙の時間には勝ることはないのではないかと。人が作り出したものは大体そうであるように。
少なくとも曲を作り終わった直後のサタリアにとっては何よりの癒しだった。
肉体にも、精神にも、サタリアという存在そのものに無音という水が染み渡っていき、神聖な湖と同化していく。裸になってぷっかりと浮き、木洩れ日をぼんやりと見つめる。精霊たちはどこかで、彼女を見つめている。
翌日、サタリアはやはり無音の中で目を覚ました。ネズミの足音すらしない。
忠実な使用人たちは基本的に起こしに来たりはしない。だから、窓すらない寝室にいると今が朝なのか昼なのか、それとも夜なのか全くわからなかった。
そして、それでよかった。どうせやむを得ないとき――例えば、指揮者としてコンサートホールに向かわなければならないときとか――には呼びに来る。だから、今が朝だろうが昼だろうが夜だろうが何も問題はない。ある日突然神々の戦いか何かで朝が来なくなったとしても一向に構わないし、そもそも気づかないと思う。
正直作曲するのに太陽が出ているか月が出ているかなど関係がないわけで、そういう意味でも時の刻みなんてどうでもよかった。
ただでさえそんな性質なのだが、ジャスが来てからはほぼ引きこもりになっている。
そうならざるを得ない、ということもあった。
椅子から立ち上がり、強ばった体にも完成した曲にも目をくれず、隠し扉を開く。
ジャスはベッドの上に座っていた。不思議な光を湛えた瞳をこちらに向けている。
それを見ていると、胸の奥に疼きを感じた。まるで細く長いナイフを、ゆっくり深く刺されたかのような痛みと虚無感だ。
そこを中心に、震えが体中に広がっていく。
息が震える。
呼吸ができないという意味ではない。何か、抑えきれない衝動が沸き上がり、喉が詰まってしまう。
なぜそうなるのかはわからなかった。片腕を無くしたジャスが現れてから、曲を作るたびに彼女の体に触れずにはいられなくなる。
彼女は何も言わずにサタリアの行為を受け入れた。強引に口付けをし、服を剥ぎ取って押し倒す。一連の行動全てが暴力的だった。
そんな不当な扱いを受けながらも、ジャスは細い目をサタリアに力なく向け続ける。ただ、そこに一途な乙女のような熱はなかった。どこか遠い場所を見つめているような目だった。意識がここにあるのかどうかすら怪しい。
「ジャス」
とサタリアは呼ぶ。反応はない。
それでもなお、一方的に彼女はまだ幼さを残した細い体を犯し続ける。
ジャスの悲鳴のような艶めかしい声と、サタリアの苦しそうな呻き声が隠し部屋に響いた。
ジャスが現れたとき、屋敷にはほとんどだれもいなかった。社交パーティのため兄と両親は外出しており、使用人はメイド以外理由があって別館にいた。
サタリアは一人コンサートホールで新しい曲を披露し、その代償に運座入りするほどブタ共に声をかけられてきたところだった。
学習しないゴミ共め、と顔をしかめる。楽団の人間だけではない。聞きに来る客もそうだし、やたらサタリアを指揮者に指名したがる主催者も地位のことしか考えないクズだ。
そんなことを考えながら馬車から降り、小さな正門を開く。
「……」
そこで思わず動きを止め、目を見開いた。
そばの茂みの影から、ジャスが現れたのだ。
彼女が何のために訪れたのかはたずねたことがないから今でもわからない。
ただ、満月の下、片方の腕が欠けた歪な姿は美しく感じた。妖しく――異様なまでに。
驚いたのではない。
興奮したのだ。
心は一瞬で定まった。彼女には全てがあった。サタリアの欲する全てが。
――彼女を家に連れ帰ろう。
なぜだかわからないが、彼女もそれを望んでいるような気がした。
もちろんそれは単なる渇望が招いた幻想なのかもしれない。仮にそうだとしても、どうしようもなかった。気が付いたら無事な左腕を掴み、屋敷に連れ込んでいたのだから。
ジャスは少し足をもつれさせたが、特に抵抗することなくついてくる。それで満足だった。
「おかえりなさいませ」
だから普段通りメイドが出迎えたとき、思わず顔をしかめてしまった。
想像した通り彼女はギョッとした表情で「お嬢様!」と叫ぶ。
「そ、その方は……?」
そうたずね、ジャスの失われた右腕を見て小さな悲鳴を上げた。
一瞬頭の中が真っ白になったが、すぐに思い出した。どちらが主でどちらが従者なのかを。
そうであれば、答えは一つだ。
「告げ口すればどうなるか、わかっておりますわね?」
高慢な笑みを浮かべると、メイドは怯えたように声を震わせる。
サタリアとジャス、どちらに恐怖したのかはわからなかった。
「……ですが」
おそらく彼女自身もわかっていないのだろう。常識と非常識の間で混乱している。
だが、サタリアも必死なのだ。
「あなたの処遇など、どうにでもできましてよ?」
少なくとも、両親がサタリアを手放すことはないはずだ。彼女は音楽の女神に愛された天才作曲家なのだから。
手放すとしたら、メイドの方。
ぎろりと睨みつけてやる。
メイドは不安げな表情でサタリアとジャスを見比べた。つられてジャスを振り返る。
ジャスはしばらくしてほんの少し、小さく笑った。
その笑みに、メイドは何かを感じ取ったようだった。
「……わかりました」
それからしばらく経つが、メイドは概ね言いつけを守っているようだった。それどころか、この日以降食事を作る際にジャスの分まで作ってくれるようになった。
彼女はジャスのあの笑みに何を見たのか。ある時、それについてたずねたことがある。
メイドは何かを嘆く顔になって目を伏せ、
「お嬢様には……ご友人が必要かと思いましたので」
含みのある言い方だった。
「『普通の』友達を?」
そう言ってやると、メイドは堪えるように目を閉じ、口を結んだ。
思わず笑ってしまった。
「わたくしは世間体と地位ばかり気にする名家の『お嬢様』ですわよ? お家のために嫁ぎに行くだけが役割の女にそんなものが貰えると思いまして?」
もし思っているなら、相当なお人よしだ。
「……いえ」
幸い、彼女はそこまで阿呆ではないようだった。
「それに、そんなもの必要ありませんわ。わたくしにも、わたくしの音楽にも」
ジャスさえいれば。そう心の中で付け足す。
メイドは答えなかった。ただ、哀しそうな目でため息をついただけだった。
そういえば、その日以降メイドはよくため息をつくようになった気がする。
数日後、サタリアはコンサートホールにいた。新しい曲を披露してくれと大金を積まれたのだ。
ヴァイオリンの寂しげな、あるいは名残惜しげな音色が暗いコンサートホールに響く。
遠く空の向こうへと消えていくようなその音は、しばらくの余韻を残して闇に溶けていった。
残響音の中、サタリアはタクトを下げる。
にらみつけるような目の演奏者を見返しながら、十四の娘に棒一本で操られ、言いなりになる気持ちはいかがなものだろうか、とそんなことを考える。
ちらりとピアニストに目を向ける。当然、そこにいるのはジャスではない。どこの者とも知らない男がその位置に収まっている。
まもなく、大拍手が沸き起こった。まるで突然吹き荒れる嵐のような絶賛の渦だ。
誰もが思わずといった表情で立ち上がり、目を輝かせ、中には涙まで流している者もいる。
サタリアはそんな客を優雅に振り返り、不敵そうな笑みを浮かべた。
客の中に彼女のような子供はいない。それでもサタリアは青い瞳をまっすぐに向け、圧倒されるそぶりはなかった。
むしろ割れんばかりのスタンディングオベーションを全て受け止めてみせるとでもいうように、ゆっくりと、かつ堂々と頭を下げる。
より一層強い拍手の波が来た。ひゅう、と誰かがマナーを破り口笛を吹く。
新しい曲は大成功だった。誰が見ても、疑いようもなく。
驚喜の嵐を一身に受けながら、彼女は心の中でつぶやく。
――ゴミ共め。
「サタリア様」
講演が終わった後、男に呼び止められた。
露骨に顔をしかめる。
「汚いネズミに用はありませんわ」
振り返りながら言い放つと、男はまじまじとサタリアを見つめた。少し驚いたようでもあり、言葉を吟味しているようでもあった。
一方で、サタリアのほうも困惑していた。彼はネズミのような下心がありありと手に取れる男ではなく、ウサギのように物静かで、けれど何かを隠しているようにも見える、小綺麗な礼装を身に纏う老紳士だったのだ。
しばらくして彼は、柔らかな、けれどガラスのように無感情な作り笑いを浮かべる。
「噂にお聞きした通りのお方で」
こんな反応も初めてのことだった。
「嫌味を言いに来られたのでしたら、お引き取り願いますわ」
言ってから、舌打ちをしたくなった。お引き取り願う、などという奇麗な言葉、こんな奴に使うようなものではない。
老紳士はふふ、と上品に笑った。
「……失礼いたしました。では要件を申し上げます」
品格があり、謙虚で下手。そうでありながら、ある種の威厳をかもしている。
嫌な奴だ、と思った。
その予感は当たった。
「国王殿下が内々でお会いしたいとの由にございます」
会うか合わないかの二択すら提示しなかった。
「命令、ですか」
ゆっくりとたずねる。
「はい」
対する老紳士はぬけぬけとはっきりそう答え頷いた。相変わらず身のこなしは控えめだが、有無を言わさぬしっかりとした、力強い肯定だった。
拒否の答えが返ってくるとは考えてもいない。いや、そもそもサタリアに選ぶ権利などないのだ。何せこれは王命なのだから。逆らえるわけがない。
舌を噛む。湧き出す憤激に拳が震える。だが、それを振り上げることはできなかった。
そこまで暴力的になれなかったし、自分や家族の命を賭けられるような勇気もなかった。
「サタリア女史。御身の噂は予もかねがね伝え聞いておる。音楽の女神に愛され、祝福されし娘、と」
王の威厳ある声がコンサートホールほどもある広間に響く。
次期当主である兄は行ったことがあると言っていたが、サタリアは王城など初めて来る。
わかってはいたが、サタリアの屋敷とは比べ物にならないほどの大きさに、深呼吸をしないわけにはいかなかった。
城がそうなら広間も圧倒的。
単純な広さだけではない。天井に描かれた、伝説を現した絵の風格あふれる精巧さに思わずよろめきそうになったし、そこから吊り下げられているシャンデリアすらも、大きさと豪華なデザインに息をのむ。
床に敷かれた赤いカーペットも踏んだだけでその高価さがわかった。本当に踏んでしまっていい物か一瞬ためらったくらいだ。
そして、手すりと背もたれの部分に竜が彫られた、見るからに特注品の椅子に姿勢よく座るこの国の主。壮齢でありながらその猫のような気品に目をそらしてしまいそうになる。
「もったいなき御言葉にございます」
静かに膝を折る。壁には騎士が控えていて、さりげなくサタリアを気にしている。
ふふ、とやはり猫のように王は笑った。どう捉えればいいのかわからない笑みだった。
「そう謙遜せずとも良い。サタリア女史は『勝気』だと聞いたぞ」
勝気、ねぇ。そう心の中で独り言ちる。どこまでサタリアのことを知っているのだろうか。
それに何より、このサタリア女史に王が何の用だろうか。まさか、こんな下らないことを言うためだけに呼び出したというわけでもあるまい。
そんな疑問が顔に出ていたのかもしれなかった。
「お世辞は要らぬという顔だな。……よいよい。そうでなくては」
むしろ嬉しそうな声でうなずき、咳払いで間を取り直す。この自然さも、王たる所以なのかもしれなかった。
「長話は聞き飽きていると見える。――大きな声では言えぬが、実は予もそうでな。その方が予も助かる故、単刀直入に伝えよう」
その割には前置きが長いですわね、と皮肉めいたことを口には出さずに思った。随分まどろっこしい単刀直入だ。
彼のエメラルドグリーンの瞳が光る。妙に不吉な光だった。
斬り揃えられた短いひげが生えた顎を触り、王は口を開く。
「世の倅をご存知か」
「……はい、国王陛下」
目を細める。知らなければ非国民だ。特にサタリアのような名家の令嬢となれば。
「あれの嫁になってもらいたいのだ」
「……」
答えられなかった。
見合いの誘いなら何度かあった。その度に断って来たし、音楽を言い訳に出せばそれが許されてきた。だが今回の相手は次元が違う。なんといっても国王の息子、すなわち王子なのだから。
「音楽の神の寵愛を受けた見目麗しき娘となれば、次の女王として申し分あるまい」
彼の顔をじっと見つめる。そうすることしかできなかった。
ここは王城で、王の御前で、壁際には騎士が控えている。大きなベルトに刺さる立派なさやは、飾りではないはずだ。
はい、国王陛下。仰せのままに。これ以外の言葉は許可されていないに等しい。
両親が知れば泣いて喜ぶだろう。――孝行娘だと。
目を閉じる。
浮かんだのは、なぜかジャスの顔だった。
胸を抑える。心臓が縮こまるほど早く打っていた。
唾をのんでから、喉がからからに乾いていることに気づいた。
「……はい、国王陛下。仰せのままに」
目を開きながら、答える。
とたんに王は破顔した。目に見えて姿勢が崩れ、サタリアを抱擁しようとするかのように前に乗り出す。すかさず「ですが」と声を張り上げた。
反響した自分の声に一瞬頭が混乱した。
王は驚いたような顔で、騎士はちらりと目を上げて、サタリアを注視する。
指が震える。コンサートホールで数千人を前にして幾度となくタクトを振るってきたが、こんなふうに緊張したことはない。困惑――いや、焦っていた。
拳を握る。それでも震えを隠し通せている自信はない。
「そうなれば、わたくしは二度と音楽を作ることができなくなるでしょう。音の泉は枯れ果て、この才は再び神に取り上げられてしまうでしょう」
瞼がぴくぴくと動く。
沈黙が痛い。
王の目をまっすぐ見返す。だが彼がどんな表情をしているのかよくわからなかった。
この国の主の頼みを断ったのだ。その先にあるのは壮絶な責め苦か、それとも死か。
「……予の倅では汝に不足であると?」
静かな声に慌てて口を開く。
「い……いえ、そうではありません。わ、わたくしの音楽は孤独から生じるもの故、誰かと共にいるわけにはいかないのです」
我ながら酷い言い訳だ。
何か付け加えなければと必死に頭を回すが、そう考えれば考えるほど脳が霧で覆われてしまう。
「ふむ」
そんな声が聞こえて我に返ると、王は顎髭を触りながらサタリアの言葉について考えていた。
唾を飲む。
口を堅く結び、歯を噛んだ。そうでもしなければ威圧感に屈し、自分の言葉を取り消してしまうのではないか、と思った。
怯えている。この、わたくしが。国王という地位の前に。
不意に王は笑った。
「なるほど、汝は女神の寵愛と引き換えに、孤独であり続けなければならないというのだな?」
本当にそれを信じているのかどうか、判断がつかなかった。
「は……はい、国王陛下」
思わず目をそらしてしまう。
「そうか、音楽が作れぬのは汝も辛かろう。……いや、何も言わずとも良い。そうなれば予も辛いからな。残念だ」
言葉とは裏腹に、あまり残念そうには見えなかった。最初から大して期待していなかったのかもしれない。
「それならば……ふむ」
そう頷かれたときには、多分彼の話術に嵌っていた。
「サタリア女史。予に音楽を作れ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「あ、あなたに……音楽を?」
声に出してから、どうやら自分は何の罪にも問われないらしい、と気づく。
だが、その代償は支払わなければならない。
「そうだ。嫌とは言うまい?」
言えるわけがなかった。
あるいは、本当の目的はこちらだったのかもしれない。勝気なサタリアから断らせる口実を奪うために、王子との結婚というめちゃくちゃな頼みをしたのかもしれない。ずる賢い猫のように。
ぞっと背筋が凍る。エメラルドグリーンの瞳が強大な魔力を持っているかのように妖しく光る。
「謹んで承ります……国王陛下」
権威の重みを前に、膝を折るしかなかった。
王は満足そうに笑った。
音が躍る。彼女の周りでぐるぐると回る。まるで大嵐の夜の、荒れ狂った海のように。
違う、と顔をしかめる。王への曲がこんな憤怒を込めた曲であっていいはずがない。
だがうねりを上げる海の暴走は止められない。それは彼女の意識の外で起きていた。いくら彼女がやめてくれと願っても、それで止められるようなものではない。
うるさい、うるさいと呻きながら耳を塞ぐ。だが、旋律は絶えず彼女を内側から叩き続ける。
王との謁見から数日。楽譜はまだ白紙のままだ。
当然のことながら、両親は飛び上がって喜んで、サタリアを抱きしめた。
誰が伝えたのか親戚も全員知っていて、彼らの嫉妬のせいで少し命が危うくなっている。
率直に言うと、それも苛立ちの原因だった。理由はわからない。こんなふうに抱き締められるのに慣れていないからか、命の危険に委縮しているのか、それともほかの要因があるのか。
とにかく、言葉では表現できない焦燥感に似た腹立たしさが曲となって回っている。
「……っ」
思わず紙を破り捨てた。力任せに引き裂かれた哀れな紙の残骸が力なく床に舞い落ちる。
息が荒い。ハアハアという自分の呼吸音が耳に障る。まるで下手な弦楽器のように、喉が音を立てる。
椅子を倒すようにして立ち上がり、今度はピアノを投げ飛ばそうと鷲掴みにする。もちろん、彼女にそんな力はない。ほんの少し動かすことさえもできない。ただ苛立ちが増しただけだ。
腹立ちのままにこぶしを握り、思い切り鍵盤に叩きつけた。
凄まじい不協和音が耳をつんざく。
情けないことに、それに驚いて顔をしかめてしまった。
――惨めだ。
そう思ってしまったから、動揺する。
惨めだと。このわたくしが、自分を惨めだと今考えた。
確かに自分が恵まれているとか、特別そういうことは考えたこともない。でも、惨めだとまでは。
よろめきながら暖炉へと駆け寄り、スイッチを押す。ガラガラと鈍い音を当てて壁から隠し部屋が現れる。
ジャスはベッドに腰かけて迎えるようにこちらを見つめていた。どうやら彼女はサタリアが来ることを予想していたらしかった。
熱を感じる。決して心地のいいものではなかった。むしろ今まで感じたことがないほど気分が悪くなるような熱だ。
そうでありながら、抗いがたい熱だった。努力すれば抑えられるのかもしれないが、サタリアにはできそうになかった。――あるいは、そうしたいと思えなかった。
「ジャス……ウゥ」
信じられないほど醜い呻き声が出た。
ジャスは優しげに笑う。美しい森の奥深くで暮らす幻の鳥のように。
よろめくようにして彼女を抱きしめる。そうしてから、初めて自分が泣いていることに気づいた。
苦痛に満ちた涙だ。それほどの激しい痛みが胸を裂き続けている。
気が付いたらジャスを押し倒していた。柔らかい体を全身で感じ、熱い口内を乱暴に、かつ丹念に舐め取る。熱く、激しく、体液が噴き出るまでジャスを犯す。
だが、足りない。彼女をここまで暴力的に扱って、それでもなお満足することができない。
ふいに男の顔が脳裏に浮かんだ。人を食ったような笑みを浮かべる、猫のような王の顔。
「――ッ!」
なぜ。
なぜ、なぜ、なぜ!
足でジャスを拘束して、手を首に回す。
サタリアの細くも力強い指が、無防備な頸動脈を這う。
ジャスは微笑みを緩めない。森の中を鳥が飛んでいく。猫が薄笑いを浮かべながらこちらを見つめている。
ほとんど無意識に、力を込めた。
「ゔッ……!」
ジャスの瞼が震える。口が空気を取り込もうとパクパクする。
次第に心臓の動きが強くなる。酸素を求めるジャスの悲痛な訴えを指で感じる。
だが、サタリアは手を緩めない。
ジャスの脈に合わせ、どこか遠くで音楽が跳ねる。
「あッ……あ……」
ジャスは片方しかない手でサタリアの服を何とかつかみ、引きはがそうとしている。
びくりびくりと体が痙攣を始めていた。
だが全てが弱い。あまりにも弱い。サタリアの幻覚は、その程度では全く消えない。
呻き声をあげる。ジャスではなくサタリアが苦しそうに呻く。荒い呼吸の合間から声が漏れる。
ジャスの目から涙が流れ落ちる。サタリアはその雫が自分の物のように思えた。
胸が痛い、苦しい。絶望的なまでの痛みがサタリアの喉をも締め付ける。
「ぁあああッ!」
ジャスよりも先に、サタリアが泣き叫ぶような悲鳴を上げた。
手を放し、意図が切れたかのようにうなだれる。
ゲホゲホとジャスが身もだえしながら咳をする。唐突に流れ込んできた新鮮な空気に体がついてこないらしい。体を折り曲げようとして、サタリアが重しになっているせいでうまくいかなかった。
「ふ、ふふふ……」
突然、ジャスがかすれた声で笑い始める。
不気味で、嘲るような笑い声だった。咳で唾を飛ばしながら、その隙間を縫うようにして笑う。
その狂人のような姿に恐怖してサタリアは押し黙った。こんなふうに笑う彼女は初めて見る。凡そ天才ピアニストと呼ばれた少女の笑い声とはどうしても思えなかった。
「その顔だ……その顔が、ボクは好きなんだ」
まるで呪文のように、ぼそぼそと囁き始める。
ゾク、と呼吸が止まった。
「その顔はボクにしか見せない。その苦しみはボクだけが独占できる……そうでしょう?」
やがてヒュウヒュウと喉から息を漏らしながら、細い瞳に光が宿る。見たことがないくらいに激しく、ぞっとするほど性的な光。
「か、顔……?」
呆然としたまま呟く。声が細い。どんなに頑張っても、声帯を震わせることができない。
ジャスはただ笑った。いくらか呼吸が整ってきたらしく、喘ぐような声ではなくなったが、やはり異様だ。
唾を飲む。
「今度の曲は……うまくいっていないようですね」
これ以上の喜びはないというような顔で「そうなんでしょう?」と問い詰める。
幻の鳥のように儚げだった瞳は、今やウサギを見つけた鷹のように爛々としていた。
「……ゴミですわ」
唇を震わせながら答えた。
ジャスは何も言わない。
彼女は待っている。言葉の続きを。男の心に忍び寄り、精気を吸い上げるサキュバスのように。
「わたくしは、誰の命令も聞くつもりはありませんわ。誰が何を言おうと、勝手にやらせてもらう。そう思っていましたの」
誰の言葉も聞かない。誰の期待にも応えない。心配も、優しさも、不必要。
「そのわたくしが、王の前でひざを折りましたわ。そして命令を聞いた――権力などというくだらない物のために音楽を利用するクズのために今曲を作っているのですわ。わたくしが……この、わたくしが!」
しん、と部屋中が静まり返った。
ただ音がしないというだけではなく、不自然な静けさだった。少なくともサタリアにはそう思えた。
「サタリア、貴女はやっぱり音楽そのものだ。誰の命令も聞かない。誰かが拘束することを許さず、自分のためだけに存在する」
にやにやと笑いながら、歌うようにジャスは続ける。
「でも、貴女は作るのでしょう? 権力に利用されるための音楽を」
「……」
その通りだった。
間違っていると確信しながら、その罪意識に締め付けられながら、それでも作ろうとしている。
少なくとも、辞めようとは思っていない。
ふふ、とジャスは再び声に出して笑う。
「そうしないと、貴女は本当に誰からも愛されなくなってしまうんですから。もちろん、ボクからも」
思わず顎を引いた。
「ど、どういう……?」
「だって貴女にはそれ以外何もないでしょう?」
挑発的な猫なで声に、目を見開いた。
そんなことは、と心の中で拒む。
だが口には出せなかった。
事実、サタリアから音楽を無くせば、残るのは『名家の令嬢』という肩書だけだ。
そしてサタリアはそれだけは受け入れることができない。
「どうしてかはわからないのだけれど、ボクは楽譜を見ると作曲者のことがわかるんです。考えとか、性格とか、望みとか……そういったものが」
多分、才能ですね。彼女は当たり前のようにさらりと言う。
「だからあの日、ボクは貴女の寂しさがよくわかった。どうすれば貴女を手に入れられるかも」
それはどういう意味? 声に出そうとして、できなかった。舌が張り付いてしまったかのように動かない。
サタリアの胸中を知ってか知らずか、ジャスの手が背中にまわり、強引に引き寄せられた。
片腕だというのに思いのほか力は強く、抵抗ができない。
あるいは突然目の前に迫ったジャスの顔に困惑したからかもしれなかった。
だが、本当は困惑などしている場合ではなかった。無理やり体を密着させると、今度は頭を押さえつけられたからだ。
「ん……ぐ……っ」
ジャスの舌が口の中に侵入してくる。
何を、と思ったのは束の間で、濃密な口付けの前に跡形もなく霧散してしまう。
いつの間にかジャスの手が頭から首筋へと移動している。そこから襟の中に細い指を入れて背筋を軽くなぞり、同時にサタリアの口の中に息を吹き込んだ。
体が跳ねた。びくりびくりと、深い海から陸に引っ張り出された哀れな魚のように身もだえし、ごく小さな断末魔を上げる。
ジャスの吐息がサタリアの口の中に広がる度に彼女は呻く。どろりとしたものが体の中で生まれ、何かが開いていくのを感じた。それは魂に刻まれた傷のようなものにも感じたし、もっと別の現実的な何かのようにも思えた。
ずぶずぶと体が沈んでいく。沼の底に落ちていくように。
サタリアは自分から体を押し付け、ジャスが片腕しかないということを本気で恨んだ。
今までこんなことは考えたことがないという違和感すら、即座に意識の混濁の底へと沈んでしまう。
――と、突然、ジャスが全ての行為を止める。
舌は引っ込み、指は引き抜かれ、サタリアの頬をそっと掴んで引きはがし、どちらのものとも言えない涎と涙を拭いた。
「あ……あ?」
唐突な終わりにサタリアは呆然としながら抗議の声を上げる。彼女の意思とは関係なく、物覚えの悪い犬のように体が蠢いた。
ふふ、とジャスは勝ち誇ったように笑う。
「貴女はボクを殺せない。――殺さない。貴女がボクを求めているから」
魔女の囁きのように、彼女の声が体の芯まで入り込む。
「このわたくしが……あなたを?」
漏れた声が抵抗なのか、異議申し立てのそれなのか、確認なのか、それともただの反芻に過ぎないのか。
そう、とジャスが微笑む。唇が妖しく動いた。
「だから、サタリア。貴女はボクのモノだ」
ジャスの親指が頬を撫でる。
「わたくしは、あなたのモノ……」
口にしながら、その言葉の重みを味わう。
ふう、とジャスの吐息が掛かった。ドク、と胸が動く。手が勝手にジャスを求めガタガタと震える。
だがジャスは何もしない。サタリアの望みに応じない。
むしろ突き放すように手を離す。
「あなたは音楽を作り続ける。そしてここに来る。ボクを求めに、その顔で」
まるで何かの呪文のようだが、結局はただの事実に過ぎなかった。
従順にうなずいた。
サタリアは音楽を作り続ける。
王の命に応え、家族の喜びに応え、その他様々な期待に応え、人形のように作り続ける。そしてジャスの元へ行く――苦しみをぶつけるために。
すうっと、何もかもが体から抜けて行き、この隠し部屋に取り込まれていくのが分かった。痛みとか、苦しみとか、欲望とか。
具体的な名前は付けられない、長調的でもあり、短調的でもある名称不明の何かだ。
それは、音楽だったのではないか、とサタリアは思った。
ジャスは何も言わない。
作曲家お嬢様の隠し部屋 アスカ @asuka15132467
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