水鳥麗 木村冬眞 零

第15話 夢と現実

 




【水鳥 麗 零】


 私は衝撃を受けた。

 たまたま見た殺人の公判の被告人が、まさかの統合失調症だったからだ。それも、私よりも年下のまだ人生これからという若い青年。私はそれが印象に強く焼き付いた。

 私は群馬に帰ってきて暫く経った頃、ふと、彼がどうなったのかと気がかりになった。

 今まで傍聴してきた裁判の結果がどうなったのかなど、その時の傍聴のみで結果がどうなろうと興味がなかったが、あの事件だけは私は気になったので調べることにした。


「えーと……被告人の名前は……トウマ 統合失調症 殺人……と。無罪かな……あれだけ酷い統合失調症だったんだから」


 私は、無罪が妥当だと思っていた。

 確かに人殺しが許されることではないけれど、自分が殺したと自覚もない人間を刑務所に入れても、それは『償う』とは言えない。本当に『償う』ということは、自分が妄想ではなく、きちんと罪の自覚をして、それを悔いることだ。あの様子ではそれは到底できない。

 それをすぐに発見した。判決ももう言い渡されている。


「え……」


 判決は、無期懲役。

 私の心はざわついた。求刑は死刑。弁護側は心神喪失で無罪主張……犯人の名前は『木村冬眞』……。

 どうやら一審に不服があると、被告人側も検察側も控訴しているらしい。

 私は後半のときに見た木村冬眞の姿が脳裏に焼き付いていた。

 必死に妄想症状を説明する彼。

 しかし、誰一人として解っている人はいなかっただろうあの空気。

 イジメが原因で中学からひきこもりだったということ、扉を殴ったりガラスを割ったりして暴れたこと、母親はほぼ家にいない状態で孤独を感じていたであろうことなど……。

 突然、訳も解らず私は泣いた。

 その苦しみが、私には断片的に解ったから。だからこそ、無期懲役の判決は残酷だった。まるで自分を見ている様だったからこそ、その判決が自分のことのように辛かった。

 何ができるとも、会ってどうするとも、何も考えていなかったけれど、私は会いに行こうと決めた。

 公判で見た彼は、けして悪い人間ではないと感じていたからだ。判決に反して感じるその違和感がずっと頭の中にあった。


 ――せめて、話をさせてほしい。直に話せたら、何か解るかもしれないし、何か変わるかもしれない……


 それは、刹那的な憐憫がきっかけだったのかもしれない。自分と彼を重ねた結果だったのかもしれない。それでも、その決意は私を突き動かした。

 どこに拘置されているのか血眼になって調べ上げ、ようやく居場所をつかんだ。


「ここか……」


 しかし、面会できる人間に制限があるのではないかと思い、拘置所のルールについて私は調べた。すると、一般面会は誰でも可能と記載されているのを発見する。

 もしかしたら……これなら会えるかもしれない。

 一縷の望みに全てを託し、私はすぐに会いに行く準備をし始めた。




 ◆◆◆




 拘置所を訪問するのは初めてだった。

 普通に生きていればあまり縁のないところなので当たり前と言えば当たり前だが。

 そもそも、会ってくれるかどうかすら、解らなかった。なのに、居ても立ってもいられずに拘置所へきた。まるで無謀だ。自分でもなぜ自分がそうしているのか、何が自分を突き動かしているのか、自分でも理解できなかった。しかし私はもうここにいる。

 フェンスと、重々しい窓枠と、閉鎖的な空間が広がる。

 受付で手間取りながらも、私は待合室にいたとき、何度も我に返った。


 ――何故私はこんなことをしているのだろう。解らない。私は何しにここまできたのだろう。


 そう考えると嫌な汗がとめどなく出てくる。

 私は、来るまでの間に何を話そうとか、色々考えていたけれどその緊張のせいで、何もかもを忘却する。

 心臓が止まりそうだった。


 ――本当に話せるのか? というか、話してどうするんだ、私は。


 と、自問自答が頭の中で繰り広げられる。45番の番号札を握りしめて、私は震えていた。


「45番の方、二号面会室へお入りください」


 そう呼ばれた瞬間、確実に心臓が3秒は止まった気がする。

 極度に緊張しながらも面会室に向かう。心臓が悲鳴を上げている。こんなに緊張しているのは久しぶりだ。

 私は面会室の前に立ち、覚悟を決めて足を踏み入れた。

 中に入るとまだ木村君はいなかった。狭く、間に格子つきのガラスがある。誰もいない面会室に私ひとり。心臓の音がうるさい。しかし、少しほっとした。

 ほっとしたのも束の間。扉が開いた。

 そして髪の長い青年が入ってきて、私と目が合う。

 お互い、何も言えず見つめ合う。まるでお互いに、危険なものを見つけた時に目を離せない状態かのようだった。お互いを探るように出方を伺う。

 肌は少し焼けていて、髪の毛は私よりも長く、胸のほうまで伸びていた。生気のない目をしていて、その様子を見て私は少し泣きそうになった。


「番号札を見せてください」


 緊張で頭が爆発しそうなくらいの私に、刑務官の人がそういった。私は自分の番号札を刑務官の人に見せて「いいですよ」と言われる。


「は……はじめまして」


 ぎこちないにもほどがある挨拶をした。


「はじめまして」


 これが私と木村君の初めての会話だった。

 ぎこちなくではあるが、会話を重ねるごとに彼の意外な面を見ることができた。


 ――何とかしてあげたい。


 そう強く思ったのは、木村君が私が思っていたような人間ではなかったからだ。


「やっぱりなんとかしてあげたい。何かしてほしいこと、ある?」


 自分が無罪だと主張するものだろうと思っていた。それなのに、彼は曲がりなりにも責任を感じ、罪を償おうという意思があった。

 私はその木村君姿勢が酷く痛ましく、そして木村君の優しさを感じた。その優しさは会話の端々で感じられる。


「……早くそこから出たいでしょう」

「そうですけど、罪を償わないといけないので……」


 やはり、責任を感じているのは嘘ではない様だった。

 彼は自分が無期懲役を受けることを、自分が巻き込んでしまった、いわゆる国の陰謀に巻き込まれている自分が関わったことによる巻き込みの加害者としての自覚をし、甘んじてそれを受けようという姿勢を私に見せた。

 私は動揺した。

「自分は行っていない! 自分が実刑を受けるのはおかしい! 私は騙されていたんだ!」と、彼が主張するのであれば納得もできるし、当然そう思っていると思っていた。

 しかし彼は統合失調症の妄想状態でありながら、少なからず自分が巻き込んでしまったという自責の念を持っており、彼のいう『真実』が明らかになれば自分が実刑を受けてもいいという姿勢だった。

 ここで、私と同じ違和感を覚える人はどのくらいいるのだろうか。

 傍から見たら、勿論状況証拠からして殺しているのは彼であることには相違ないし、その人間が反省しているという点に置いて何の違和感を覚えないかもしれない。

 しかし、彼は統合失調症で自分が殺したとは思っていない。

 自分が殺したとは思っていないのに、少なからず自分に非があり、それを自分が実刑を受けることによって償おうとしている。

 それが、私には他の誰よりも余りある優さに見えた。

 私の感覚がおかしいのかもしれない。しかし、彼の病理の症状を理解している私からしたら、それでもなお、そういう姿勢を彼が持っていたことは意外なことであり、驚愕であった。


 ――そうなんだ……やっぱり、裁判で見た時から感じてた違和感は正しかった……


 私はますます彼をどうしても助けてあげたいと感じた。

 私には、心の優しい彼の姿しか見えなかった。

 それが演技ではないということは私の感覚に依存するけれど、そんな器用に人を騙したり、謀ったりするようには見えない。

 それを私が木村君から何度も感じる度に、どうしようもなく胸の辺りを内側から掻き毟られた。


 ――なんでこんなことになってしまったんだろう。いったい誰を責めればいいんだろう。どうしたら良かったんだろう……


 こんなの、誰も救われない。責める相手等誰もいない。


 ――だって君はずっと苦しんでいたんでしょう……?


 幻聴や幻覚症状、妄想症状がどのくらい苦痛を与えられるのか、私は当人ではないから解らないけれど、それでもずっと彼はそれと戦って生きてきた。

 統合失調症の自殺率は、健常者の10倍だという。自殺という方法は誰にでも用意されているけれど、彼はそんな酷い世界を見ているのにもかかわらず『生きたい』と願っている。

 中学2年からずっとひきこもりだった彼が対人関係に乏しく、精神面が成長しているようには思えない。彼の時間は14歳で止まってしまっていると考えれば、そんな彼がその言葉を口にすることがとても痛ましかった。

 誰か信じている人はいるかと聞いたときに親の名も、兄弟の名も、弁護士の名も彼の口からは出てこなかった。誰も信じていないなんて。

 私もそう思って生きてきた。でもそれは、学校に行って、社会に出て、色々汚い部分を見てきたからそう思っている訳で、彼は純粋なままそう思っていると考えたら、言葉にも詰まって当然と言えば当然だ。


 ――お願いだから、彼をこれ以上苦しめないで……


 そう祈った。

 これ以上は残酷だ。勿論、人を殺したことは許されることではないし、遺族の方の気持ちを考えれば無罪は妥当ではないと感じる。

 でも、彼はそうなりたくてなった訳ではないし、彼は人を殺したくて殺した訳ではない。

 明らかに重篤な統合失調症で心神喪失状態だったと言わざるを得ない。刑法三十九条でいうなら、無罪だ。強く自分でどうしようもなく、強くそれを自覚する。

 正直、彼の行動の全てに理由をつけるのは難しい。彼が見ている光景や、考えていることは統合失調症の人間ではない私たちでは、理解の範疇を超えている。

 公判の時に「教唆に従わなければ実害を与えられる」という強迫観念が強くあれば、そのどこから来ているかも解らない強迫的な言葉に、従わざるを得ない状態だったことは私には理解できる。

 彼のいう事は極力信じたいが、別にそれは嘘をついている訳ではないということだけは解る。

 真実を語ることと、嘘をつかないことは同義ではない。逆もまた然り、真実を語らないことと、嘘をつくことは同義ではない。

 彼の中では真実が『ソレ』であるだけで、『ソレ』が私たちから見た真実とは明らかに異なっていたとしても、彼は嘘をついているわけではない。

 それが彼にとっての真実で、その中に自分を置いてしまっているだけだ。

 それをどうして咎められるだろうか?




 ◆◆◆




 3回目の面会。

 木村君が入ってきて私と目が合う。また会えて良かったという思いと、拘置されている事実に憂いを感じる。

 私が手を振ると、木村君は会釈してくれた。


「こんにちは」


 前と同じように挨拶してくれる。


「久しぶり」


 相変わらず精気のない目と、ボサボサの、分け目が滅茶苦茶な長い黒髪。眼鏡はかけていなかった。二重の整った顔立ち。


 ――あぁ、こんな顔してたんだっけな……


 私は考えを巡らせていた。


「群馬からですか?」

「うん」

「大丈夫なんですか? ご足労いただいて……」


 ご足労いただいてなんていわれると思わなかったから、私は再度面食らった。


「うん、大丈夫だよ。…………木村君の弁護士さんに連絡したんだけど、全然取り合ってくれなかった。ごめん」


 その謝罪にしたいして、彼の答えは意外なものだった。


「自分にはできないことなので、そうやって色々してくれて助かっています。ありがとうございます」


 木村君が些細なことで感謝の言葉を語ってくれる度に、私は本当にどうしてこの子はそっち側にいるんだろうと思った。

 正直、色々話したいことがあったにも関わらず、私は結局最後の方は何の話をしていいか解らずにかなりたどたどしく口ごもってしまう。結果として木村君に気を遣わせて話させてしまう。

 年上なのに情けない。


「ごめんね、木村君に気を遣わせて話させちゃって……口下手だから」


 私が苦笑いして謝罪すると、木村君も苦笑い気味で言葉を返してくる。


「それは私の方もですから」


 こんな普通の会話ができることが、私は嬉しかった。

 その日もアラームが鳴って面会終了の合図があると、あまり話せなかった後悔が募る。


「また明日も来るよ」


 私は彼を見送ろうと立ち上がった。彼も立ち上がる。そのまま出て行くのかと私は待っていた。そうしていたら木村君がふり返り、胸に手を当ててこう言った。


「本当に話すだけでも、話す人いないんで心の支えになってます。ありがとうございます」


 この言葉が、私の人生の転機だった。

 あまりの意外な言葉に私は絶句してしまった。私が驚いているのを気づいていない様子で、木村君は軽く会釈して重々しい扉から出て行った。

 生まれて初めての感覚に陥った。

 私なんかを心の支えだなんて。結局は話すしかできない私に対して、話すだけでもだなんて微塵にも言うと思わなかった。

 私は木村君のその言葉で、自分の今まで感じていた闇が昇華されたような気がした。

 しかし、それと同時に動揺し、混迷し、苦しみ、悲しんだ。

 そう言ってくれた木村君は、今も苦しみ続けているのだから。

 今まで死なずに生きてきて良かったかも知れないと、生まれて初めて思えた瞬間だった。

 何度も、毎日毎日自殺念慮と闘う地獄の日々。

 大切な人を救えなかった自分の罪に過剰な罰の意識。

 たった一人、孤独に戦っている君の支えになれているなら、私はそれがどれだけ嬉しかったか解らない。

 たった数十分しか話していないのに、私は確かにそこに絆を感じた。

 私と木村君は似ている。

 私は統合失調症ではないけれど、それでも理解を示して少しでも寄り添うことができるなら、私しかできないのなら、私はそうするべきだと感じた。

 例えその妄想で私が殺されようとも。




 ◆◆◆




 何度も逢瀬おうせを重ねた。その度に私は木村君のことを知っていく。

 私はいつも木村君に手を振る。しかし木村君は会釈はしてくれるけれど、手を振り返してくれることはなかった。しかし、何度も会っているうちに初めて手を振り返してくれた。そんなことさえ私は嬉しく思っていた。

 その日、私はいつも通り手を振った。その手にいつも会釈してくれる木村君が、この日初めてぎこちなく手を振り返してくれた。

 まるで、手を振ったことがないくらいのぎこちなさだったけれど、それでも初めて手を振り返してくれた。そしていつも通り、彼の後ろ姿を見送る。

 なんて心が痛むのだろう。




 ◆◆◆




 少し間が開いてしまったあとの面会。

 2週間程度の間。この2週間、日本各地で地震が続いた。群馬でも震度5弱を記録し、一時騒然とした。私もその時に左腕を落ちてきた部品で負傷してしまったほどだった。

 そんなことよりも、群馬の地震からその次の日に、大きな地震が近畿地方であった。震度6弱。水道管が破断したり、地割れが起きたり、転倒や落下物で死者が出たりした。

 私は木村君が心配で仕方がなかった。拘置所の中で怪我をしていたらどうしようとか。

 まさか、法のお膝元で安全はどこよりも保証されていると思うけれど、それでも私は心配だった。そんな気持ちのまま私は面会に足を運ぶ。左腕には自傷行為の傷を隠すための包帯を巻いていた。

 面会室に入って私がそわそわしていると、いつも通り木村君は入ってきた。その変わらない姿に私は心底安心した。私が手を振ると


「おはようございます」


 木村君は爽やかな声で挨拶し、やはりぎこちなく手を振り返してくれた。


「おはよう」


 刑務官に番号札を見せて、面会が始まる。私が話し始める前に


「その腕……」


 木村君は私の包帯を巻いてある左腕を見て、自分の左腕を掴みながら聞いてきた。


「あぁ、これ……ちょっと怪我しちゃって」

「大丈夫なんですか?」

「うん、大丈夫。大したことないから」


 不安げに訪ねてくる木村君は、やはり優しい子だと私は再確認した。殺人犯になんて到底見えないし感じない。彼の様子を見ていると、その犯した罪の重さも、言い渡されている懲役刑の長さも、何もかもを忘れてしまう。


「こっち地震あったでしょう?」

「はい、群馬でも地震ありましたよね?」


 私はドキッとした。

 こっちの方が余程大きい地震だったし、群馬の地震なんて全然大したことなかったのに、それでも私が群馬から来ているってことを覚えていてくれて、そんな小さなニュースを覚えていてくれたと思うと、私はそんなことすら嬉しく感じた。


「京都地震の前日にあったよ」

「そっちは大丈夫だったんですか? こっちの報道ばかりでしたけど……群馬もあったと聞いたので……」

「震度5弱だったけど、大丈夫だったよ」


 私が笑うと、木村君も少し安心したような顔をしてくれた。

 淡々としてはいるけれど、でも少しでも私のことを気にしてくれているのだと思うと、素直に嬉しかった。「信じられる人はいない」って言っていたのに。重症の統合失調症なのに。私のことを正しく認知してくれているなんて。

 色々話をしていて、あっという間に三十分を告げるアラームが鳴る。いつもの名残惜しさが残る。

 木村君は刑務官に急かされるように立ち上がって、去り際に


「腕のお怪我、お大事に」


 と、言ってくれた。

 それに、初めて木村君からぎこちなく手を振ってくれた。その姿が焼き付いて、離れなかった。会うたびに、


 ――どうして……


 という気持ちが募る。私は喪失感に苛まれながら歩いていると、涙が溢れてきた。


 ――どうして……そんな些細な事、憶えていてくれているのに事件のことは覚えていないの……


 泣きながら晴天の中私は顔を隠すように日傘をさして歩いた。

 今すぐ、君をそこから攫ってしまいたい。




 ◆◆◆




 次の面会の日。

 いつも通りの木村君。もう大分打ち解けてきて、普通に話しをするまでになっていた。彼は開口一番に


「腕はもう大丈夫なんですか?」


 と怪我のことを気遣ってくれた。

 知らない彼を知るたびに、私の心は酷く掻き毟られた。

 聡明な話し方をして、法律のこと詳しくて、若干22歳でそんなに法律の本読まないでしょうと、私が彼に歳を聞いたとき、彼はもう23歳になっていた。

 木村君とどうでもいいような話をして笑い合うこともあった。

 拘置所にいるのに、こんな状況なのに笑える話ができたことが嬉しかったし、やっと笑ってくれた木村君の笑顔が私には辛かった。


 ――だって、君はずっと独りで苦しんでいたんでしょう。笑うことなんてなかったんでしょう……


 そう考えると、辛さがまるで豪雪かのように募る。重みで潰れてしまいそうなほど。




 ◆◆◆




 それでも私は何もできなかった。

 何度も何度も逢瀬を重ねる度に、深く深く君を愛していく。

 何度も私は泣いた。

 本当は残虐な性格なんかじゃない。こんなにも優しい子なのに、病のせいで人を殺してしまった。

 あるとき、私は彼に約束を持ちかけた。絶対に何があっても君を裏切ったりしないという誓い。


「ねぇ、指切りしようか」


 私は象牙のように白い左手の小指を、木村君に向けて立て差し出す。彼は動揺を見せたけれど、おずおずと私に向けて自分も左手の小指を私の前に差し出してきた。

 しかし一向に双方の小指は絡ませられない。当然だ。間に二重のアクリル板があって触れ合うことはできないのだから。


「指切りって、なんで『指切り』って言うか知ってる?」


 木村君は無言で首を横に振る。


「指切りっていうのは、昔の遊女……遊女って何かわかる?」


 私の質問に木村君は小さく首を縦に振った。胸の方まで伸びた長い髪がそれに合わせ、かすかに揺れているのを私は見ていた。


「所謂……江戸時代かなんかに、男の人の夜の相手をしていた人たちのことだよね。その遊女が、真剣に一人のお客さんと心中立てっていう……なんていうのかな、あなたを裏切りませんっていう誓いを立てる為に、実際に小指の第一関節から先を切り落として、その真剣さを示す為にしていたのが転じて、約束するっていう意味合いで現代で使われているんだよ。遊女は色んな男の人と関係を持っていたから、そこまでしないと信じてもらえなかったんだね」


 私が物騒な話をにこやかに話すと、木村君はそれを黙って聞いている。

 彼は私の左手の小指の第一関節の辺りを無言で見つめた。二重の花のかんばせ。長い睫毛が瞬きで震える。


「だから、昔のしきたりに従って、本当の『指切り』をしよう。って言っても、流石に第一関節を切り落とすのは嫌だから、これで我慢して」


 ポケットの中から小さなカッターナイフを取り出し、私は素早く小指の第一関節の部分を傷つけた。鋭い痛みが走り、私は顔が少しひきつっただろう。


「いっ……」


 木村君は私を動揺したような顔で見ていた。というよりも、実際に明らかに動揺しているようだった。


 ――あぁ、やっぱり君は優しい子だ。


 私は痛感する。

 まだ血は溢れ出していない。私は自分の小指の傷の状態を確認した。思ったよりも深く傷がついていた。少し見ていると、だらりと血液が溢れてきた。そしてそれを木村君に見せる。


「君は、誰のことも信じられないだろうけど……私は君を裏切らない。その誓いの証がこれだよ」

「止血しないと……血が……」


 相変わらず、この子は私の言っている主旨がきちんと伝わっているのだろうかと心配になってくる。

 いや、こんな狂気の沙汰をしている、自分の頭の心配をしないといけないのかもしれないけれど。

 そうこうしている間に、離れなければいけない時間がやってくる。

 私が目の前の木村君に想いを馳せていると、小指から垂れる血が服に染みこんでいく。思ったよりも深く、放っておいてもしばらく血が止まる気配がない。


「また時間できたら来るから」

「はい、ありがとうございます……傷……止血してください……服が……」


 歯切れの悪い言葉が返ってくる。


「『指切り』したからね。約束だよ」


 私は後ろ髪引かれる思いで、私の方を振り返って手を振る木村君に、優しく笑って手を振り返した。

 そのとき、私にはうっすらと何か、得体のしれないものが見えた。まるで、白い蛇が彼の身体に巻き付いているような。それもかなり大きい蛇だ。

 私はそれを凝視すると、蛇は私の方を見て、そして消えた。




 ◆◆◆




 その日、あり得ないことが起きた。

 家に帰った私は、後ろで何か動く気配を感じ、振り返るとあのときみた白い大蛇がいた。しかし不思議と恐怖感はなく、私はその白蛇を見つめた。


「私を見て驚かないとは、珍しい娘だ」


 低い声が聞こえる。頭に直接響いてくるような。


「あなた……木村君の身体に憑いていた……」

「理解が早いな。そうだ。しかし、今はお前の元にいる」

「何の御用ですか?」

「用などはない。お前が私を引き寄せたのだ」


 言っている意味が解らなかった。


「引き寄せたって……私は何かしましたか?」

「『指切り』をしただろう。『指切り』とは、我々との契約の儀なのだ」


 自分の深々と切った小指を見つめる。絆創膏が真っ赤に染まり、酸化して茶色くなっている。


「……そこまでは解った。木村君はあなたと契約していたの?」

「契約はしていない。一方的に我々に魅入られていただけだ。むしろ、契約ができる者のほうが珍しいのだ」


 私は訝しい顔をして、その蛇との会話を続ける。


「お前は私と契約する器がある。大抵の者は私と対等には話せず、気がふれてしまう」


 即座に木村君の精神状態のことを考えた。もしかして、コイツのせいで木村君はあんなことになってしまっているのであろうか。


「木村君が統合失調症になってしまったのは、あなたのせいってこと?」

「必ずしもそうだとは言えない。あの男の精神は元々脆弱であった。それが私に憑かれる原因となったのだから」


 ――何をぬけぬけと……


 と思うと私は苛立った。しかし、責めたところで何が解決するとも思えない状況だ。


「あなたが私に移り変えたことによって、彼の統合失調症は治る?」

「それはない。一度壊れた精神は、自然には治らないだろう」

「なんてことを……」

「そんなにあの男が大切か? 何も持たない男だ。友人も、家族も、何もかもを失った。何度も逢瀬を重ねているのを私は見ていた。お前も『こちら』の界隈なのだろう?」


 私は苛立ちが増幅してくる。

 彼からそれらを奪った原因を作ったのは、この白蛇だという可能性があるということなのに。全く悪びれる様子もない。


「……それで、契約することに、あなたと私にどんなメリットがあるのか教えて」

「私は記憶と時間を司る者。お前が代償を支払い望むなら、過去に戻りやり直すことも可能だ。記憶を変えることもな」


 にわかには信じがたいが、蛇が流暢に話していること自体がもう現実がどうとか、細かいことを言っても仕方がないことだ。


「……代償は?」

「お前の血液か命だ」


 なんだ、そんなものでいいのかと私は思った。


「お前は今までの瀉血で大量に血を流している。それもすべていただこう。どうだ? お前にとっては悪い話でもなかろう」


 私は戻りたい過去なんてなかった。しいて言うなら、木村君があぁなってしまう前に戻れば、木村君を助けられるかもしれないと思った。


「いくつか質問がある。木村君にいつ憑いたのか、そして今は私に憑いているあなたが、木村君の過去にいないことになれば、過去に戻っただけでも木村君は救われるのか、答えて」


 もしそうなら、私は過去に戻って木村君を助けたい。


「あの男に憑いたのはあの男が十八になる少し前だ」


 統合失調症で入院していた時期と重なる。おそらく嘘ではないだろう。


「私が及ぼした影響の過去は変わらない。結果だけが残る。結末は同じだ。お前が変えることができれば別だがな」


 私はまだ可能性の話を考える。

 まだ、無罪になる可能性も、治療ができる可能性もある。今すぐに戻ったとしても、それが成功するか解らない。


「ひとつ提案なんだけど、私が今まで通り瀉血であなたに血を与え続ければ、今すぐに契約の効力を使わなくてもいい?」

「ほう……構わない。ただ、私を傍に置いてお前の精神が壊れない保証などないのだぞ?」

「私はもう十分壊れているから、ご心配なく」


 そうして私は白蛇を傍に置くことにした。

 白蛇は私の身体にまとわりついてどこにでも憑いてきた。重みは感じない上に、誰にも見えない。

 私は独りでいるとき、度々白蛇と話した。たわいもない話だ。私は壊れることはなかった。すでに壊れているものは、これ以上おかしくなったりはしないようだ。




 ◆◆◆




 私はその後も、何度も何度も木村君の元へ足を運んだ。

 白蛇が落ちたと言っても、やはり言っていた通り統合失調症は治る気配を見せない。

 季節は容赦なく過ぎていき、控訴審は一審を採用し無期懲役を採用。酷く落胆した。木村君の症状も、裁判が進むにつれて悪化していく。

 そして控訴審のその判決にて、事故が起きてしまった。

 裁判の際に木村君が暴れるという事態がおきた。頭に完全に血が上っている木村君は刑務官に押さえられたのを振り払い、被害者側の人間を殴ってしまった。

 裁判官の前で。


「こいつも加害者やって言うてるやろ!?」


 と妄想をまくし立てながら。

 最悪の結果になってしまった。傍聴席にいた私に、木村君はこの裁判の不当性を訴え、口添えすることを求めてきた。しかし、傍聴人が声を出すことなど許されない。

 私が木村君の名前を呼ぶと、すぐさま私は牽制された。それ以上口を出すことは許されなかった。

 この事件が災いしたのか、彼は最高裁で死刑を言い渡されることになる。

 木村君が死刑を言い渡され、私は絶望した。

 死刑囚とは親族以外面会できない。

 結婚をすればという問題の解決方法は、全く妥当ではない。そもそも彼にはそんなことする気力が残っていない。

 私は木村君と手紙のやり取りも、面会することもなにもできなくなった。

 完全に私と木村君の世界は別たれたのだ。




 ◆◆◆




 私は泣きながら白蛇に言う。


「私を過去に戻して……木村君を助けたい…………こんな最期を迎えるなんて……絶対にありえない。木村君に幸せになってほしい……私のことはどうなってもいいから……」


 君を受け入れられない世界なら、私ももういいよ。私を受け入れてくれた君が否定されるなら、もう私も否定されているのと変わらない。


「ならば、その契約の儀を成就させよう」


 白蛇は私の耳元で、契約の条件を話し始めた。


「ひとつ、けして自分の名や身の上を名乗ってはならない。

 ふたつ、『自分』に会いに行ってはならない、知らせてはならない。

 みっつ、金は血液と交換となる。血液の単価は100ml、一万円とする。品物の指定があればそれを与える分の血液をいただく。この場合は二割増しの血液をもらう。

 よっつ、時空を超える方法は、強く念じることにて成せる。

 いつつ、別次元で殺されたときは、次の分岐点とする。

 むっつ、時空移動をし、そこに滞在できる時間は二十四時間を上限とする。

 ななつ、誓約を破ればお前は絶命し、地獄の苦しみを味わう輪廻に閉じ込められるだろう。

 やっつ、お前が今まで支払った血液量から、時空を超えることができる回数は三回までとする。それでもやるか?」


 私は考えを巡らせた。


「いざとなると少し、躊躇いもある……でもやるよ。木村君が少しでも救われるなら。私はどうなったって構わない」

「いいだろう。せいぜいあがくが良い。狂気の愛を見せろ……」


 私の視界はおどろおどろしく歪んだ。




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