第9話 浮気の証拠と裁判所




【木村 冬眞 九】


 どうしても美那子の肩の痣のことが気になって眠れなかった。

 明日……というよりも、もう日付が変わって今日になって、結婚式当日を迎えてしまっているのに。


 ――大丈夫……大丈夫だ……僕の勘違い……


 そう何度も何度も思い込もうとしたけれど、どうしても僕はを振り払えずにいた。

 僕は寝静まっている美那子の部屋へこっそりと忍び込もうと思った。

 心臓がばくばくいっている。もう、口から飛び出してきてしまいそうだった。


 ――木村君……私は答えられないことも多いけれど、知らないことの方がいいことも世の中たくさんあるんだよ


 自分の部屋のドアに手をかけたとき、声が聞こえてきた気がした。

 記憶が次々と蘇ってくる。冷めた声。悲しげな声。諦めの混じった吐息を吐く音さえも聞こえてくるようだった。

 僕は頭を左右に振ってその記憶を振り払う。


 知らないまま、騙され続けるなんて僕は嫌だ。


 自分の部屋の扉をゆっくりと開け、美那子の部屋へゆっくりと忍び込む。


 ――嫌だ、木村君、嫌! 『今まで』だなんて……言わないでよ……!

 ――木村君……どうして……っ……。

 ――このまま……二人で逃げちゃおうか……。


 声をあげて叫びながら泣く、ひすみさんの姿。

 頭が痛くなる。

 おかしくなりそうだ。


 これはいつの記憶なんだ。

 あなたは一体誰なんだ。


 それを振り払い、そっと、美那子の携帯を持ち部屋から出る。こんなことしたくない。本当は信じていたいのに。

 そしてうるさいくらい心臓が鳴る中、僕はその中身を見た。ロックはかかっていない。すぐにメッセージアプリを開く。


「………………」


 そこには男と思われる人物との仲睦まじいメッセージのやり取り。

 それは僕に吐き気を催させるものだった。

 僕は知った。美那子が浮気していること。肩の痣はぶつけた痣ではなく、キスマークだということを確信した。


 でも不思議とそれは悲しくはなかった。

 むしろホッとしている自分がいることに気づく。


 結婚というものの荷が肩から降りたからだろうか。

 ただ、ここのところずっと何か違和感を覚えていた。それは……結局だったのだろうか。それとも別の何かだったのだろうか。


 ――違う……僕がずっと感じている違和感は、ひすみさんのことだ……


 僕は自分の部屋に行き、紙にペンを走らせた。書いた紙を携帯と一緒に美那子の部屋に戻り、置く。


『やっぱり、僕の大切な人は君じゃなかったのかもしれない。さよなら』


 と。

 僕はできるだけ物音を立てずに静かに荷造りし、群馬県に行く準備を整えた。

 ひすみさんの家を訪ねよう。そうすればきっと何か解るはずだ。

 時間は真夜中の3時半。凄く嫌な感じがする。

 落ち着こうと息を吸うたびに、僕は喉が焼けるように息苦しかった。




 ◆◆◆




【水鳥 麗 九】


 気づけば私は23歳。

 私は東京にて友人との待ち合わせをしていた。だが、待ち合わせの時間になっても友人は現れない。


「もう、待たせないでよ……時間にルーズだなぁ……」


 携帯を開くと「ごめん、寝坊した。1時間くらい遅れるごめm」と、慌てているのか文字が途中のままのメッセージが送られてきた。


 ――1時間て。私にここで何をしていろと言うんだ……


 辺りを見回しても、遊べるようなところは存在しない。私が困っていると、前方に何かお堅い建物が見えた。図書館だろうかと私は近くに歩いていく。

 近づくとそこは図書館ではなく、裁判所だった。


 ――そういえば裁判の傍聴って無料でできるんだったよな……お金もないし……


 そう考えた私は裁判所に入っていった。

 そこはまるで別の世界のようだった。仰々しい建物に、キャリーケースを引いたスーツの人が何人も出入りしている。


「カッターナイフ、パソコンなどは入っていませんか?」

「はい……」


 入口で持ち物をX線検査をするらしい。

 私は物々しい雰囲気が漂っているその場の空気を吸うと、自分自身も別の世界に迷い込んでしまったような気がした。


 ――こんなところに、私みたいなのが来てもいいのかな……


 呆気に取られていると、スーツを着ていない人々が集まっている場所を見つけた。中央エントランスにて電子パネルで傍聴の予定が確認できるようだった。

 画期的だなと思いながら、私はそれを見ていた。

 民事事件よりも、刑事事件の方が大々的に掲示されている。刑事事件の方が初めは解りやすいのかもしれない。

 その日に行っていた公判で【監禁・暴行事件】というものに目を引かれる。


 ――よし、一先ずこれにしよう


 私はその事件の公判が開かれている法廷へと向かった。廊下は広く、閉鎖的な感じを受ける。

 入ったことのないその裁判所という場所にいるには、私の服装は場違いに感じた。こんなことになるならスーツで来た方が良かっただろうかと考えた。

 しかし、定年退職をしたような老人が何人もいる。制服学生の姿も何人か見受けられた。


 ――いろんな人がいるんだな……


 裁判所の中は撮影禁止だ。廊下を歩いていても重々しい空気が漂っている。目的の裁判をしている法廷の前にくると、注意喚起がしてあった。

 法廷は携帯電話の電源を切らないといけないらしい。

 私が法廷へ入ると、既に公判は始まっていた。中央中心に裁判官が座り、左側にスーツを着ている人たち数人が座っていて、傍聴人と彼らは低い木の柵で隔てられていた。

 その中央に一人と、そしてその周りの椅子に三人座っている。


 ――誰が誰か、解らないな……


 原告人尋問だ。暴行を受けた被害者の尋問。

 それなりに傍聴人がいた。一番端の椅子に座り、その様子を眺めた。初めて入った法廷に私は緊張する。

 検察官が被害者に色々と質問をしている。どういう状況でどういう心境だったのかなどを細かく聞き出しているようだ。


「あなたは車の中にいたときに、Dさんに肩を掴まれていたのですか?」

「はい」

「どちらの肩を、Dさんのどちらの手で掴まれていましたか?」


 ――そんなこと、聞くんだ。やっぱりなんか堅いな……裁判って……


 同じような質問が続き私は退屈に思い始めてきた。

 眠気すら感じていたその矢先、監禁されていたときのことへと質問が移行する。


「地下に入れられ、ロープで両腕を縛られていたわけですね?」

「はい」

「あなたは地下に監禁され、オムツを履くように指示されたのですか?」

「はい」


 ――そうだよね。監禁だとお手洗いとか行けないよね……にしても、何歳なのか解らないけど、拘束されてオムツを履かされたことをこの場で話をさせられるなんて……恥ずかしいだろうな


 そんなことされて、原告人はどんな気持ちか聞いてみたいものだ。

 そう思った瞬間


「そのときあなたはどんな気持ちでしたか?」


 検察官がその質問をしたとき、私はこらえきれず笑ってしまった。

 幸い声は出なかったので視線を集めることはなかったが、隣に座っている女性は、私が震えながら笑っているのをずっと見ていた。

 私の髪の毛の隙間から、かすかに見えるその隣の女性の殺意を私は感じる。関係者だろうか。

 しかし、笑いを堪えることはできない。

 その後しばらく腹を抱えて震えながら笑っていた。


 真剣な表情で、検察官、弁護士、裁判官がそれを聞いていた。

 どうにも裁判初心者には理解できないような質問をしている様子が妙に面白かった。

 その後の尋問で、被害者の尋問なのであるから当然被害者が可哀想だという先入観を持って聞いていたのだが、どうにも被害者がどうしようもないクズで、その行いの末に暴行されて監禁されていたということが質問の内容でわかった。


 ――登場人物みんな酷いな……


 公判はしばらく被害者に質問したあと終わった。

 法廷から出て携帯を見るとまだ友達から連絡が来ていない。


 ――もう少し聞いていくか……


 二件目は大麻取締法違反。

 まだ法廷に入ったときは裁判は始まっていなかった。

 座って少しすると裁判官らしき人が入ってきた。それと同時に傍聴人が立ち上がる。私も一瞬遅れて立ち上がった。

 裁判官が礼をすると傍聴人も礼をした。私も周りに合わせて礼をする。

 着席してから私は被告人を見ていた。被告人が証言台に座らされ、検察官らしき人にキツイ口調で尋問される様子を傍聴した。


「これは貴女の所有していた大麻で間違いないですね?」

「はい」

「これはもういらないですね?」

「はい……」


「これはもういらないですね」に不意打ちをつかれ、また私は声を殺して笑ってしまう。


 ――そこで「僕の大麻なので後で返してください」とか言う人いないだろ


 そう考えると面白くて笑いが堪えられない。

 妙に真面目な顔をして、妙なことを聞くと思った。これが普通なのかもしれないが、私にはどうにもくだらないように思った。

 その裁判が終わって時間にして丁度一時間程度。私は裁判所を後にした。


 ――また裁判の傍聴に行ってもいいな。面白かった


 私が若干笑いながら裁判所からでると声をかけられた。

 友達の声ではない。

 この声の主は……振り返るまでもない。ラファエルだろう。


「こんにちは」

「うん、こんにちは」


 笑いながらそう返事する。


「どうされたんですか? なんだか楽しそうですが……」

「あぁ、裁判の傍聴初めて行ったんですけど、面白かったの」

「………………」


 ラファエルはそれを聞いて暗い顔をした。なんでそんな顔をするんだろう? しかし私は機嫌が良かったので何も気にしなかったし、なにも言わなかった。


「今日はどんなご用で?」

「えっと……、この後行ってほしいところがあるんです」

「え? このあと友達と遊ぶんだけど……」

「はい、ご友人と行ってほしいところがあるんです」

「…………マルチ商法とか、宗教とかなら間に合ってますけど……」

「違いますよ」


 ラファエルはぎこちなく笑う。


「知っていましたか? 今、毒の生き物展をしているんですよ」

「え、なにそれ面白そう!」


 私が興味津々に聞いたのを見たラファエルは微笑んだ。

 たまに本当にこの人、天使とかの類なのではないかとすら感じる。笑った表情が妙に優しさに溢れていた。


「毒の生き物展って、どこでやってるの?」

「池袋のビルの中の水族館でしてますよ」

「時間は何時から?」

「時間は……詳しいことは解りませんが……9時からとかではないですか?」


 私が熱心に場所と開店時間を聞いていると、目の前にいる彼と共に行ったらいいのではないかと考える。


 ――友達と一緒に3人で行けたら楽しそうだな。歳も同じくらいだし……


 そういえばラファエルの年齢が23歳だったことを思い出した。

 あれから結構な時間が経っているにも関わらず、やはり見た目は変わらないまま。


「そういえば、歳はいくつでしたっけ?」

「23歳です」


 普通に彼は答える。


「もう私、23だよ? 同い年なんだよね? なんで歳が追い付くって不思議な現象が起こっているのか全然理解できないけど……」

「まぁ……そうですね。私23歳なんで……」


 それは普通に白状してくる。

 歳を追い越すなんて、絶対にありえないのに。

 ここにありえてしまっている。


「年齢詐称してる?」

「してないですよ」


 ラファエルは笑っていた。昔から何も変わらないその顔、容姿。

 もう、年齢なんて、不思議な出来事の連続も、そんなの大した問題じゃない気がしてくる。


「ねぇ、一緒に行かない?」

「え……」

「友達と私とあなたで、行こう」

「………………」


 何度も瞬きをした後、彼はやはり考え込むように視線を逸らした。

 何を考えているのか解らないが、やけに深刻そうな顔をして俯いている。

 なんだか物凄く悲しそうな表情だ。


「行きたいんですけど……いけません」

「えー……どうして?」


 私のその質問に彼は困ったのか、何度も瞬きをして無言で困った表情をしながらこちらを見つめ返してくる。


 ――なんか……間の開け方というか……独特だなぁ……


「……私はもう行きますので……」

「…………」


 いつも通り、ラファエルはいそいそと去ろうとする。

 それがどうしてなのかということも、答えたくないようだ。

 いつもいつも、疑問が残る。小さい頃からの疑問にいつか決着がつくのだろうか。

 いや、そうじゃない。もしかしたらこれが最後で二度と会えないかもしれない。永遠にたどり着かない疑問を抱き続けなければならないのかもしれない。

 そう思うと、私は彼を引き留めずにはいられなかった。


「……ねぇ、じゃあひとつだけ聞いてもいい?」

「答えられることなら……」


 彼はまっすぐな瞳でこちらを向く。

 私とラファエルでの間でまるで時間が止まったような気がした。風に吹かれて長い髪が揺れている。少し鬱陶しそうに彼は髪の毛を掻き上げる。


「また、会いに来てくれる……?」

「ええ、また来ます」


 あっさりとした返事に、私は安堵した。


「次は、いつくるの? アポイントくらいとってほしいんだけど……」

「…………次は、まだわかりません」

「そう…………」


 私は次が解らないという言葉に表情を曇らせる。

 大人になった私は知っていた。

 いつも突然現れて私を助けてくれていたこと。

 では、彼の助言に従わなかったらどうなるのだろうか。


「もし……あなたの言ったことを無視したら、私……どうなるの?」

「…………………………」


 私の間を見ていた目は、遠くを見つめた。

 沈黙が長い。困っているのは解る。おそらく答えられないのだろう。


「……まぁ、その……えっと…………」

「あ、ごめんごめん。いいよ。困らせてごめんね」


 私は彼の困った顔を見て、慌てて手を振って誤魔化した。

 困らせたいわけじゃない。

 彼が困っている顔は見たくなかった。


「私……あなたが困っている顔するの、なんだか嫌なの。答えられないなら、無理に答えなくてもいいから……また、会いに来て。今度は少し暗い時間作ってよ。食事くらい一緒に行こう」


 私がそう言うと、彼は更に困った顔をした。

 綺麗な細い手で自分の口元を押さえ、顔を逸らした。髪の毛で顔が隠れる。


「え……どうしたの……」


 風にゆられて髪の毛の隙間から見えたラファエルは、まるで泣いているように見えた。

 声をかけようと半歩、彼に近づいたその後、彼は背を向けてそのまま何も言わずに走って逃げてしまった。


「あ………………」


 なんで泣いていたのだろう。

 何か、傷つけるようなことを言ってしまっただろうか。

 私は余計なことを言わなければよかったと後悔した。

 やっと少しだけ打ち解けてきた気がしたのに。


 私は友達との約束の時間が訪れているにも関わらず、暫く放心状態だった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る