第6話 バニラの香りと生きている価値
【木村 冬眞 六】
京都に住む母に電話し、僕のつけているネックレスのことを聞いた。
なんだかファイルの中身を見てから妙に落ち着かない。何度も何度も部屋の中の角から角へ往復しながら電話が繋がるのを待った。
電話が繋がるやいなや、僕は早速ネックレスのことを話し始める。
「母さん、僕がつけてるネックレス、いつからつけとったか知っとる?」
「なんやの、久々に電話してきはったと思ったら藪から棒に。そんなことより、美那子ちゃんと結婚するんやろ? お母さん楽しみでなぁ」
母は久々に話す僕に色々聞きたいことがあるらしく、なかなかネックレスについて話してくれない。
「結婚の話も大事やけど、こっちも大事な話やねん。覚えとることがあったら教えてや」
「んー、そうやねぇ。あ、そういえば冬眞が中学生のときにえらい
中学時代のことを思い出した。
あまりいい思い出がないので思い出すこともなかったけれど、そんなことあっただろうか。僕は思い出せなかった。
「どんな人やったか覚えとる?」
「なんやの、卒業式の日すらお母さんよりその人と約束しとるんやって、お母さんのこと帰らせたくせに覚えとらんの?」
母はその女性のことを覚えていた。しかし僕はよく思い出せない。
中学の卒業式の日……。
僕の頭にフッと女性の一文とそのときの気持ちが蘇ってきた。
すこし肌寒い日だったこと。僕は走って校門へ向かったこと。そして、その女性の病的に白い肌をしていたこと。
まるで、白蛇のように妖艶なしなやかな腕をしていたこと。しかし顔は思い出せない。
――死んでもいいわ。
――……それが答えだよ。
死んでもいいと彼女は言った。
その物々しい言葉とは裏腹の破棄のない、すり抜けるような声。それを思い出す。興味なさそうな、落ち着き払った声でそう言った。
歳は恐らく二十代前半くらいに思える。
「その人の名前は? 名前覚えとる?」
「なんやったっけなぁ……よう覚えとらんわ」
「そうか……なんで僕、覚えてないんやろ。中学の時のことよう思い出せへんねん」
「……別に、無理に思い出さんでもええんやで?」
「でも気になるねん。……その人のこと、何か解ったら教えてや」
「解った。身体には気を付けるんやで。美那子ちゃんによろしく言っておいてな」
電話を切った僕は、ネックレスを握りしめた。
『死んでもいい』と言っていたその彼女は、死期を悟っていたのだろうか。僕が中学のときに好きだった人? 思い出せない。断片的にしか思い出せない僕はまだ解らなかった。
僕はベッドに腰かけてその分厚いリングファイルを全部読むことにした。一枚一枚めくっていくと、関野教授とその被害者の思い出なども綴ってあった。
〈私がある日、講義をいつも通り終えると■■■は突然私に話しかけてきた。「教授の講義面白いです。良かったらもっと教えてください。研究室に行ってもいいですか?」■■■は勉強熱心ないい子だった。聡明な子で私のことを慕ってくれた。私の仕事の雑務も積極的に手伝ってくれた。私も娘ができたかのように嬉しく、研究室に通う■■■とよく話をした〉
とても真面目な生徒だったことは、関野教授の手記から伝わってきた。教授が信頼を寄せていた生徒だったのだろう。
〈倫理学や哲学の本などをよく私から借りて読んでいた。医学にも興味があったようで、彼女は私の話を目を輝かせて聞いていたのを覚えている。なぜあのような残酷な事件に彼女が巻き込まれなければならなかったのか、私は今でも悔いる。■■■が言ってきた木村冬眞という子も、聡明で何でもすぐに覚えた。ただ、■■■■■の方は相変わらずだった。■■■と木村冬眞との接点も結局解らないままだ。ただ、事件と関係のある子だというのは直観的には解る。今は聞ける状態ではない。少なくとも、どう考えてもアリバイはあるので犯人ではないことは確かだが……〉
そのファイルを見ていても、インターネットで調べて見ても、一つどうしてもわからないことがあった。
それはその被害女性の名前だ。
事件が猟奇的過ぎて伏せられているのだろうか。どこを調べてもその名前は載っていない。
その分厚いファイルの中身を読み終わる頃、すっかり夜になっていた。ファイルのどこにも書いていない。というよりも、塗りつぶされていて解らないと言った方が正しいだろう。
〈親御さんと話をするために家に行って調べてみたが、知れば知るほど不可解な事件だ。ただ、■■■の部屋には入ることができなかった。母親すらも入ろうとせず、硬くその扉は閉ざされていた〉
それが一番最後のページに書かれていて、走り書きのメモがはりつけられていた。
〈群馬県高崎市×××町×××……〉
――群馬県?
僕には縁もゆかりもない場所だった。恐らく被害女性の家の住所だろう。相変わらず何の心当たりもない。
「ただいまー」
美那子が上機嫌で帰ってきた。僕はファイルを持ったまま玄関の方へ行って彼女を出迎える。少しアルコールの匂いがする。外で酒を飲んできたのだろう。
「おかえり」
僕がそういうと、美那子が甘えるように抱き着いてきた。
「冬眞ー? 何してたの?」
「教授が……僕に関係ある事件だって言ってたファイルを……」
「何の事件なの?」
美那子は僕が持っていたファイルを手に持ち、ファイルの表紙をめくって事件名を見た。
「あ、これ知ってるー。まだ犯人捕まってない事件でしょ? ……これが冬眞に関係あるの?」
「解らない……でも、被害女性と会ったことがあるような気がするんだ…………昔のこと……よく思い出せなくて」
「ふーん……」
美那子は興味なさそうにしていた。美那子からアルコールの匂いとは別の、バニラの甘い匂いがしてきたのを僕は感じた。
「ん? 美那子、香水変えた?」
「えっ、変えてないってば。冬眞風邪でも引いた? 鼻詰まってるんじゃないの?」
美那子はそう言って僕から離れ、シャワーを浴びに行った。僕もずっと事件の記事を読んでいて疲れてしまった。もうシャワーを浴びて眠ろうか。
その時携帯が鳴りだした。
表示は母だった。私は疲れた目に手を当てながら電話に出る。
「どうしたの母さん」
「名前思い出したの! あの時の女の人の名前!」
電話口で大きな声で話され、僕は電話を耳から遠ざける。
「えっ、ほんまに? なんて名前?」
「
「ひすみさん……」
少し胸に引っ掛かりを感じる程度の感覚を覚える。明確に何だったかは思い出せない。
「なんで突然思い出したんや?」
「その人、中学の卒業のときやから三月の終わりにきたやろ? 弥生って三月の暦のことやん? そう思ったことを思い出したんや」
「解った。ありがとう母さん」
僕は忘れないようにファイルに入っている紙の余白に名前を書いた。ひすみとはなんと書くのだろう。弥生はそのままだろうけれど。
その名前を見ても、僕は何も思い出さなかった。
◆◆◆
【水鳥 麗 六】
私は休みの日に図書館にいた。
彼のことを調べようと思っても調べようもない事実に直面する。
外見程度の情報で何かを割り出すのは無理だ。名前も、住所も、本当に何も知らない。出身地すら、あの綺麗な敬語からは割り出すことは出来ない。
――それに未來の人なら今……その人の元の人がいるはずだけど……それにしても情報がない。
彼が今23歳で、しかも敬語を使って話しているってことは、恐らく私の方が歳上のときの人だと考えていいだろう。単純計算で私が24歳からだとして、今17歳だから7年後以上先の未来。
私がおばあちゃんの可能性もある……そうしたらラファエルは確実に生まれてすらいない。
私はどうしようもなく、図書館に置いてあるオカルトの本を読んでいた。時を戻すような妖怪や精霊や神獣でもいるのだろうか。
――そもそもこれはオカルトか? 粒子力学の方だろうか? 科学の力なのだろうか?
それにしては……「時間がない」とか言っていたし、話せない制約があるならやはりオカルトの分野で間違いはないだろう……とはいえ、私はお手上げだった。
その中に、時間にまつわる妖魔の記述はいくつもあった。
鏡に関するものや、神隠しの話、そして神話へと波及して本を読んでいくが、どれもこれも非現実的で信じられないものばかりだ。
よもや関係のない人類の起源、アダムとイヴにまで遡るとそこには魔王ルシファーがイヴをたぶらかしたときの姿である蛇が描かれている。
――魔王ねぇ……
私は本棚にオカルト本を戻した。
――未来の私はそもそもあの人のこと、どう思っているんだろう
関係性が見えてこない。
考えられる可能性としてはたくさんあるけど、怨恨の間柄という線もなくはない。
時事的な話をすれば、いつ頃の話か目星がつくかもしれない。
――未来に起きた事故、事件、災害とかの話。口を滑らせてくれるといいんだけど……
トントンとシャープペンシルをノートに打ち付ける。
――でも、待てよ。大事件とか大事故を知っているなら、未然に防げる立場にいるんじゃないか? 私に構っているより……何かもっと大災害の警告を…………
そこまで考えて私はシャープペンシルを投げた。
まぁ、突然「○月○日の××時××分に大災害がおこるから避難してください」なんて言ったところで相手にはされないだろう。でも、事件ならどうだろう。事件を起こす人間を予め先導したら、それは免れるのかもしれない。
――私はなにかとんでもない犯罪を犯してしまうのだろうか?
……とはいえ、日本各地で起きることだし「時間がない」って言っていた真意はなんなのだろうか。考えても、やはり解らない。
「はぁ……解らんね」
私はぼやいてしぶしぶ帰路についた。
家に帰る途中、別の高校の人が電車で話している会話が聞こえてきた。
「ねぇ、この前の通り魔事件の人見た?」
「あー! 真夜中にランニング中の人が刺された事件でしょ? 見た見た。写真で回ってたけど不細工だよねぇ」
「マジ? 不細工なんて生きてる価値ないよね?」
「そうそう、超ウケるんですけど」
――最低だ……
人が死んでるのに、自分とは関係ないからって好き勝手なことを言う。
気楽なもんだ。
自分の大切な人が死んでも、同じように言うのだろうか。
女子高生たちはもうその話題には飽きたらしく、他の話をし始めた。クラスの男子がどうだとか、テストがどうだとか。電車の脱線事故で死者がでた話とか。
人が死んだことなんて、まるでどうでもいいことのようだった。まぁ、他人事だしそうか。
私だってその会話を聞かなかったらそもそもそれすらも知らなかった。
というより、世界各地でそういった事件は起きているのに、私は知らない。
別に、興味もない。
――…………人が死んだことなんて、私にとってもどうでもいいことだ
そんなことを考えながら、私は家に帰った。
「ただいま」
返事はない。当然だ、誰もいないのだから。
いない方がいい。お母さんにヒステリックな金切り声で物を投げられるより、静かな方がいいに決まっている。
私はリビングで食事の作りおきがないかどうか確認し、ないことを確認したら冷蔵庫の中を開け、適当な食べられそうなものがないかどうか見た。
「大したものないな……」
――食べるの面倒くさいから、まぁいいか
私はコップに氷を入れてから牛乳を注いだ。
部屋に行って鞄をその辺に投げる。コップを机に置く前に、その下に結露で机が濡れないようにハンカチを敷いてその上にコップを置いた。
机に座り、図書館で書いていたメモを見返す。汚い字で、ぐちゃぐちゃと乱雑にメモが取られていた。
「………………」
考えている私の視界にカッターナイフが入ってくる。
――自殺…………
ラファエルが来てくれる可能性を考えた。
そんな、昨日の今日で来てくれるわけがない。私はカッターの刃を出して、自分の左手首を見つめた。
――こういうの、リストカットって言うんだよね……
刃を当てて引こうとする際に辺りを見回した。いない。力を少し入れて引くと、鋭い痛みが手首に走る。
痛い。
私は再度辺りを見回した。やはり彼はいない。
自分の白い手首を見ると浅い傷がついていて、うっすらと血が少しだけ滲んでいた。
「これじゃ駄目か」
私はティッシュでその血を乱暴に拭き取って、ゴミ箱に投げた。
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