第5話 塗りつぶしと電車





【木村 冬眞 五】


 まだ太陽は東から横に光を当てているような早い時間。

 昨晩は気になりすぎてほとんど眠れなかった為、早く研究所に足を運んだ。

 いつも通りの風景だ。

 病院とは違う薬品の匂いと、機械の独特な匂いがする。


 ――教授の鍵……


 自分のネックレスに通してある鍵を、ネックレスを外して鍵を手に取った。

 再びネックレスを自分の首につけようとするが、なかなかうまくいかない。

 やはり苦手だ。

 いつもなかなかつけられない為、僕はいつもネックレスをつけっぱなしにしている。


 僕は教授の研究室の鍵のかかっている引き出しを、受け取った鍵を使って開けた。

 中には一冊の分厚いリングファイルがあるだけだった。

 かなりの資料の量だ。

 広辞苑二冊分くらいの重さがあるように感じる。


 ファイルの表紙には『前橋魔法陣猟奇殺人事件』と書かれていた。


 僕は教授がいつも座っていた椅子に座り、その重々しいファイルを一枚一枚めくって見ていく。

 教授の字がびっしり書いてあったり、新聞の切り抜きや、インターネットの関連記事の印刷などがそこにはたくさんファイリングされている。

 その奇怪な名前の事件を僕は知らなかった。


〈私ももう先が長くはないだろう。真実を追求しきれなかった後悔が募るが、せめて私の意思を継いでこの事件を解決してくれる人間が現れることを祈り、ここにすべての資料をまとめよう〉


 明らかに紙が新しい。数枚めくると紙の色が少し変色している。

 最近書かれたものだということが容易に理解できた。


〈20××年 12月某日 私の教え子だった■■■が突然私を訪ねてきた〉


 名前の部分が塗りつぶされていて読めない状態になっている。どうにか透かしてインクの様子からでも確認しようとしたが、どうしても読めない。

 そこだけではない、名前のところ全てが塗りつぶされていた。

 僕は怪訝けげんに思いながらも、その手記を読み進めていった。


〈突然現れた彼女は、目を真っ赤に充血させ泣きながら私に必死に頼みごとをしてきた。

 ただ事ではない状態の■■■を見て、私は血の気すら引いた。■■■は『木村冬眞』という人物を助けてくださいと泣きながら訴えてきた〉


 僕の名前が書いてあり、そこで指先がビクリと痙攣した。

 そして、嫌な汗がじっとりと僕の身体を湿らす感触がする。


〈■■■は、『私ではできない』『教授にお願いするしかない』『重度の■■■■■なんです』『このままでは彼は助からなくなってしまう』という趣旨の言葉をずっと私に懇願し続けた。聡明で冷静な彼女がこれほどまでに取り乱すには、きっと理由があったのだろう〉


 また塗りつぶされている。


 ――僕が重度の……なんだというのだろう……


 やはりどう頑張ってもその塗りつぶされている下の文字は見えない。


〈その理由は、その翌日に理解した。彼女はその日から連絡が途絶え、失踪してしまったのだ。まるで煙にでもなったかのように消えた。捜索願は出されたが、その成果が実をつけないまま一年が過ぎ、もう捜索は絶望的かのように思われた。

 ある日、母親が帰宅し二階に上がると■■■の部屋からかすかに異臭がしたそうだ。母親が見に行くと失踪していた■■■は亡くなっている状態で部屋に倒れていた。身体中三十ヶ所以上にものぼる刺し傷で、ショック性失血死。

 一番奇異であることは、部屋にはまるで芸術とも見てとれるほどの精密な魔法陣が、彼女の遺体を中心に大きく、彼女の血液で描かれていたことだ。それだけではなく、壁には一面にどこの国の文字かも解らない文字が、やはり血液でびっしりと書かれていたと聞いた。そのいずれも■■■のDNAと一致したそうだ〉


 僕はゾッとしてページをめくる手が止まった。

 明らかに頭のおかしな人間の犯行だということは解る。でなければ、被害者の血液で文字を書いたり、魔法陣を描いたりなどということはしない。


 ――魔法陣などというと……悪魔崇拝か何かだろうか……


〈猟奇殺人とはいえ、腑に落ちない点がいくつもあった。それは、言うまでもなく失踪していた彼女が突然現れた事。

 無論、母親に容疑がかかるがアリバイもある上に、失踪していた娘の突然のあられもない姿に取り乱し、精神を病んでしまった。警察は早々に母親を捜査対象から外した。しかし、二階の窓はカギがかかっており、玄関も施錠されていた。誰かが入っていった形跡も、出て行った形跡もない。しかし、母親はその事件前に■■■の話し声を聞いたと供述したらしい。しかし部屋を開けても誰もいなかったようだ。幻聴か何かだったのだろうか〉


 ――警察がとった調書だろうか?


 そのコピーがファイリングされていた。

 教授の友人に警官が何人かいるらしいので、秘密裏にその情報をもらっていたと考えるのが自然だろう。

 母親の取り乱し様などが無機質な文字で淡々と記されていた。


〈更に調査で明らかになったことだが、■■■は武器などが好きだったようで部屋にはいくつもの武器が置いてあったようだ。サバイバルナイフ7本、メリケンサック2つ、模造刀1本、警棒1本、竹刀1本……それらを使ったような形跡も一切なかった。犯人が不意打ちで後ろから殺したのであれば、傷のつき方が不自然だ。■■■は面と向かって対峙しただろう。抵抗するならば部屋の各所に置いてある武器を使用したはずである。

 殺されることを承諾したにしても、あの刺し傷で犯人が出て行った後に■■■が鍵をしめることは間違いなく無理だろう。まして、魔法陣を描く時間が犯人にはあったはずだ。絵の専門家に見せたところ、その魔法陣や文字を描き上げるのに必要な時間は、最低でも12時間以上かかるという。

 しかし、なぜそんな手間のかかることを?

 現場の刺傷からの血液量の少なさから、その壁の血液の量と比較しても彼女の血液を近々で使用していたとみて間違いない。

 そもそも失踪していた彼女が、突然現れて殺害されたのか、理解できないことばかりだった。

 更に不可解なことは続いた。

 ■■■の部屋に足を踏み入れた何人かは気がふれたように自我を失い、精神病棟へ入院することとなった。それが何人も続き、ガスマスク等の防護服をつけて捜査をしたらしいが、それでも精神を壊す者が後を絶たず、捜査は暗に打ち切られることとなった〉


 僕は読んでいて不気味な気持ちでいっぱいになった。背筋が寒くなる。

 そもそもいくつもの武器を部屋の各地に置いているという時点で、そこから不可解だ。

 何かに狙われていたのだろうか。あるいは、狙われていると信じていたのだろうか。

 なににしても奇異な点が多くてページをめくる指は重くなった。


 ――精神を壊すものが後を絶たない……? 何故……


 それでも僕はページをめくる。


〈彼女が失踪したあと、ただごとではないと感じた予感は間違っていなかった。何故私はあのとき■■■を引き留めてもっと話を聞かなかったのだろうと後悔しなかった日はない。■■■が必死に訴えてきた『木村冬眞』という人物が入院していた病院へ行き、彼の状態を確認した後に、彼を引き取ることにした。それが、唯一私にできる■■■にできる罪滅ぼしだ。そして、一番不可解だったのは木村冬眞は■■■のことを「解らない」と言ったことだ〉


 そのとき、忘れていた僕の記憶が蘇ってきた。


 ――……木村君、私……もう、またしばらく来られないの。

 ――木村君が中学を卒業する日に、また来ようかな。

 ――私のことは……忘れて。支えてあげたいけれど、私には時間がないの……。


 名前を思い出せない。

 顔すらも。


 涙で目を濡らし、目を赤く腫らしていたことと、その目が美しかったことくらいしか覚えていない。

 なぜだろう、忘れてはいけない人だった気がするのに。


 時間がないと言っていた。

 僕は前かがみに机に伏した。そのときに僕がつけていたネックレスが視界に入る。

 このネックレスはいつの間にかつけていたものだ。

 でも僕はアクセサリーの類を一切つけない。買おうともしない。なのに、なぜかこれだけはずっとつけている。


 ――小さい頃にもらったような……


 僕の記憶には不確かな部分がたくさんあった。

 あまり過去を振り返ることがなかった僕にとって、なぜこんなにも覚えていないのか自分自身を疑った。

 幼少期にもらったものなら、母が何か覚えているかもしれない。

 僕は重いファイルを持ち、帰路についた。

 久々の母に電話をしながら。




 ◆◆◆




【水鳥 麗 五】


 そして、八月の真夏真っ盛り、セミの大合唱が耳障りなほどの今日。

 高校二年生の私の前にまた彼は現れた。


 日差しが痛い。

 この時期は本当に嫌になる。

 外に出るのが億劫だ。


 私は暑さにうなだれながら駅の方向に向かって歩いていた。


「あの、麗さん」


 学校帰りに私を呼び止めるその自信なさげな声。

 クラスの男子から呼び止められたのかと思い、ふり返るとラファエルがいた。

 夏なのにも関わらず、彼の肌は白いままだった。光を反射して眩しいほどだ。


「あ! ラファエル」


 私は暑さで思考が鈍化し、私の中で決めたあだ名で彼を呼んでしまう。


「ラファエル? 私のことですか?」

「そうですよ、名前教えてくれないから勝手に命名しちゃいました」

「………………」


 また、いつもするように目を逸らして考え事をするように、彼は何度か瞬きをしていた。

 その長い沈黙の中、照りつける太陽に不快感を示す。

 日焼け止めを塗ってはいるが、日焼け止めでは暑さは防ぐことはできない。


「ラファエルが嫌なら、名前教えてくださいよ」

「……いえ、嫌というか……なんでラファエルなんですか?」

「私の好きなバンドの名前をそのままつけただけです。あと、突然現れるので、『妖精』とか『幽霊』とか色々考えましたけど、悪意は感じないので天使の名前にしました」


 また彼は長い沈黙をした。

 積極的なのに、話すのは苦手なようだ。本当にこの人のことはよく解らない。

 しかし、彼の方からその長い沈黙を破る。


「ラファエルって、何の天使かご存知ですか?」

「え、何の天使……いえ……」


 私は考えるときに目を逸らした先で、自分の腕時計が目に入る。

 電車の時間が迫っていることに私は気づいた。

 田舎は電車がくる時間の間隔が長い。乗り遅れてしまうとその後30分から1時間くらい待つことになる。


「あっ、私電車あるので歩きながらでいいですか?」

「えっと、あの、待ってください!」


 ラファエルが私の腕を掴んで阻む。


 ――え? 何?


 今まで積極的に私に触れてこなかった彼が、急に私の腕を掴んだものだから驚いた。


 ――こ、告白とか?


 思春期真っ只中の私はそんなことを考える。

 青春の映画やドラマやアニメの見すぎだろうか。

 私の腕を掴んだものの、ラファエルはすぐさま私の腕を離した。私の腕を離した後に、なんとも言えない気まずそうな表情をする。

 一度身構えた私は、その様子を固唾を飲んで見守っていたが、彼の口から出たのは告白の言葉ではなかった。


「その……もう少しここで話をしてもいいですか?」

「ここで……ですか?」


 学校から出て数分のところ。

 正直、同じ学校の人に見られると気まずいと私は思った。

 後で絶対茶化される。

 ラファエルも暑いのか、汗で長い髪の毛が顔に少し張り付いているように見えた。


「じゃあ、ここだと暑いので日陰に行きましょうか」


 私は彼の隣を歩いた。歩調はそれほど速くはない。それが自分の歩調なのか、ラファエルの歩調なのかは分からなかった。

 背丈はあまり変わらなかった。彼は無地の紫色のシャツに、膝上までくらいの丈の半ズボンをはいていた。痩せた四肢が見える。


 ――こうして歩いてると、恋人同士に見えるのだろうか


 ラファエルの方を見ると、壁画や聖書で書かれる天使のように顔立ちは確かに整っている。

 その横顔に私はドキドキしなかったと言えば嘘になるだろう。


 ――というか、なんで私にこんなに良く(?)してくれるんだろう。明らかにこの人、私のこと好きだよね? なんで何もしてこない上になにも言ってこないんだろう


 強引に壁に追いやられ「お前が好きだ」とか言って告白する、なんて、そういう漫画でありがちな方法が頭に浮かぶが、どうにも彼はそういうタイプではない。


 ――なんだろう……やけに大人びて見えるというか……


 日陰につくと、彼は首元をパタパタと扇いだ。

 私も蝉の大合唱を聞きながら、ジリジリと照り付ける太陽の光の眩しさに目を細める。

 屋根や家の壁に反射して目に映るその景色は夏そのものだと感じる。


「あの……聞いてもいいですか?」


 ラファエルは何も言わず、私の方を向いた。

 二重の大きい目の瞼についている長い睫毛を震わせ、こちらを見てくる。


「私のこと好きなんですか?」


 直球で聞いてみた。

 等速直線運動の豪速球。空気の摩擦で炎を纏ってもおかしくない速度。

 その直球に対し、ラファエルは少し渋い顔をしてから、言いづらそうに返事をした。


「あの…………まぁ、そうなんですけど」


 苦笑いをしながら慌てたように、世話しなく手振りで誤魔化そうとしている。

 なんとまぁ、歯切れの悪い返事だ。

 しかし、肯定するその態度に私は恥ずかしくて声を詰まらせた。


 ――そうなんだ……私のこと好きなんだ……


 思春期にそう簡単に「好き」などと言われると、返す言葉が出てこない。

 自分で聞いておいて、何と返したらいいか解らなくなってしまって私は目を泳がせる。

 私が恥ずかしがっているのにも関わらず、ラファエルは話の続きを話し始める。


「言えないことの方が多いんですけど、でもけして怪しい者ではないというか。信じてほしいと言いますか……」


 その「好き」に対した意味もないように言葉を続けるラファエルに対し、少し不満を抱く。


 ――もっと、こう……「好き」と言ったからにはその後に続く言葉があるんじゃないの……


 思春期の女子高生などというものは、夢見がちなものだ。

 その夢見がちな私に対して、彼は非現実的なことを次々に言ってくる。


「怪しい者ではないって……怪しい者でしかないんですけど……」

「そうなんですけど、でも、その……」


 彼は少し苦笑いをしながら困った顔をした。

 苦笑いでも、初めて見た笑った顔。笑うのが生まれて初めてなのかと思う程不器用な笑顔だった。

 聖書の中に出てくる微笑んでいるラファエルと全然違う。

 作ったような笑顔ではなく、自然な笑顔だ。私は笑った顔の彼を見てなんだかホッとした。


 ――なんだ、笑わない人かと思った……


「その」の後に続く言葉を待つ前に、私は話し始める。


「そもそも、なんで敬語なんですか? あなたの方が歳上なのに」

「………………」


 また答えない。

 というより、心底返答を困っているようだった。どうしてなにも答えてくれないのだろう。謎が多すぎる。

 名前も、なんで私にこんな風に接してくるのかも、歳についても謎のままだった。


「答えられないなら別にいいですよ。悪意がないなら」


 ラファエルの酷く困った表情を見て、私は身を引いた。

 あまり困らせても仕方がないので、私は話題を変えることにする。


「私のどこが好きなんですか?」


 一度は聞いてみたい内容だった。

「その吸い込まれるような目が好きだ」とか「その日に透かすと茶色い髪が好きだ」とか「華奢な腕の白い肌が好きだ」とか、いろいろあるだろう。

 こんなことを聞いても仕方がないのは解っていたが、何か彼を知るヒントになればと私はラファエルに問う。


「……命や人生を……――――――ですかね」


 丁度その声を遮るように、大型トラックが騒音を撒き散らしながら隣を通りすぎた。聞こえなかった。

 まるで計ったようなタイミングだった。


「え?」

「あ、いや……ですから…………」


 結局彼は言いごもってしまってその続きの言葉が出てこない。

 そもそも、この人はなんで私のこと、こんなに知っているんだろう。


 ――ストーカー? ストーカーにしては……普通過ぎる。いや、普通ではないんだけれど、迫りくるものを感じない……


 私に何か求めてきているという感じでもない。

 なんだか変な関係だと感じる。

 関係性を明示する言葉が見当たらない。


「あなたは私の友達の友達とかですか?」

「いえ、違います」


 あっさりとした否定の言葉。


 ――超能力でも使えるのか? まさか。SFでもあるまいし


 そんなものがあったらこの世の秩序が崩壊してしまう。念じただけで空間から火が出たり、者が浮いたりしたらもう何もかもが滅茶苦茶だ。

 そもそも、人間の思考なんてものは電気信号で、その電気信号がどのようなことを思い描いたとしても、それが何の過程もなく具現化して虚空から出るなんて。

 そう思う傍ら、ラファエルの件はどうにも理解が追い付かない。


「SF的なこと言いますけど……超能力者ですか? それともストーカーですか?」

「超能力者ではないですね」


 彼は少し笑いながらそう言う。

 まぁ、そうだよね。と馬鹿らしくて私も少し笑ってしまう。


「ストーカーかと聞かれると、正直、この状態からしたら否定はできないですけど、私はそんな卑賎ひせんなものじゃないです」

「ヒセン? ってなんですか?」

「あ……えっと……要するに『卑しい』『低俗』なみたいな意味です」


 なんだか少し寂しそうな顔をしながら彼は説明をしてくれる。


「なるほど」


 じゃあ後はなんだろう。

 可能性として考えられるのは……未来から来た人とか?

 そう考えるが、未来とか、過去とか、あり得ない。あり得るはずがない。

 それでも口から出るままに私はその疑問を彼に質問する。


「未来からきたんですか?」


 私が冗談交じりにきいたその言葉に、ラファエルは視線を逸らして沈黙した。


「………………」

「え……? 本当に……?」

「………………」


 嘘。


 そんなこと、ある訳ない。


 未来からきた? そんな馬鹿なことあってたまるか。

 アインシュタインもびっくりだ。なによりまず私がびっくりだ。

 そんな非科学的なこと、あってたまるか。私は宗教は全く信じていないが、科学は信じている。いや、相対性理論は科学かもしれないけど。そんなこと、本当にある訳がない。今の地球上には。まてよ、未来から来ているんだから今の地球上の話は関係ないのか。


 私は色々な考えが巡り、混乱していた。

 もしそうだとしたら、この人は私のなんなんだろう。


「……沈黙は肯定と捉えますよ」


 肯定と捉えますよ。などと言いながらも自分自身が信じられない。


「私の口からは言えないんです。ごめんなさい」


 そんな超常的もののせいにして話を片付けるのは不本意だった。

 でも、そうでもないと説明がつかない。


「…………じゃあ、あなたが言えないなら、私が調べる分にはいいでしょう?」

「駄目ですね。調べてはいけません。私のことは……その……すべて終わったら忘れてください」


 彼には珍しく即答で返事が返ってきた。相変わらず何を言っているのか理解に及ばない。


「すべて? 終わったら?」

「……私のことはいいんです。もう、十分ですから」

「十分って……どういうことですか……?」


 ラファエルは答えない代わりに、外にあった時計をしきりに気にしていた。

 何もかも訳が解らない。

 時間をさっきまで気にしていたのは私の方なのに。


「…………ごめんなさい、せっかく時間を割いていただいたのに。私はまた帰らなければなりません」

「え? もう行っちゃうんですか?」


 ――私、電車一本の逃し損じゃない?


 嫌味の一つも言いたくなる。

 これを逃したら次は30分くらいこないのに。そう言いたい気持ちもあるが、本当に申し訳なさそうにしているラファエルを見ると、文句を言う気にはならなかった。


「すみません……」

「……次に会うときは、もっと色々聞きますからね?」

「麗さん……、私のことは…………本当に忘れてください」


 無理なことを言うなよ。

 と、私は思う。

 こんなに印象に濃い人を忘れるなんて。

 ラファエルは私に背を向けて、一度私の方を振り返り


「さよなら」


 と口にした。

 その言葉に、私は寂しさのような感情を抱く。


 ――さよならってなに? もう会えなくなるみたいじゃない


 そう言おうとしたけれど、再びラファエルは私の前から消えた。

 消えた後に残った夏の痛いほどの日差しに、日傘を忘れたことを私は心底後悔をした。

 何だったのだろうかと私は思いながら駅までつくと、人が沢山集まっていた。


「もう、これじゃ帰れないじゃん」

「親に迎えに来てもらうしかない。サイアク」


 何があったのか、知ったときは唖然とした。

 私が乗ろうとしていた電車は脱線して勢い余って民家へ突っ込んでしまったらしい。死者は2名ほど出ている。

 死者が出たのは先頭車両だ。私が乗ろうとしていた車両だった。


 ――危ない……乗っていたら大怪我してたかもしれない……


 そう思ったけれど、私は迎えに来てくれる親はいない。

 母は「自力で帰ってきなさい」と言うだろう。


 ――はぁ、困ったな…………


 私はラファエルの横顔を思い出して、ため息をついていた。

 太陽がまだジリジリと照り付けているのがやけに憎らしく感じた。




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