Flower

岩﨑 史

第1話

今からおよそ百年前、世界中で生物の大量絶滅が起こった。

当時、多くの学者が原因の究明にあたったが明確な理由は解明されず、気候変動による生物の生息環境の悪化と、とりあえずはそういうことになった。

「結局、ヒトは無力なのかもな」

ノアは皮肉な笑みを浮かべながら、当時の新聞記事を映し出しているスクリーンを見つめている。

たくさんのパソコンが並べられた広いデータベース室は、薄暗く、埃っぽい。

壁は四面とも本棚になっており、一部の隙間もなく大量の専門書が並べられている。

ノアは部屋の一番奥にあるパソコンの前に座って、オフィスチェアを左右にゆらゆらと揺らしながら小さくため息をついた。幸い、現在データベース室にいるのはノア一人であり、彼の行儀の悪い態度を咎める人間はいない。

ノアはまだ産まれていなかったので、当時のことは正確にはわからない。

けれども、五十年前の記事を見てみると、当時の世界がどれだけ混乱に陥ったのかは想像に難くない。

『昆虫個体数急激減少に緊急事態』

『熱帯雨林、生物多様性二割減か』

『果実育たず、農家涙』

『希少生物絶滅、歯止めかからず』

こんな見出しが連日、大きく紙面に踊っていた。

ノアは大きく伸びをすると、頬杖をついてぼんやりスクリーンの中の生物たちの写真を眺めた。

生物は互いに複雑な関係を保ちながら命をつないでいる。

どこかでちょっとでもそのバランスが崩れてしまうと、連鎖的に生態系が瓦解することもあるのだ。

生命は人間には理解しきれない繊細さでもって営みを維持している。

絶滅した生物の中には、ミツバチをはじめとする多くの訪花昆虫も含まれていた。

その結果、受粉をそれらに頼っていた顕花植物も急速に数を減らした。

今では、昆虫をおびき寄せるための色鮮やかな花弁を持っている植物は非常に珍しく、ほとんどお目にかかれない代物となっている。


ふと、画面をスクロールするノアの手が止まった。そこには『生物標本管理課誕生』という見出しの記事が掲載されている。

「これか……」

ノアは軽く身を乗り出すようにして丁寧に記事の内容を読んでいった。

大量絶滅の危機が人々に本格的に認識され始めたころ、保護活動と並行して、生物標本を積極的に残そうという風向きになった。それはノアの住む国も例外ではなく、博物館職員などが中心になって多くの生物標本が作製された。当時の政府の環境保護局は、積極的にその活動を推進し、そして出来上がったのが『生物標本管理課』だった。

『生物標本管理課』では絶滅した生物をはじめとして、様々な生物たちの標本を保管している。哺乳類はもちろんのこと、爬虫類や両生類、昆虫、植物など、生物種は多岐にわたる。

さらに、生物体そのものだけではなく遺伝情報なんかもデータベースとして残してある。

ここで働く職員は、博士号や学芸員資格をもった人間が主だ。

ノアも大学では植物の研究で博士号を取得し、現在は『生物標本管理課』の職員をしている。

そしてこのデータベース室は『生物標本管理課』の施設内の一室である。


ノアだって、ピンクやイエローの鮮やかで大きな花弁を持つ植物は写真か、植物園でしか見たことがない。

そんな世界が、ノアたちにとっては当たり前の世界だ。

そして人間は、そんな世界にも慣れてしまう。

ノアが当時の新聞記事を検索した理由は、今年度の政府の予算案が通達されたからに他ならない。生物の標本管理に充てる予算が大幅に削減されていたのだ。

彼らの思惑はなんとなく想像がつく。

生物の標本管理はとにかく、金がかかる。

湿度や温度を厳しく管理しないと標本にカビが生えてしまう。

それに一種につき何個体もの標本が保管されているため、かなりの場所をとる。

定期的に掃除を行わないと標本を喰う虫が湧く。

これだけの労力に見合う利用価値が見いだせないのだろう。

簡単に言ってしまえば標本管理課は、政府の穀潰しのような存在だ。

―とうに存在しなくなったものを、大事に守ることに何の意味があるのか。

彼らの言いたいことは痛いほどよく分かる。

一般的にはそういった意見に対しては、

「生物資源は貴重な財産だ。いつか利用できる時が来る」

という反論をする。そう、それだって正しい主張なのだ。

実際に、生物資源の存在によって開けた未来は多くある。

しかし、その例は数多存在していた生物の中のほんの一握りのことだ。

その『いつか』とは一体いつなのだ。そう問われたら、ノアだって分からない。

不確定なことに、多くの金をつぎ込むべきではない。それなら、もっと他に金を使うべき対象はあるだろう。

それは理解できる。けれど…。

「意味…か…」

ノアがそんな深い思索に耽っていたときだ

「ノア、ここにいたのかい」

突然、背後から声がかかった。

ノアははっと我に返り、後ろを振り向いた。

そこには、生物標本管理課の課長であるコーディが立っていた。薄い白髪に手を置き、目じりにしわを寄せていつもの人のよい笑顔をノアに向けている。

「珍しいね、データベース室にいるなんて。探したよ」

そう言いながら、たった今ノアが眺めていたスクリーンに目をやった。

ノアの考えていたことをなんとなく察したのだろう。少し憂いを宿した瞳をノアに向けた。

「あ、いや、ちょっと気分転換に。標本のラベル製作に飽きたものですから」

ノアはコーディに先ほどの思索を詮索されないように、努めて明るくそう言った。

「そうか。お疲れ様」

コーディはまたいつもの明るい笑顔でそう応答し、

「ちょっと、お客さんが来てね。植物標本を提供して欲しいっていう…。今、いいかい?」

そう尋ねた。

「標本の提供ですか。 それは、どういった目的でしょう?」

形態の比較研究などのため、標本の閲覧依頼を受けることはそう珍しいことではない。

今回もそういった類の依頼だろうと、ノアは思った。

「目的はまだ聞いてないんだけどね。その人、製薬会社の研究員の方なんだよ」

「製薬会社…ですか?」

コーディの意外な返答に、ノアは少し目を丸くした。

「詳しい話は彼のほうから。事務室で待っていてもらってるんだ。対応よろしく頼むよ」

「…わかりました。今行きます」

そう言うと、ノアはパソコンの電源を落とし、コーディと共に足早にデータベース室を後にした。

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Flower 岩﨑 史 @fumi4922

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