第107話 決着と次戦
軽快な金属音が響く。
その音と共に打球が右中間へと放たれた。
「センター!」
伊羽高校のセンターが打球に追いつき、すぐさま中継のセカンドへとボールを返す。打った的場は一塁止まりだ。
しかし、セカンドランナーの早瀬は打球が転がる間に三塁を回り、中継に入ったセカンドが本塁へ送球する間もなく生還した。
一点。
まだ同点にも逆転にもなっていない一点だが、大きな大きな一点が七回裏の皇桜のスコアボードに叩き出された。
なおもノーアウトランナー一塁。そして打席には三番の鳩羽が入る。
「野球は最後までわからないのが怖いところだよね」
七回表終了時点では伊羽高校が圧倒的に優勢だった。
しかし、七回裏途中の今、伊羽高校はリードしているものの、優勢とは言い難い状況に陥っていた。
司の呟きが、巧の心に重くのしかかる。
実際に、六回終了時点で十点もの点差があった試合で、九回に同点に追いつかれ、延長で負けるなんて試合もある。最終回で六点差を追いつかれ、延長戦で負けるということもあった。
試合の終盤では、一点の価値は大きなものとなる。しかし、どれだけ大差だろうと、最後のバッターがアウトになるまで試合の結果はわからない。
二点差という状況なら尚更だ。
自分たちも伊羽高校と同じ状況に立たされることもあるだろう。
七回裏の最終回、一点差。この回に二連打を浴びて得点を許している状態でマウンドには伊澄。ベンチには棗も黒絵も控えていて、守備交代を行えば夜空や陽依の登板も可能だ。
そんな時、巧は自分ならどんな起用をするのか考えていた。
そもそも二失点した六回裏の途中か、終了後に伊澄を代えていただろう。しかし、皇桜との試合では、最後まで投げさせることも視野に入れている。
そうなれば、この状況はまさに次の試合で起こりうる可能性のある状況だった。
続投か。交代か。
巧は、自分なら後者を選びそうだと考えていた。
エースと心中。伊澄がピッチャーで唯一の三年生であれば考えていただろう。棗や黒絵が三年生で、伊澄も三年生であれば、交代させていた。
伊澄は間違いなく明鈴のエースだ。明鈴で一番のピッチャーだ。
しかし、絶対的なエースとは考えていなかった。
伊澄の実力が足りないのではなく、棗や黒絵も信頼できるピッチャーだから。
ただ、それは伊澄にとって残酷なことでもある。最後まで任せてもらえるほど信頼を得ていないように感じるから。
選手の時は、自分が出たいという気持ちしかなかった。
しかし、監督になってから、選手の起用法に様々な葛藤があった。
リードした中盤に休ませるために交代させることは、今後の試合に期待しているという意味があるためいいだろう。そして出ていた休ませるために出した選手も、試合に出すことでチャンスが生まれるし、少なくとも戦力だと考えているから出すので、その交代に悩んだことはない。
ただ、代打や守備交代はどうだろうか?
守備交代は、打撃に期待しているが、それ以上に守備に期待のできる選手を出すので、まだいいかもしれない。
巧は、代打が一番起用に悩む。打てないから代えると言っているように思えてしまうからだ。
他校とはいえ、外からじっくりと試合を見ていると改めて感じることがある。
特に終盤の緊迫した場面での采配。それがいかに難しく、監督にとってもいかに適切な決断が必要かということを改めて思い知った。
伊羽高校は守備交代もしない。それだけレギュラー陣を信頼しているのだろう。
しかし、裏を返せば控えの選手が信頼を得ていないということでもあった。
ここで打席には三番の鳩羽を迎える。鳩羽はショートという守備の要でありながら、三番打者という打撃の要でもある。それでいて足もそこそこ速いため、走攻守全てに秀でたプロも注目する選手だ。
そしてピッチャーもできる。投手力、ミート力、長打力、走力、守備力、送球力と、6ツールプレイヤーと呼ぶにふさわしい選手だ。
その鳩羽が打席に入り、バットを構えた。
この緊迫した場面で威圧感を放つ鳩羽は、勝負したくない相手だ。しかし、ここで敬遠してしまえば、後ろには四番の和氣が待ち構えている。
伊羽高校のピッチャー、永田は勝負を迫られている。
初球から際どいコースを攻める投球だ。勝負をしながらも、威圧感に気圧されて逃げるような投球。
五球を投げて、鳩羽は一度もバットを振らずにフォアボールを選んだ。
ノーアウトランナー一塁から、ランナー一、二塁へと変わる。そして打席には和氣を迎えた。
ヒット一本……特に長打が出ようものなら一気にファーストランナーの鳩羽が返り、逆転もある場面だ。
しかし、和氣との勝負を避けるという手段はない。
五番に控える光本は、皇桜の中では控えに回っている選手だ。それでもスタメンで出場したこの試合で五番を任される程の打撃力を持っている。
和氣と比べれば確かに打撃力は劣る。ただ、和氣に出塁を許せば、ノーアウト満塁という状況になる。そうなれば、ゲッツーでも外野フライでも一点が入り同点となる。ホームゲッツーでもできない限りは不利な状況が続くだけだ。
伊羽高校のキャッチャーはたまらずタイムを取り、ピッチャーを落ち着かせるために一拍置いた。その間に和氣を抑えるための作戦会議も兼ねている。
内野手が全員マウンドに集まり、時間の許す限り作戦を立てている。
「……司ならこの状況どうする?」
球場には皇桜の応援に駆けつけた、皇桜の吹奏楽部の楽器の音と、ベンチ入りを逃した部員たちの応援歌が響いている。
その音に耐えきれず、巧は言葉を吐き出した。
「どうかな……。鳩羽さんも和氣さんも、厄介なバッターだけど、和氣さんはホームランもあるから、私ならそもそも鳩羽さんに際どいコースを攻めるよりも打たれても勝負をしてたかな。……鳩羽さんにホームラン打たれたら終わりだけどさ」
一点差の状況の今、先ほどの鳩羽の打席でホームランが出ていればランナーがいたためそれだけで逆転となる。それを考えなければ、塁に出ていた的場が本塁に返ったとしても、同点となるだけで試合はまだ続く。
しかし、今は鳩羽を塁に出しているため、和氣が出ればノーアウト満塁で苦しくなる。鳩羽に打たれていたとしても、和氣を敬遠すれば、ノーアウトランナー一、二塁で光本を迎えることとなる。……鳩羽がスリーベースヒットでなければだが。
同点でも、ノーアウトランナー一、二塁であればまだやりやすい。
外野フライでも、悪くてセカンドランナーがタッチアップするくらいで、ワンアウトランナー一、二塁か、一、三塁となる。そうなればゲッツーを取れば同点止まりで終われる。
内野ゴロでゲッツーを取れれば、悪い状況でもツーアウトランナー三塁だ。続くバッターを打ち取ることを考えるだけで済むこととなる。
つまり、鳩羽に出塁を許した時点で、状況が最悪なものへと限りなく近づいていた。
「……鳩羽が出塁した前提でならどう攻める?」
「うーん。それならゴロを打たせたいから内角攻めかなぁ? でも多分読まれるだろうから、勝負球は空振りを取る外への変化球。初球から言うと、私なら内角低め変化球、内角高めストレート……これは外してもいいから際どいところで、二球目が決まったらそのまま外角低めの変化球で、見送られてボールになったら外角に外したストレートから内角低めの変化球で打ち取りに行くかな。二球目外れてたら三球目で外角高めに外して、内角低めに変化球、その次に決め球の外角低めの変化球にするね」
要約すると、ツーストライクまでは打たせて取る内角を攻め、追い込めば外角で空振りを狙っていくということだ。そしてそれで決まらなければもう一度内角攻めに戻るという配球を司は考えている。
内内外というのはセオリー通りであるが、外角攻めのセオリーだ。しかし、司は内角を中心に攻めると言っている。
一見セオリー通りの配球も、セオリー外の配球を混ぜた配球だ。
セオリーは大切だ。一般的に打ち取りやすいとされるものがセオリーとなっているから。
ただ、それだけの教科書的なリードであれば、必ず相手に読まれる場面が訪れる。
そのため、司のリードはセオリーに倣いながら、要所要所でそのセオリーを外してくるという特徴のリードだった。
「中学の頃のキャッチャーに不満なかったけど、司とも組んでみたかったなぁ」
巧はポツリと言葉を零す。
巧としては、司のリードが自分の思考と似ている部分があると思っている。
完璧ではないが、配球の意思疎通はしやすいだろうという理由だった。
「そう言ってくれるのは嬉しいな」
司がそう言い切ると、伊羽高校のタイムが終わる。各選手ポジションに戻り、エース永田は皇桜の主砲である和氣と対峙していた。
初球が勝負だ。
甘い球であれば打たれる。ボール球であればズルズルと悪いカウントに引きずられるかもしれない。
キャッチャーがミットを構え、永田はセットポジションから初球を投じる。
内角低めいっぱい。ミットを構えたところにドンピシャの力強いストレートだ。
そして……、
嫌に軽快すぎる金属音がグラウンドに響いた。
その音を聞いた瞬間、マウンド上の永田は崩れ落ちた。
打球が上がる。
打球は落ちてこない。
一向に落ちる気配のない打球に、球場全体の選手も、審判も、観客も、全員が目を奪われた。
激突音とともに、ようやく打球が落ちる。
それは、バックスクリーンへと直撃するホームランだ。
決まった。
皇桜の応援席は大盛り上がりだ。対して伊羽高校の応援席は沈黙している。
最終回が始まる頃には二点差でリードをしていたのは伊羽高校だった。しかしその回、アウトカウントが一つも増えることはなく、試合は終わりを告げる。
四対六。結果的に、皇桜の四番である和氣により、その試合は幕を閉じた。
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