第62話 ピンチとテンポ

 マウンドで伊澄が膝に手を着いて項垂れている。


 打たれた瞬間、すでに確信したかのように天を仰いでいた。


 ここまでだろうか。


 ピッチャー交代。そう考えて動こうとした瞬間、伊澄の方から殺気にも近い気配を感じた。


『もう少し待ってくれ』


 そう言っているように見えた。


「はぁ……」


 すでに均衡は破れた。伊澄の続投にせよ、棗の緊急登板にせよリスクがあることには変わりない。


「光、伝令行ってもらえないかな?」


「了解!」


 光はマウンドへと走る。高校野球ではベンチから監督が出て行くことができない。その代わりに三十秒間の伝令を三回行うことができ、ベンチ入り選手が監督からの伝言を伝える。


 伝えたことは三点。またピンチとなれば代えること。この回が終わればどちらにしても交代することだ。


 そして、『絶対に抑えろ』、期待しているからこその激励を送った。


 スコアは五対一と大幅に負け越している。しかし、まだ逆転のチャンスはあり、そのためにはこれ以上失点をせずに苦しい現状でもベストな状態で攻撃を迎えることが必要だ。


 例え負けたとしてもこれ以上試合を壊さないことにも意味がある。


 伝令に行った光が戻る。


「伊澄からも伝言。『任せろ』ってさ」


「頼もしい。……でも打たれてるのによく言うよ」


 巧と光は苦笑いし合う。


 ただ引きずっていない様子なのは安心だ。


 攻撃も、チャンスがあるとすれば次の攻撃……六回裏か八回、九回裏辺りだろう。上位打線に回るときが勝負だ。


 そのためにはこの後をしっかり締めて攻撃へ繋げていきたい。


 打席には途中から交代したピッチャーの狩野が入る。


 初球からストレートをストライクゾーンに入れていく。気持ちを切り替えるタイミングで確実に初球を入れていきたいと考えてだろう。


 二球目、叩きつけるような投球は縦へ大きく変化するドロップカーブだ。狩野も反応しようとするが、変化について来れずにバットが空を切る。


 三球目……外へ逃げるスラーブに空振り三振。三球で仕留めた。


「よし、上手く切り替えてるな」


 キレがある変化球。ついに投球数は八十球を越えたが、それでもまだ球は生きている。


「ワンナウト!」


 司の声に反応して、全員が声を出す。


 伊澄はライトを守る陽依に視線を向ける。それに気付いた陽依はグラブを挙げ、手を口に添えながら「ナイボー!」と叫ぶ。


 続くのはライトの万代。良いところはないが、六番に入っているだけあって打撃は上手い。前の打席でも粘って六球目で決着がついたほどだ。


 初球は様子を見ていく。内角のデッドボールコースからストライクゾーンへと狙ったカーブは外れてボール球となる。


 二球目は内角低めへのストレートを見逃してストライク、三球目は外角へのカーブをカットされてファウルとなった。


 四球目も内角高めのストレートをカットされ、ファウルとなった。


「ちょっとテンポ悪くなってきたかな?」


「そうですね。さっきの狩野さんを三球で打ち取ってから今粘られてるんで、長くなりすぎると流れも悪くなりそうですね」


 美雪先生の言葉に自分の考えが的外れでなかったと確信する。


 試合の流れというのは考え方が人それぞれだ。例えばノーアウト満塁を打ち取れば『守備側に流れが来ているかもしれない』という感覚を持つだろうが、今回のように球数が増えて流れやテンポが悪くなったというのはあくまでも感覚に等しい。


 少なくとも美雪先生から見ても、巧から見ても、流れが悪くなりそうな雰囲気があるという現状だった。


 五球目、内角への速い球だ。際どいコースの球に、万代も反応せざるを得ない。ボールに対して万代は平行にスイングする。しかし、ボールはバットから逃げ、空を切った。


「ストライク! バッターアウト!」


 万代は唖然としている。速い球ながらボールが変化したことに驚いている様子だ。


 そして驚いているのは巧も同じだ。


 このボールは今まで見たことない。


 七色のカーブを扱うと言われながらもこれはあくまでも比喩だった。普通のカーブ、スローカーブ、小さいカーブ、大きいカーブ、スラーブ、ドロップカーブと六球種。


 もう一つ変化球を覚えようとしているのは知っていた。ただ、それが何なのかは秘密だと言われていた。その答えがこれだ。


「さっきの、速いのに曲がった?」


「……はい」


 驚きからまともに言葉が出ずに相槌を打つだけだ。


 パワーカーブ。速く鋭く曲がるカーブだ。


 この七球種目のカーブに伊澄はまだ納得がいっていない様子でもある。


 これでまだ未完成なのか……?


 十分なボールだが、確かに他のカーブに比べて完成度は低い。しかし、テンポが悪くなりかけたここで意表を突いたパワーカーブにバッターは手も足も出なかった。


 元々完成度の高いピッチャーだった。しかし、更に上に行こうとしている。


 七つ目のピースが埋まった。伊澄はこれで名実ともに七色のカーブを持つピッチャーとなった。


「ナイスボール!」


 司の声に巧はハッとする。


 まだまだこちらの底力を見せていない。練習試合では選手の実力アップはあるが、実力を見るという点では諸刃の剣だ。しかし、伊澄は七球種中四球種しかまだ見せていない。夏の大会も相手にとってデータが不十分なまま戦える。


 これで二者連続の三振からツーアウトで七番の大町を迎える。


 その大町に対して、初球からパワーカーブを見せた。変化によってバットの焦点が合わない。詰まった打球だ。


「セカンド!」


 夜空は一瞬反応が遅れたものの、問題なく打球を捌いて一塁へ送球しアウト。打たれてから三人で仕留め切った。


 攻守が交代する。しかし、ここで巧は猛烈な違和感に襲われた。


 指摘するべきかどうか、悩んでしまう。いや、後のことを考えれば言わなければならないだろう。そう考えて口を開こうとした瞬間だった。


 ベンチに戻ってきた由真が夜空の肩を掴んだ。


「ちょっと足見せなさい」


 そのやり取りに部員の視線が集まる。


「え、どうしたの由真。なんか怖いんだけど」


 夜空はあっけらかんとした様子だ。


「ほら、次由真の打席だから行って来なよ」


「あなたが足を見せたらね」


 攻撃の準備に取りかからなければいけない。しかし、由真は断固として拒否した。


「……夜空、一回座って」


 巧も夜空をベンチに座るように促す。


「由真さん、いつ気づきました?」


「ちょっと前からおかしいとは思ってたけど、さっきの打球処理が明らかに遅かった」


 確かに一歩出遅れた。ただ、それは一見すると大した遅れでもなかった。それでも巧もそれに違和感を覚えていた。


 部員は何のことかわからないといった様子だ。そのため、巧はハッキリと口にした。


「夜空、怪我をしてるなら代える。してなければこっちの勘違いだったってだけだ。足を見せないなら問答無用で代える」


「……はあ」


 夜空は観念したようにストッキングと靴下を脱いだ。


「これはダメだな」


 見ただけでわかる。明らかに夜空の足が腫れていた。


「いつからだ?」


「……四回くらいに飛び込んだ時」


 確かにそのプレーは記憶にある。スコアを確認すると、四回表、柳生の打席がセカンドライナーとなっている。この時だろう。


「由真さん、この試合、夜空のフル出場が条件なので一度向こうの監督と話をします。審判に伝えて来てもらっても良いですか?」


「わかった」


 この回の先頭打者の由真は、打席の準備をしてバッターボックスへと向かう。その際に事情を審判に話、審判が向こうのベンチへと話をしにいく。その審判が戻り、由真と言葉を交わすと由真がベンチに引き返して来た。


「事情聞きたいから来いってさ」


「ありがとうございます」


 普通の試合であればグラウンドに足を踏み入れることはないだろう。しかし、あくまでも練習試合だ、そしてこの試合の主催である皇桜の許可が取れたため、試合中始めて巧はグラウンドに足を踏み入れた。




 結果はあっさりとしていた。怪我なら仕方ないと了承を得られた。出されていた条件が反故となってしまった時点で試合の中止も覚悟していたが、ありがたい話だ。


「この回に回る夜空の打席から交代な」


 どのように交代しようかというのは悩む。ブルペンには元々準備していた棗の元に司を向かわせて、キャッチボール相手となっていた梨々香とベンチにいた瑞歩に代打のじ準備をさせる。八回から登板させる予定だった黒絵と、守備を考えて光、煌、鈴里も準備をさせておく。


 さてどうするか。代打起用と守備交代は由真と七海次第だ。打順の兼ね合いで出す代打も守備も考えなければいけない。


「由真さん、お願いしますね」


「頑張ってみるよ」


 由真が打席に向かう。


 当初の予定ではほぼスタメンをそのまま使い、代打と守備で多少交代しながら代走で光を使うことくらいしか考えていなかったため、試合に出ない選手がいるという想定だった。


 しかしこの試合、総力戦になりそうだ。

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