第25話 三年生と一年生⑧ 因縁と再戦

 ボールから仄かに香る土の匂い。手に馴染むボールの感触。硬いな滑らかな革の感触を纏い、赤い刺繍糸を撫でながら硬球の感触を味わった。


 いつかこの時が来るとは思っていた。練習相手にでもなればと監督になることが決まってから練習してきた結果が今ここで活きるとは思わなかった。まさかこんなに早く戻ってくることになるとは思っていなかったが、なあなあのまま三年間戻らないよりはマシだろう。


 巧はマウンドに足を踏み入れる。それは練習試合だが、ただの練習でも、監督としてでもない。ピッチャーとしてだ。


 投球練習をし、感触を確かめる。まだ以前に比べて球速は戻っていない、いや、二度と戻らないが、それでも明鈴の最高球速を誇る黒絵と同等くらいかやや劣る程度までは投げられる。


 次の打者は途中から二番に入っている伊澄だ。二塁走者も明日香から光陵の乙倉奏と代わっており、もう一点は確実にもぎ取ろうという姿勢だ。


「伊澄!」


 投球練習が終わり、バッターボックスの前で準備をする伊澄に巧は声を上げる。


「今日も負けない」


 高校に入学してから夜空に連れられて初めて女子野球部と対面したその日。巧の監督を賭けた対決。そして、中学最後の夏に巧が怪我をした日の最後の打者。もっと前からそうだ、瀬川伊澄という打者との対戦を心のどこかで楽しみにしていた。


「やっと戻ってきたね」


 伊澄もそうだ。高校に入学してから、中学時代に叩きのめされた因縁の相手が巧だ。


 お互いに闘志は漲っている。この合宿の試合というだけでなく、ただ二人の対戦はこの二人だけの世界だ。


「負けない」


 伊澄はそう言うと荒れたバッターボックスを整え、バットを構える。


 初球は決めてある。巧はセットポジションから、左脚を上げ、投球態勢に入る。投球フォームは以前とは違い、サイドスロー気味のスリークォーターだ。一番身体に負担が少なく、球速が落ちたことによって変化球主体となるため、一番しっくりきたのがこのフォームだった。


 踏み込んだ足、そして腰、体全体の力を肩、腕や肘、そして指先へと集約させる。巧の指先から放たれた指にかかったボールがキャッチャーミットに向けて一直線に走る。


 伊澄はそのボールに反応したが、バットは動かずに見送った。


「ストライク!」


 やや甘い球だが、今の巧の中では球威の乗ったベストボールだ。手を出されていてもそうそうヒットにはできなかっただろう。球速も百十キロほどと初球から全開だ。


 伊澄は小さく笑い、バットを構え直す。


 巧はボールが返球されると、グラブを外して中に僅かながらについている土を落とす。そしてボールの感触を再度確認するとともにボールの汚れを落とす。


 テンポが悪くなるため毎回はしないが、試合のターニングポイントや抑えたいというここぞと言う場面でのルーティンだ。試合球となるとそこまで汚れは付いてないのだが、少しでも余分な物を落としたいという願掛けでもある。


 ロジンを指先に付け、粉を払う。慣れ親しんだ一連の動作の懐かしさに浸りながらも投球へと思考を移す。


 ストレートだけで勝負はできない。球速や球威が以前のようであってもそれだけで抑え切れるほど甘くはない。リードする瑞原景のサインに何度か首を振りながら、きたサインのうち納得のいくものに頷いた。


 二球目。初球と同じようにセットポジションから投球動作に移り、やがて巧の指先からボールが放たれた。


 ど真ん中へ向けて走るボールに伊澄はバットを出しかけるが、ホームベース直前で軌道が変わり、滑るように縦に変化する。ハーフスイングだがバットは回らずボール球となった。


 縦のスライダー。巧が得意としていた変化球だったが、いとも簡単に見抜かれてしまった。


「マジかあ」


 巧は一人呟いた。三振を奪う決め球であった縦のスライダーを二球目に持ってきたにも関わらず空振りされ取れなかった。伊澄の選球眼が上がったというのであればまだいいが、やはり以前に比べて衰えているということを考えると怪我が原因とはいえショックは隠せない。


 三球目、高めのストレートに伊澄は合わせるが、バットの上側に当たりボールはバックネットに当たって音を立てて落下する。


 追い込んだ。


 あと一つストライクが取れればアウトカウントが一つ点灯する。しかし、伊澄から空振りや見逃しを奪うのは容易ではない。


 四球目、全身の力を込めて指先から抜けたボールを放つ。伊澄はタイミングを外され、早めに足を踏み込んだためにバットに力を加えることができない。なんとか手だけで反応し、当てた打球は三塁線を切れるファウルとなった。このチェンジアップは黒絵に見せたかったボールだ。得意球ではないが、普通に通用するチェンジアップはこれだと示したかった。


 五球目、追い込まれて打ち気になっている伊澄であれば手を出してくれると思ったが、高めのストレートには反応もせずに見逃しボール球となった。


 なかなか簡単には打ち取らせてくれない。ならばこれはどうだ、と六球目もストレート、今度は内角低めへの際どいボールだが、伊澄は振り遅れて一塁線へとボールが切れる。


 七球目。体から指先にうまく力が伝わっている。そして指先に付けたロジンがいい具合に滑り止めとして指がボールにかかっている。最高だ。


 中指、人差し指と力を加え、二本の指がかかっていたボールはやがて指の腹、爪と名残惜しく離れていく。伊澄はすでに足を踏み込み、バットを回そうとしている。しかし、ボールはなかなかホームベースまで到達しない。


 ボールはど真ん中に向かって走り続けるが、それはゆっくりと、だ。タイミングが外されたことに気付いた伊澄がボールをカットしようとなんとか手だけで反応しようとするものの、ボールは弧を描くように伊澄から逃げている。巧から放たれたボールは真ん中、外角低め、やがてボールゾーンへと軌道を変えた。


 不格好なスイングとともに、伊澄のバットは空を切る。そして、ボールはキャッチャーミットへと収まった。


「ストライク! バッターアウト!」


 巧と伊澄の戦いに終止符を打ったボールはカーブ。伊澄のウイニングショットでもあり、それ故に一番得意としているボールだ。


 何球か投げたストレートを意識し続けた結果、対応ができていなかった。いや、伊澄が巧のストレートを意識していたのは去年の夏からずっとだ。待ち続けたボールではなく、最後には得意の変化球にやられた形となった。


 巧は小さくガッツポーズをすると、伊澄を打ち取った喜びは束の間、次の打者へ視線を向けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る