異変

 未知の樹海を行き来すること、既に八年。十一歳の時からこの場所へ通っていたハルにとってこの森の構造は脳内にしっかりと刻み込まれている。

 どこをどう行けばどこに出るか。どこが魔獣が少なく比較的安全な道か。それらを比喩抜きで目を閉じていても分かる。

 ここまで至るのに失敗は無かったとはとても言えないが、そういう過程があったからこそ今の境地がある。

 故にこの森で起こりうる可能性は掌握しきっていたはずだったが⋅⋅⋅⋅⋅⋅、


「──クソッタレが⋅⋅⋅⋅⋅⋅!!」


 腹部から滲み出る血液を手で押さえながら、ハルは悪罵を飛ばした。

 巨木の幹を背後にハルは周囲の状況に移る。背には巨木。その周囲を囲うように円陣を組んだ蜥蜴とかげを彷彿とさせる爬虫類型の。逃げ場はない。先程の不意打ちで負った傷のせいで身体が重い。武器はあるが、一体ならまだしも数十、あるいは百にも昇る数を捌ききれるとは到底思えない。

 想像しうる限りで最も最悪な状況に追い込まれたハルは思う。


「何でここにコイツらがいやがるんだ!」


 樹海ここで出没するはずのない魔獣が何故この場所にいるのかと。










 時は少し巻き戻る。

 樹海に侵入したハルはいつものルートを辿り、奥へ奥へと走っていた。いつものルートとはいっても昨日とは違う場所から入った。樹海の出入り口は一つではなく、向かう区画によって細かく分けられている。ここはとにかく魔獣が多い。密集率で言えば寧ろ外よりも間違いなく高い。それこそ巣窟と言ってもいいほどに。

 何の情報も無しにこの森に挑むような愚か者はほぼ間違いなく魔獣の餌、もしくは道に迷いいずれ倒れ広大な森の肥やしとなるのが落ちである。いかに安全な道を選択し進んでいくのがここで生き残るための必須条件だ。

 

「ふぅ⋅⋅⋅⋅⋅⋅」


 無事、目的地に辿り着き、ハルは安堵の息をついた。いつもの安全な道から来たとはいえ、それは安全なだけで絶対と言うわけではない。実際、ここへ来るまでの間、何回か魔獣を見かけた。最も見つけたのはこちらだけで相手は気づいていなかった一方的なものでしかなかったが。

 とはいえこれ以上、安全な道を探すと言うのも非常に困難なものだ。探すにしても初見の場所を見て回らなければ行けないのは避けては通れない。その途中で魔獣の群れにでも遭遇してしまえばそれこそ一貫の終わりというものである。そういうことも考慮すればやはりこの道が最善の道である事で間違いはない。

 

 ポーチへと手を入れ、愛用の漆黒のナイフを取り出す。今回は何かを採取するのではなく、探索範囲を広げるための調査の為、無駄に大きなリュックを持ってきてはおらず、普通のウェストポーチだ。

 

「これは⋅⋅⋅⋅⋅⋅違う。これも、違う。──これだ」


 幹の表皮を指でなぞりながらまじまじと確認していく。自分のつけた切り傷を探しているのだ。

 こうやって傷を付けていくことで道に迷わないようなマーカーを作る。それも分かりやすいように力を込めて深く切るつもりで。樹海の木は皆、異常な程に硬い。普通のナイフでは刃を通すのもやっとな程に。

 ハルの使っているナイフは樹海に生えている樹木の中でも最高硬度を誇る種類の表皮で作られている。当然、その切れ味は相当なもので、竜の鱗さえも容易く切り裂くことが出来る代物だ。

 とはいえ素材が良くても人間の力ではその切れ味を最大限引き出すことは出来ず、こうしていちいち力を入れてやらねば刃が通らない。

 そんな苦労をしつつも、作業は順調に進み、一時間程経過した頃。


「ふぅ⋅⋅⋅⋅⋅⋅。今日はこんなんでいいか」


 ハルはポーチを開け、ナイフをしまうと最後に傷を付けた樹木に腰掛け座り込んだ。本当ならすぐにでも退くべきであったが、少し思考する時間が欲しかった。

 

 ──あの花は何で咲いてたんだろうか。


 脳裏に浮かぶのは先日見たばかりの赤い花。この世から死滅した筈の命。それが何故、このような場所で見つかるのか。それが不思議で堪らなく感じていた。


 (あの花⋅⋅⋅⋅⋅⋅センニチコウはどこから来た? この樹海の植物には葉はあっても花は咲かない筈だ。となれば当然、生殖は不可能。別の原因があるのか?)


「────っ!」


 そんな思考にふけっているのも束の間、ハルは樹海の異変に勘づいた。一見、何の変化も見えないようだが、絶え間なくここへ訪れているハルだからこそ分かる。何かが、変だ。


「今のはいった──」


 瞬間、何かがハルの右脇腹を穿った。

 困惑、気付き、焦燥、そして──、


「ぁ、がぁああああぁぁああああぁ、あああぁあぁぁあぁぁあぁぁあアアアア!!!!」


 痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い痛熱痛熱い痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛痛痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱痛熱──!


 凄まじいまでの激痛が熱を持って穿たれた脇腹を中心に勢力を広がっていくのを感じる。これまで怪我を負わなかったなんて事は決して無かったが、今回ほど致命的なものは今の今まで受けたことが無かった。せいぜい、顔の各所に軽い裂傷が出来たぐらいだ。故の衝撃。故の激痛。


「──キキッ」


 脇腹を押さえ激痛に晒されるハルの曇った視界に映り込んだのは左右非対称のギョロ目を持った蜥蜴とかげのような生物────魔獣だ。

 ハルの腹を穿った血糊ちのりの付いた長い舌を口の中に納めた蜥蜴型の魔獣は獲物を品定めするかのように倒れ伏すハルを見つめている。

 

 (やべぇ⋅⋅⋅⋅⋅⋅! 逃げねぇと!)


 重い身体を起こし、何とか立ち上がる。今、相手はまだこちらを観察しているだけで、本格的に襲おうとはしていない。逃げるなら今の段階しかない。

 激痛に襲われる中で冷静な判断を下したハルは来た道へと一直線に向かおうとした──が、


「⋅⋅⋅⋅⋅⋅マジかよ。冗談キツいぞ」


 視線の先にいたのは今、様子見中の魔獣と同じ種の蜥蜴型魔獣だ。だが驚いたのはそこじゃない。

 一匹現れた事で他にもいることは分かっていた。分かっていたのだが、


「キキ」「キキキ」「キッ」「キキッ」「キッキキ」「キキ」「キキキ」「キッキッキ」「キキッキ」「キッキキ」「キキ」「キッキッキッキ」「キ」「キッキキキ」「キキッ」「キッキッ」────。


 そこにいたのは数えるのも嫌になるほどに無数の魔獣がハルへと熱い視線を送っていた。熱い視線とは言っても甘い意味の物ではなく、どちらかと言えば獲物に対する執着を含んだ物だった。


 その数を前に思わず後退したハルの背中に触れたのは先程まで自分が寄り掛かっていた硬い幹だ。さっきまでは自分に楽をもたらしていた幹は今や逃げ道を塞ぐ障害となっていた。

 

「──クソッタレが⋅⋅⋅⋅⋅⋅!!」


 最悪の状況に悪罵を飛ばし、ハルは周囲を囲う魔獣を睨み付けた。赤い瞳から憎悪を湧き出させながらハルは思う。


「何でここにコイツらがいやがるんだ!」


 ハルは疑問と憎悪を悪罵と共に吐き散らした。


 現在、ハルへと襲いかからんとしている無数の蜥蜴型の魔獣は『悪蜥蜴バジリスク』と呼ばれる爬虫類型の魔獣だ。単独で行動することはなく、一つの大きな群れを成して行動する。一匹一匹の強さは魔獣の中では高い方ではないが、常に群れで行動する彼らにはその考えは出来ない。が、問題なのはそれらではない。問題なのは彼らは住まないからだ。

 平地に特化した身体の作りをしている悪蜥蜴にとって、植物や石などが転がるこの樹海は最も苦手とする地形の筈。より自分達の有利な環境でしか活動しない魔獣にとってこれはその法則に反する事だ。

 

「キキッ」


 ふと、群れの中の一匹の目つきが変わった。それは獲物を前にした捕食者の目のそれだ。それに呼応するかのように一斉に目の色を変え始める悪蜥蜴。時々、長い舌を出し入れしながらハル獲物に滲み寄っていく。飛び掛かるのに最適な距離と見た瞬間に、十匹程が一斉に飛び掛かってきた。


「くっ⋅⋅⋅⋅⋅⋅! 喰われてたまるかぁ!」


 上体を低くし飛んできた悪蜥蜴達の下を転がり潜り抜けた。かわされた悪蜥蜴達は視線だけは移動したハルの姿を捉えていたが既に宙にある身体の進路を変えることが出来ずにそのまま集団で固まるように激突した。

 それを狙っていたかのように待ち受けていた悪蜥蜴が鋭い歯を見せハルを噛み砕こうとしようとするが、


「──しッ!」


 ハルに喰らいつく寸前に頭部が横にズレ、命の灯火を消す。傷口を見ればそれはただ斬られたと言うよりもという表現が正しい。それはそうだろう。事実、そうしたのだ。

 ハルの握る武器は熱光剣ヒートブレードという光の刃だ。

 光苔ひかりごけの発する光の粒子は一点かつ高密度に集まると干渉できるようになる非常に特殊なものだ。高熱を帯びたそれは物によっては1000℃を超える危険物となる。熱光剣はその原理を応用したもので、あらゆるものを焼き斬る光剣だ。特にハルが使っているのは実戦用に特化した特別な品でその熱は1200℃以上の超高熱だ。ほんの少し触れただけでも火傷は免れない。光の剣という事もあり非常に軽く扱いやすいが、扱いを間違えば自分の腕ごと焼き斬ってしまう可能性すらある。


「ぐぅぅ⋅⋅⋅⋅⋅⋅!」


 攻撃を回避した際に一度手を放した傷口から赤黒い液体が滴り落ち、膝を着きそうになるハル。だが流血を気にすることの出来る状況ではない。

 傷口を庇いつつ、何とか踏み留まり、疾走する。とにかく疾走する。どこへ辿り着くかは分からない。だが帰路を完全に絶たれたこの絶望的状況を乗り切る為にはまず悪蜥蜴を完全にく必要がある。とはいえ、悪蜥蜴は非常に執着心が強い。一度狙いをつけた獲物はしつこく追いかけ回す習性がある。それが目の敵にしている人間なら尚更だ。


 (アイツらはここじゃ全力を出せない。なら、俺にも勝機はある⋅⋅⋅⋅⋅⋅!)


 各所にある段差や凸凹の激しい場所を速度を落とすことなく、進行を邪魔する枝などは熱光剣で焼き斬り、疾走するハル。対して悪蜥蜴は段差や草木に足を捕られ、転んでは立ち上がりを繰り返している。

 とはいえ彼らは魔獣。人間のそれとは比較にならないほどの身体能力を身に宿している。

 地の利を利用する事で何とか追いつかれずにはいるが、それでも距離を離せたとは言えない。そして非常に大きな問題がもう一つ。


「あぁ、ク、ソ! 血が、血が足りね、ぇ⋅⋅⋅⋅⋅⋅!」


 激しい動きをし血の巡りが速いためか、風穴の空いた脇腹から大量に赤黒い液体が溢れ出ていっている。左手で押さえ込みながらの疾走ではあるものの、後ろにも穴が空いているために効果は非常に乏しいものになっていた。

 走りながら自分の置かれた状況と傷の深さを分析しようと試みる。

 逃走を開始して一時間近い。帰路は絶たれ、どこかに出るかも分からない道を行くことを強いられている。綺麗に貫通し穴は前だけでなく後ろまで続いている。腸の一部が体内でぐちゃぐちゃに混ざり、残骸が今にもはみ出しそうな勢いだ。心拍数の上昇と共に溢れ出る血の量も次第に増えてきている。少なくとも全体の三分の一以上は既に溢れ出ている筈だ。

 失われていく血液と共に体力を奪われ、今まで保っていた速度もついに限界を迎え始めた。それでも走る。ひたすら走る。でなければ────死ぬ!


 そう、絶望的観測に唇を噛んでいた時だ。


「──! あれ、は⋅⋅⋅⋅⋅⋅!」


 見えてきたのは見慣れた青い光だ。間違いない。そこは先日訪れたばかりの自分が知る中でこの樹海で最も秘境と呼ぶべき場所。

 ハルは青い光へと走り込んだ。そこに入れば自分のいつも通る抜け道がある筈だからだ。そこへ行けば、確実に逃げやすくなる。


「も、う少、し。もう少しだけ、持って、くれ、俺の身体!」


 己を鼓舞し、ようやく見つけた光明へと向かおうとする。そして、


「よし! ここ、からだ!」


 入り込むことに成功した。ここへ来ればもう勝ったようなもの──


「ぁ⋅⋅⋅⋅⋅⋅」

 

 一瞬、ふらいついた足が木の根にかかり、無様に頭から倒れ込んだ。口の中に砂利が入り込み、転がる石や枝などによる打撲や裂傷、腹の傷に草木や泥、石が入り込み、既にボロボロの体内をさらに穢し、犯し、傷口を広げていく。霞む視界に映るのは倒れ伏す自分へと滲み寄る狂気を宿した目の魔獣、悪蜥蜴。

 血痰けったんを溢し、身体の制御を捨てた⋅⋅⋅⋅⋅⋅否、利かなくなったハルは思う。


 



 ──俺は、死ぬ⋅⋅⋅⋅⋅⋅の⋅⋅⋅⋅⋅⋅か。





 思えば実に虚しい時間だった。自分でも分からない衝動に駆られ、周囲の人間からは呆れられ煙たがれ、それでも自分に構ってくれる親友から距離を取り、相棒との約束を蔑ろにしようとし、憧れたあの背中には置いていかれた。ああ、嗚呼なんて──



「虚⋅⋅⋅⋅⋅⋅しい、人生⋅⋅⋅⋅⋅⋅だった⋅⋅⋅⋅⋅⋅な」


 意識が暗転する⋅⋅⋅⋅⋅⋅──。












 

































 ──あなたは誰?


 




 


 



 


 

 

 


 

 


 

 

 

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