第1話 優しさ
彼の名前は、A。
彼には、三歳上の兄がいた。
Aはお金持ちではなかったが、暮らしに困ることはない平凡な家庭に生まれた。彼はそこでスクスクと育つ。彼が一番最初に、「悲しみ」を覚えたのは小学校で行われた絵のコンクールであった。
三年前、Aの兄はこのコンクールで最優秀賞をとった。兄と一緒に絵を書くことが大好きだった彼は、自分も賞をもらって当然だと信じていた。
題名は忘れてしまったようだが、その時のことを彼はよく覚えていて、こう供述している。
「本当にあの頃は自由で、幸せだったんだ……人を疑うことも比較することもない。そこにあるものだけが世界で、自分の行動や感情は本当の自分だったんだ。いつから、いつからなんだろうな……」
結果は1ヶ月後に発表された。簡潔にいうと結果は、何も無かった。
生徒全員の絵が一面に飾られていたが、賞を取れなかった絵は右下に【よく頑張りました】のシールが貼られた。彼は、言葉の意味がそのままの意味ではないことを学んだ。
彼は、中学生になってから兄との差を感じることが増えた。勉強はクラスで、真ん中くらいの成績だった。Aの兄は学校で常にトップの成績を取っており、生徒会長も務めていた。
兄は所属していたテニス部で県大会出場を果たし、Aはその背中を追ってテニスを始めたが試合に出ることすら叶わなかった。「本当に同じ兄弟かよ!」、部活の先輩が笑いながら言った冗談は笑えなかった。
中学二年生の頃、彼は初めて定期テストで満点をとった。満点を取ったのは国語だけだったが、他の教科も上位の結果だった。当時、自分は凡人だと思い込んでいた彼は、学校のテストさえも特別なことに感じられたのだ。その前の晩に徹夜をした甲斐が報われ、本当に嬉しかった。
Aは内側からあふれる喜びを抑えることが出来なかった。ドアを豪快に開き、リビングに向かった。
「母さん! 国語のテスト、満点だったんだ。順位はまだ出てないけど多分上の方だろうな〜! ねぇね……」
彼の言葉を遮るように母は言った。
「ごめん、忙しいの、それより、まず手を洗ってきて頂戴。汚いまま入ってこないで」
彼の努力は「それより」の四文字で否定された。理由は分かっていた、兄がいつも満点をとっていたからだ。Aの家族にとって、満点の紙切れなんて見飽きたものだったのだ。見飽きたものには興味がない、母親はそういう性格だった。
Aは、褒められなくてもそれが当たり前だと思って生きた。凡人という言葉が似合う人間だった。
Aは、生きている中で母親に褒められることはほとんど無かった。凄い事をやっても、いつもそれを超える兄がいた。
そんなAが唯一、褒められることがあった。
それは「優しさ」であった。
Aの母親は損得でものを図る人間であった。
Aは、いつも家事の手伝いをした。困っている人がいたら手を差し伸べた。イジメを嫌った。
そんな彼のことを母親は褒めた。母親は親の間で語られるAの姿しか気にしていなかったのだ。自分の評価しか気にしない、褒められていた理由がこんな残酷な理由だってことは後になって知った。純粋に、ただ純粋に褒められるという行為が嬉しかった。
優しいことを人にすると、人は喜び「ありがとう」といって感謝をする。
彼は人に優しさを与えた時、初めて自分が認められたと感じた。
この時、Aの顔面には徐々に仮面ができていた事を、まだ誰も知らない。
彼は、偽りの仮面の被り方を知った。
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