鷹と小雀 ~終戦の日に寄せて~(後編)
足の向くまま あてどもなしに
流れ流れて 白髪に変わり
たどり着いたぜ このシリーズに
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前回は、敵の爆撃機が墜落炎上したところまで書きました。
高射砲でも駄目なら、あとは肉弾攻撃しかない。その悲壮きわまりない現状を、私は見てしまった。興奮冷めやらぬ私は、翌日登校すると、数人の級友たちの前で、一部始終を語りました。
すると、思いがけない反応が、間髪を入れず起こりました。聞いていた級友の一人が、こう言ったのです。
「日本の戦闘機の体当たりなら、俺も見た。高射砲で撃ち落とせないのなら、ああするしかないんだな」
悲壮感をこもらせた声でした。そして、言葉を続けます。
「実はな、体当たり攻撃のときには、操縦士は乗っている飛行機が墜落する前に、落下傘で機外に飛び出すんだよ」
なるほどと思いながら、私は黙ってうなずく。
「敵地での戦闘じゃない。ここは日本の内地だ。地上に降りてから、敵に襲われる心配など、まったくないからな」
「でもね、昨日は、落下傘で飛び降りた姿を見なかったよ」
「じゃあ、死を覚悟しての特攻だったのかも。俺の見たときは、激突直前、操縦士は確かに機から脱出した。落下傘で降りてゆく姿を、この目でしっかりと見届けたんだ」
「それはよかった」
ほっとして、私はそう答えました。回りにいた級友たちも、私と同じ表情を浮かべました。
「ところが、俺の言いたい話は、これからなんだよ」
話し手の硬い表情に、私も聞き手の級友たちも、顔を引き締めます。
「その落下傘が、開かなかったんだ」
「えっ、開かなかった。故障してたのかな」
「そうらしいね。ときおりあるとか」
級友は軽い調子で答えたあと、口調を改めました。
「俺は、一部始終を目に焼き付けた。あの光景は、一生忘れられないだろう」
そんな前置を挟み、彼は言葉を続けます。
「落下傘が開かないまま、兵隊さんは下降しながらも、空中に浮いている。すると、故障した落下傘を必死で操りながら、体の向きを変えたんだ。そして、閉じたまま落ちてゆく落下傘に、ぶら下がっているような姿になった」
「それだけじゃ、助からないな」
「ああ。落下速度がいくらか遅くなっただけさ。で、つぎにどうしたと思う」
だれも答えない。どう答えていいのか、だれもわからなかったようだ。
「体の向きを、東京方面に向けたのさ。それから、背すじをぴんと伸ばして、挙手の礼をした。皇居の方向に向き、死に臨んでの、最後の思いを奏上したのだろうね。そして、その姿勢を少しも崩さずに、俺の視界から消えていった」
われわれも、しばらくは声が出なかった。
私たちの年代はこのように、戦地までは行かなかったが、戦争に関しては非常に身近な体験をしています。
戦いの末期には、中学生(今の高校二年生までが含まれる)の三年から上は、学校に通わず兵器の生産のために、工場に通っていました。軍を志願して、退学していった上級生も、少なくなかった。
私たち在校生は、よくそのような人を見送りにゆきました。駅前の広場で大きな円陣を作って、折り畳んだ国旗をたすきにかけたその人を囲み、賑やかに壮行の集いをしたものです。
ここで思い出したことがあるので、ちょっと異質な話ですが、当時のことを書き加えておきます。
みんなで、手拍子を打ちながら、大声を張り上げて、歌を歌います。さぞかし、勇壮な軍歌だろうと、皆さん、想像されるでしょうが、違うのですね。
たとえば、こんな歌詞です。
--汽車の窓から手を伸べて、送ってくれた君よりも、ホームの陰で泣いていた、可愛いいあの
まだこれはいい方で、凄まじいのは、
--人の嫌がる軍隊に、志願してゆくバカがいる--
というのもありました。歌の間には、民謡調の
という言葉もまじります。でも、暗い感じなどは、まったくありませんでした。
いったん覚悟を決めると、あのように死を恐れない人間になるのでしょうか。
級友と、こんなやりとりをしたこともあります。私が言いました。
「一つ上の上級生まで、工場通いになったね。となると次に下ってくる命令は、戦場行きだな」
「当然だよ。学徒出陣というやつさ」
「で、俺たちにまで、そんな命令がきたとき、俺たちはまずおおまかに、陸軍と海軍とに分けられ、少年兵として配属される」
「ああ。いずれそんな日がくるだろうな」
答えた級友は、私に質問しました。
「で、君はどちらに入るのが希望かい」
「俺はね、海軍志願だ。だって、鋼鉄で守られてる軍艦の中にいるんだ。弾に当たる心配はないぜ」
「でもね、海軍には船ごと沈められる危険があるぞ。そのときは乗員全員が、海の藻屑となるんだぞ」
「ああ、そうだったな。それも、辛い話だ」
こんな会話を、冗談ではなく、真顔で交わしていたものです。
教練の時間には、軍から出張してきた配属将校が、銃の扱いから教えます。
「着剣!」の号令とともに、左腰に吊っている鞘から、右手で短剣の柄をつかみ、すっと抜き出す。すでに左手が、地に立てた歩兵銃を支えています。抜き出した短剣を、銃口近くにつけてある受け金具に、一気に差し込みます。
整列しているクラスの全員が、一斉に動き、機敏な一動作で、着剣が終ります。見た目には、その素早さと、全員揃った美麗な動きに、拍手を送りたくなるかもしれません。
しかし私は、この動作をするたびに、暗くなる感情を抑えることができませんでした。
(地獄に入る準備と同じだな)
着剣、というのは、これから白兵戦、つまり敵味方入り乱れて、刃物という凶器を使っての乱戦がはじまるのを、意味しています。それまでは、距離を置いて睨み合い、それぞれが銃器を撃ち合うだけです。
地に掘った塹壕の中にいるのですから、弾は頭の上を飛んでゆき、体に当たる確率は低い。ですが、一定時間が過ぎると、突撃の命令が下ります。素早く塹壕から飛び出し、敵陣めがけて突進するのです。このとき、少しでも動きがもたついたら、臆病者の名がつき、もうだれも人間扱いしてくれない。
それどころか、軍隊での勤務期間が終わり、故郷に帰れば、地元のだれもが笑いものにする。さらには、孫子の代になっても「あそこの爺さんはな、突撃命令のときに、震えていたんだとよ」などと、囁かれる。もう取り返しがつきません。
私は日露戦争の実戦記を、幼い頃から随分多く読んでいます。その中に、丘の上に陣取った敵を撃滅するために、日本軍が同じパターンで、執拗に攻撃を繰り返す有名な話があります。
敵軍は時間をかけて、防御の構えをつくっていた。鉄条網のような障害物を、何重にも張り、前進に困難をきたすようにしておく。日本軍がそこでもたついているのを、丘の上に並べた銃器で一斉に攻撃。これで日本軍は、全滅する。この作戦どおりに、ことは運び、丘は日本軍の死体で埋まった。
その戦闘に参加した人の実戦記によると、まさにその通りだったが、死体は何重にも重なっていたという。
塹壕で着剣してスタンバイしていた兵士たちは、「突撃」の命令で飛び出すたびに、敵の餌食になって全滅。間を置かず、次の突撃命令が出る。そしてまた、敵陣に着く前に全員倒れる。この繰り返しなのです。
その部隊の番がきました。隊長は、「突撃」と怒鳴ろうとしたのですが、どうしても声を出せない。この一言で、部下たちは全員、死ぬことになるからです。懊悩の末、隊長は無言のまま、自分一人だけで飛び出した。
むろん、待ち構えていた敵の一斉射撃を一身に浴びて、隊長はその場で戦死しましたが。
ここまで書いて、私は自分の気持ちを言います。なぜ日本の以前の軍は、人の命をこんなにも軽く扱ったのか。その疑問が今、私の胸に拡がっています。私なりに考えて、その理由が推測できますが、それについては、長くなりますので、ここでは「いずれ、書きます」という言葉で閉じておきます。
この丘の争奪戦は、日本側の人的消耗が続くばかりでしたが、やがて変化が起きます。誰が聞いても、この攻め方は、あまりにも単純幼稚です。やがて、戦術が大きく変わる日がきます。
このときの司令官の親友で、戦術に長けた一人の指揮官が、新しく作戦を立てました。司令官の顔を立てて、自身はあくまで陰の人に徹します。準備に手間がかかりましたが、それを終えて、改めて攻撃再開。するとわずか一日で、日本軍は丘の陣地を占領します。
頭を使えば、犠牲を出さずに、戦争に勝てる。この勝利は、そんな単純な理屈を、はっきりと示しています。
またまた横道にそれてしまいました。話をもとに戻します。中学生初年級の私は、現役陸軍将校の教官の発した号令に従い、左手で握っていた歩兵銃の筒先に、短剣を装着しました。これで銃は、槍としても使えるわけです。
この先の演習は、槍で人を殺す実技指導です。芝居の演技練習とは違います。本番でうまくゆかなかったといって、あとで反省会を開く、などという、のんびりものではありません。うまくゆかなかったときには、もう私の命は失われているのですから。
(俺は、いちばん先に、死ぬだろうな)
私は体力には、まったく自信がなかった。ひょろひょろした体格。腕の力など、情けないほどありません。
敵の姿を想像してみました。中学初年級の私とは違い、逞しい青年たち。戦闘の体験を重ねたベテランが、命の遣り取りの場とあって、真剣になって襲ってくる。万に一つも、勝つ見込みはありません。
(やっぱり海軍に入って、水死したほうが楽かな)
などと、考え込んでしまいます。
(とにかく戦地に行ったら、少しでも早く死んでしまいたい。そのほうが、死を待つ恐怖から早く逃れられる)
私なりに見つけた信念でした。
ところが、実感として、終戦はいきなりやってきました。予告もなければ、それらしい噂も聞いていない。私の年代では、正確な世界の動きを判断する情報など、とても手に入りませんでしたから。
それからの日本の歩みについては、すべてがオープンになりました。復興からさらに前進し、国民はよくぞ頑張ったと、私は心から思っています。
いいことばかりではない。苦難の道でもありました。しかし、結果として、大きな成長を遂げました。
今現在も、疫病の蔓延など、決してのんびりと暮らせる環境ではありません。しかし、連日大空襲を受けていたあのひどい状態からも、今日の日本を造り上げた国です。必ず、みんなが安心して暮らせるように、変ってゆくはず。
今年、米寿を超えた私、遙か昔を偲びながら、国に抱く大きな期待の火を、絶やすことなく、胸で燃やし続けています。(おわり)
人生旅日記・鷹と小雀 大谷羊太郎 @otaniyotaro
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