12.コイツはオレの女だ、手ぇ出すな

(ふぁぁ、なんだかとびっきり甘い匂いがする……)


 ふんわりと香る匂いに誘われるように、私はついフラフラと歩みを進めてしまう。人垣をかき分けて見えてきたのは緑の壁に白いペイントがおしゃれなパン屋さんだった。ショーウィンドウの向こう側でパリッと焼けたクロワッサンが山積みになっている。


「でへへぇぇ、美味しそう……」


 思わず窓ガラスにベタッと貼りついて観察する。あぁ、きっとあれを口に入れたら豊満なバターの香りが口いっぱいに広がって、外はサクッとしてるのに中はふんわりと柔らかくて、焼きたての優しい甘さが……


「ルカ、ルカ、お腹減らない? 私、あれ食べてみたいなぁ」


 じゅるりとヨダレを垂らしながら振り返った先に、あの金髪イケメン執事の姿はなかった。代わりにガラの悪そうな三人組の男が足を止めて驚いたような顔をする。あ、あれ?


「何? 知り合い?」

「いや、知らないコ」


 さぁっと血の気が引いてく音がして、慌ててフードを目深にかぶりなおし顔が見えないようにした。


「ふーん、お腹空いてるの? 君」


(まっ、魔王じゃないです、ただの通りすがりの迷子です!)


 下手な事言えなくて黙り込んでいると、突然手首を掴まれて引っ張られる。


「えっ」


 そのまま引っ張られて、表通りから路地裏のような場所に引き込まれる。私より少し年上の三人組は軽い調子で先導し始めた。


「いい店知ってるんだ、ここで会ったのも何かの縁だし奢るよ」

「あ、あの、違うんです、ちょっと人を間違えちゃって」

「はーい四名様ごあんな~い」


 馴れ馴れしく肩を組まれビクッと身体がこわ張るのを感じる。おおお、落ち着け私、こういう時はそう、ハッタリ!


「ごめんなさいっ、私、彼氏待たせてるんで!」


 ええいこうなりゃ飛び出してルカを見つけて口裏を合わせて貰うしかっ! グッと押し返すように突っ張ると、男の人達はぷはっと笑い出した。


「何それ、彼女ほっといてるような彼とかどうでも良いっしょ」

「ほら、さっさと行こうぜ」


 あ、やばい、これ強引に押し切ろうとしてる。


(どうしよう、どうしよう……っ!)


 引き摺られそうになったその時、朗々と響く声がうす暗い路地裏に響いた。



「ここに居たか」



 その人物は私たちが今入ってきた路地の入り口で腕を組んでいた。彼はツカツカと寄ってきたかと思うと、私をあっという間に男の人たちから引き剥がしてくれる。


「ラスプ……」


 ワイバーンには乗らず、地上を駆けてきたはずの彼とは街中で落ち合う手はずになっていた。どうして私の居場所がわかったんだろう。


「なにアンタ、そのコの言ってた彼氏サン?」

「それともあれですかー、通りすがりのヒーロー気取りとかぁ?」

「ぎゃはは、喧嘩売るのに丸腰とかナメてんの?」


 三人組はニヤニヤ笑いながらパチンと腰のナイフを外す。えっ、嘘、本物!?


「オラ! 彼女の前でカッコつけてみろやァ!!」


 一人が威嚇するようにビュッとナイフを振る。どうしようとうろたえていた私はいきなりドガッと背中に衝撃を感じた。


「うぐっ」


 見ればすぐ近くにラスプの顔があって、身体で覆うように押し付けられていた。無言のラスプが彼らをにらみつけた瞬間、ぞくりと皮膚の表面をあわ立つような悪寒が走る。


 獰猛な野生動物を目の前にしているような、本能が今すぐここから逃げろと叫ぶような――そんな空気が路地裏を満たす。誰も、指先一つ動かせない。


「な、んだよ、お前」

「やべぇ、やべぇよ!」


 三人組も気配を察したのか、構えたナイフの切っ先が微かに震えている。『気』を直接向けられていない私がこれだけ震えるのだから、彼らは相当な威圧感を感じているはずだ。


「……」

「……」


 緊張の静寂がどんどん張り詰めていく。まるで少し衝撃を与えただけで破裂してしまいそうな風船に押しつぶされているみたいだ。


 どれだけそうしていただろう、地の底から這うような低い声が静かに口火を切る。


「おい」

「ヒッ!?」



「コイツはオレの女だ、手ぇ出すな」



「え――」


 いきなり手を振り上げたラスプは私の顔のすぐ側に拳を突き込む。ドゴォッ!と凄まじい音が響いて壁がめり込むと共に、視界の端で三人組がブクブクと口から泡を出しながら崩れ落ちるのが見えた。


「なんだ、根性ねぇヤツらだな」


 それを見て、けろっといつもの調子に戻ったラスプは壁から手を離した。パラパラと崩れ落ちた破片が私の肩に降りかかる。


「ほら、立てるか?」


 手を差し出されて、いつの間にかへたり込んでしまっていたのに気付く。


「!」


 頭の中でその手を取って立ち上がらなければと思うのに、身体がまったく動かない。助けられたはずなのに、危機は脱したはずなのに、いま私の心は恐怖心で満たされていた。その恐怖の対象は――助けてくれたはずのラスプだった。


(怖い……怖い!)


 たとえ見た目は普通のニンゲンだとしても、この青年の正体は恐ろしい魔物なのだ。その気になれば、私なんか瞬きをするより早く殺せるくらいの


「う、ぁ……」


 壁に押し付けた身体がカタカタと震えているのが分かる。言葉を紡ごうとしても口が上手く開かない。


 敏感に私の気持ちを察したのだろう、ラスプの赤い瞳に一瞬傷ついたような色が浮かんだ。


(あ……)


 彼は視線を逸らして差し伸べていた手を引っ込めようとする。


「……オレが、怖いか」

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