3.オレが今ここで美味しく頂いても何ら問題はないわけだ

 そう、文字通り飛び出したのだ。勢いを殺すため突いた手すりがメキメキッと嫌な音を立てて崩れ落ちる。その残骸と共に私は階下へと真っ逆様に落ちていった。


「きゃあああああっ!!」

「なっ!?」


 ちょうどタイミング悪く通りかかった赤髪の男の人が、ぎょっとしたように振り返る。燃えるような赤い瞳と一瞬だけ目が合って――



『我慢しなくていいんだよ』

『……』

『ちゃんと悲しんであげようね』



「!」


 ツキンと軽い頭痛と共に意識が戻ってくる。今、一瞬赤い子犬が視えたような――ってぇ!?


「っ!」

「がぁっ!!」


 うわ、今なんか、お尻の下からゴリッてすごく嫌な音が……。ガラガラと手すりの残骸が周囲に降りしきる中、おそるおそる下敷きにしてしまった人を見下ろす。黒っぽい服装に身を包んだ彼はガレキの中で白目をむいて気絶していた。わ、わ、


「大丈夫っ……」


 ですかと言いかけてハッと動きを止める。ポンと軽い音を立てて彼の頭に『それ』が出現したのだ。フサフサでピンと尖った三角形が二つ、頭の上で揺れている。


(耳、ケモミミだ、うわ、案外やらかい)


 思わず興味を惹かれてふにふにと触っていると、男の人がうめいて身じろぎをする。しまったつい! おばあちゃん家のワンコじゃないんだから! まずいまずいまずい、この人も十中八九、魔王軍の関係者だろう。ルカの言ってた家臣の一人かもしれない。慎重に降りた私は後ずさりするように這って逃げ出す。そろり、そろりと


「す、すみませんでしたぁ……」

「言いたいことはそれだけかコラァァ!!」


 中腰になり走り出そうとしたところで後ろから腰を掴まれ、ふわっと世界がひっくり返される。次の瞬間叩きつけられた背中に衝撃が走り、肺の中の空気が全部押し出されて一瞬息が詰まった。


「っ、いっ!」

「あ、女?」


 そこで初めて私の姿を確認したのか、上に跨った男の人が怪訝そうな顔つきで見下ろしてくる。何とかこの状況から逃げ出そうと、ケホッとむせながら身をよじる。


「動くな」

「ひっ……」


 首筋にあてられた爪はやっぱり普通の人間とは違うようで尖っている。あとほんの少し押し出すだけで私の皮膚を突き破って刺さるだろう。


「……」


 無言でジィィッと私を見ていた男の人は、おもむろにブラウスの襟元に手をかけてきた。ブツンとボタンがはじけ飛ぶ音がしてひやりとした空気が入り込んでくる。悲鳴を上げる間もなく彼は私の胸元に顔を突っ込んで匂いを嗅いできた。


「!?」

「どこぞの魔物が化けてるってわけでも無さそうだな、本当にただのニンゲンか」

「そ、そうなんです! だから――」


 見逃してくださいと言いかけたその時、ザラリとした触感に鎖骨を舐め上げられる。


「うぁっ!」

「なら、オレが今ここで美味しく頂いても何ら問題はないわけだ」


 低めのよく通る声でささやかれ、カーッと熱が上がってそして一気に肝が冷えていく。


 ――あなた様の血は、肉は、魂は、我々にとって至極のご馳走。その事をゆめゆめ忘れませぬよう


 ルカのセリフがよみがえる。頂くって、この場合、いったい、どっちの意味、で?


「他のオスの臭いも付いてない、喰わせろ」

「いやぁぁあああああっ!!」


 どっちでも大問題だ!! 誰か助けてーっ


「やっ……」


 スカートの裾から手を差し込まれてビクッと身体が強張る。ギュっと目をつむった――その時、



「ラスプ、おすわり」



 聞き覚えのある涼やかな声が響き、私を押さえつけていた重量がフッと軽くなる。続いて一陣の風が巻き起こり「うおぉぉぉ!?」という雄たけびと向こうの壁に何かを叩きつけるような音がエントランスホールに響いた。なんとか上体を起こした私のすぐ側に誰かがタッと着地する。助けてくれたその人物は優しく手を差し伸べてくれた。


「ご無事ですか、主様」

「ルカぁぁぁ~~」


 助かった安堵感でぶわっと涙が噴き出す。すがるようにその手に掴まると、はだけた胸元を隠すように上からふわりと黒いカーディガンをかけてくれた。その一連の動作はすごく自然で実にサマになっている。なんでだろう、執事っぽい服着てるせいもあるんだろうか。


「ルカてめぇ!」


 そんな場違いな事を考えていると怒りをにじませる声がホール中に響き渡った。もうもうと立ち込めるケムリの中から四つ脚の何かがシュタッと飛び出す。赤毛の大きな狼だ。大型犬よりもさらに大きな体高で、太い前足についた鋭い爪がホールの床に当たりガチンと音を出す。驚いたことに狼は長い舌をだらりと動かし流暢に話し出した。


「何がおすわりだっ、おすわり(物理)じゃねーか! いきなり蹴り飛ばすヤツがあるかっ」

「お、オオカミがしゃべった……」

「彼はライカンスロープの『ラスプ』 主様が分かりやすいように言うと狼男でしょうか」

「無視すんなゴラァ!」


 叫ぶと同時に狼はボムッと白いケムリに包まれた。モウモウと立ち込めるその中からさっきのおっかない赤髪の男が出て来てルカに詰め寄る。


「オレは侵入者を見つけたから捕まえただけだ。蹴られる道理はねーぞ」

「しつけもできていないようなバカ犬の毒牙で、魔王様を傷つけるわけには行きませんからね」

「誰がバカ犬っ――魔王?」


 ギロッと視線を向けられて思わずルカの背後で縮こまる。いや、ここで目を逸らしたら負けだ、がんばれ私。謎の意地が功を奏したのか、単にルカの庇護が勝ったのか、ラスプは襲ってくることはなかった。だけど


「コイツがぁ? なんの冗談だよ、アキュイラと比較するのもアホらしいぐらいの乳臭ぇガキじゃねーか」

「ガキ!?」

「おいチビ。何を勘違いしてるか知らねーが、さっきの『喰わせろ』っていうのは食肉としてって意味だからな。変な妄想すんなよ」


 あざ笑うようにフンと鼻を鳴らしたラスプは無遠慮にも私の体を上から下までジロジロと眺め回す。コイツ……!


「嘘! 変なとこいっぱい触ったくせに! セクハラ犬!」

「オレは狼だっ、ハッ! 自分に欲情されるだけの魅力があるとでも思ってんのか?」


 っかぁああああ~~ムカつく! 名誉のためにも言っておくが決して私は貧乳ではない。人並みにはっ、人並みにはあ、あ、あぅ…………控えめなだけだ!!


 いがみ合う私たちの間に苦笑したルカが割り込んでくる。もうその時には怒りによって彼らが危険な人外生物だということは頭から吹っ飛んでいた。


「まぁまぁ、無為な言い争いはそこまでにして戻りますよ。グリはどうやら本当に外出しているようですので紹介の続きは明日にでもしましょう」

「だってルカ――」

「主様」


 スッと下がった声の温度にビクリとする。ニコニコと笑ったままのバンパイアは逆らい難い威圧感を放出していた。


「私は「ここでお待ちをと」言ったはずですが、なぜ勝手に移動したのかその理由をお伺いしていませんでしたね」

「あ、あの、それは」

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