覚えてないよ

西田彩花

第1話

 目覚めると手足が痛んだ。体を動かそうとすると、全身に電気が走るようだった。何が起こっているのか理解できず、顔を動かす。頭のすぐ横に、自分の手があった。ベルトのようなもので、柱にぐるぐると固定してある。ベルトの内側には太い棘が無数にあり、それが手首から腕にかけて刺さっていた。痛みの原因はこれだった。もう片方の手も同様だ。


 足元を見ようとしたが、顔が下に向かない。左右にしか動かないのだ。おそらく足も同じもので固定されているのだと思った。座っている感覚はあるので、椅子の脚に結びつけているのだろう。痛みの範囲はふくらはぎまでのような気がしたが、脚全体が痛むので定かではない。


 自分が置かれている状況がわからない。なぜ自分はここにいるのか。


「おーい、誰か!助けてくれ!」


 声を出してみるが、物音ひとつ聞こえない。


 いつからここにいるのだろう。今日自分は何をしていたのか。思い出そうとすると、頭がずきずきと痛くなった。自分が誰なのかわからないような、そんな気もした。


 —橋爪大河。


 自分の名前だ。ひとりっ子で、割と甘やかされてきた自覚はある。高校のときにバンドを組んで、音楽にのめり込んだ。社会人になった今でも続いている趣味だ。あの頃は本気でプロになれると思っていたっけ。ギター片手に上京しようとしたら、両親に反対された。当然のように応援してくれるだろうと思っていたので、悲しみと怒りでいっぱいになった。


 だけど今なら両親が反対した理由がわかる。音楽で食べていくのは難しい。プロになれるのも、ほんのひと握りだ。金がなくて上京は諦めたもの、バンド活動は続けた。だけど、次第に自信をなくしていった。ライブをするたびに、技術のある人を目の当たりにする。自分だってと努力しても、追いつけなかった。だんだん年下の奴らにも負けていくような気がした。自分の方がギター歴は長いはずなのに。才能がないのかと落ち込んだ。


 自分に才能がないとは認めたくない。今でもそうだ。だけど、ライブ会場に行こうとすると、足がすくむ。きっと、自分に足りないのは精神力なんだと思った。


 ライブの日程は近かったはずだ。メンバーとの音合わせもしなければ。そんなことを思いながら仕事をしていたような気がする。今日の記憶はそこまでだ。


「ざざざっ」


 不快な音が耳に入った。一瞬助けが来たのかと思ったが、ぬか喜びだった。目の前にはブラウン管のテレビ。映るのは砂嵐。さっきからこんなのあったっけなと思いながら、砂嵐を眺めていた。


 うっすらと人が映っている。目を凝らすが、誰が何をしているのかわからない。画面中央に1人だけいるようだ。右下には2:35の赤い数字。時計だろうか。昼間なのか深夜なのか判断がつかなかった。


 徐々に人影が鮮明になってきた。画面中央を注視していると、目を疑った。映っているのは自分なのだ。木製の椅子に座り、手足をベルトで縛られている。椅子のすぐ後ろに柱が2本あり、そこに結びつけられているのだ。足は椅子の脚に結ばれていた。足首から膝下まで、ぐるぐるとベルトが巻かれている。


 両手両足から血が滴っていて、見るに痛々しい。首にもベルトが巻いてあり、固定されていた。首からは血がでていないので、ここには棘がないのだろう。


 どこで撮っているのかと、カメラを探した。正面にあるはずだ。映っている様子から、カメラの位置を想定した。だけど、そこにカメラらしきものはない。木目のある壁があるだけだ。


 テレビにもう一度目を落とす。…何かがおかしい。テレビの中の自分は下を向いていないか。首を固定されているのだから、下を向けるはずがない。事実、左右にしか首は動かない。


 テレビの中の自分は、数秒下を向いて、息苦しそうに顔を上げる。その後、また下を向くのだ。どういうことだろう。


 気味が悪くなって、逃げようとした。だけど、手足から全身に痛みが走るのは変わらなかった。だけど、何度もやれば抜け出せるかもしれない。痛みに耐えながら、手足を動かした。


 痛みが麻痺してきたような気がした。このままだと、手足がなくなってしまうかもしれない。ギターが弾けないじゃないか。いや、手足がなくとも生きていればなんとかなる。麻痺しているうちに逃げ出そう。


 そう思った瞬間、ふっと下腹部が目に入った。…あれ?首の紐が緩んだのか、下を向いているのだ。だけど、紐が食い込んで苦しい。慌てて頭を上げると、画面の中の自分が下を向きながら足をバタつかせていた。足が動くたび、血が流れ出る。


 …待てよ。これって、もしかして、逃げるのを諦めた自分じゃないのか。逃げられないと悟ったとき、どうするだろう。延々と続く地獄に耐えるのであれば、死を選ぶかもしれない。このまま助けが来なかったら、きっと餓死だ。餓死するまでに何日かかるのだろう。そうであれば、首を吊って死んだ方がマシな気がする。いかにも諦めた自分が考えそうなことだ。


 テレビを眺めた。次第に足の動きが鈍くなっていく。椅子には水が滴った。そのまま痙攣して、動かなくなった。右下の赤い数字は、2:43になっていた。さっきは2:35だったはずだから、8分。もしかしたら8分後、自分は死んでいるのではないか。


 …もし諦めなければ。


 今までの自分は、諦め続けてきたかもしれない。だからこれは、諦めるなということなのか。何のためにこんなことをする必要があるんだ。誰かに恨まれているのか。自分を恨んでいそうな人を思い浮かべると、何人もいてうんざりした。いくら恨んでいるからって、この仕打ちはないのではないか。殺すほど恨んでいるのか。


 勢いをつけて手足を動かした。


「……!!」


 言葉にならない激痛が走る。もうやめてくれよ…。俺が何をしたっていうんだよ…。


 視界に黒い影が動いた。視線を正面にやると、テレビの中には黒装束の人間が3人いた。笑い声をあげながら、動かない俺を見ている。しばらく笑った後、俺の手足に結んであるベルトをほどき始めた。


 あいつらが俺を殺そうとしている奴らか。あいつらを先に見つけ出せれば。どこから出てきたんだ?どこに入り口がある?


 動かせる限り頭を左右にやって目を凝らしても、もう一度テレビを凝視しても、入り口は見当たらない。時間は2:45。諦めないぞ。俺はあいつらに負けない。


「橋爪ぇ…」


 テレビの中の黒装束が、こちらを向いて話しかけた。


「よくも俺の弟を殺しながら、のうのうと生きていられるよな。覚えてない?『才能ない奴は死ね』って言ったの。ギターの才能とか、お前にゃ皆無なのにな。その後SNSにもデタラメばっか書きやがって。お前の火種のせいで、格好の餌食だったなぁ。弟は自殺したよ」


 そんな記憶は、うっすらあるようなないような話だった。俺より年下の奴が上手くて、むしゃくしゃしたのは覚えている。それを言葉にしたのも、SNSに書いたのも。だけど、相手が誰だったかなんて覚えていない。なぜなら、両手じゃ数え切れないくらいいるのだから。


「これは5分後の映像だよ。お前は5分後、俺たちに遺体処理され始めるんだ。せいぜいそれを待っておくんだな。弟…亘輝に死んで詫びろよ」


 5分後だというのであれば、テレビの中の俺は何時から諦めたのだろう。そう遠くない未来だというのか。そんなわけはない。だって俺は、まだ諦めていないのだから。


「…あ゛あ゛!!!」


 手足の痛みは限界だ。麻痺しても痛むものなのか。もう手足に力が入らない。手足を自分でちぎるほど、残酷なものはあるのだろうか。どのみち手足は使い物にならないのではないか。


 呆然としたままテレビを眺めた。ぐったりした俺が、横たわっている。黒装束は透明な液体を部屋中に撒き、画面からいなくなった。その後、煙が出てきた。画面の隅で炎がチラついている。黒装束が出た扉は、どこだったのだろう。


 名前を聞いてもピンと来なかった。俺は誰を殺したのだろうか。謝ったら助けてもらえるのだろうか。5分後に死んでいるのだから、意味はない。俺はここで死ぬのか。


 焦げ臭い匂いがした。テレビからの匂い…なわけがなかった。部屋の隅が燃えている。5分後の世界を映すテレビなんてあり得ないか、と1人笑った。だったら、さっき謝れば許してもらえたのかもしれない。今謝っても無駄だ。もう火の手は止められない。俺がガソリンを撒いたんだ。


 目の前に死が迫っているというのに、俺は冷静だった。火の手が迫ったときも、冷静でいられるのかはわからない。そのとき俺は、自ら首を吊るのかもしれない。5分後の世界は、そのとき初めて現実になるのかもしれない。

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